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13/21

お前は、誰だ

今日から朝7時10分に投稿します。よろしくお願いします。

その夜。


食堂の灯りが落ちたあと、じいさんは、黙って裏口から出ていった。


俺は、少し間を置いてから、そのあとを追った。


じいさんは、村はずれの、小さな丘の上にいた。


一本だけ立っている大きな木の根元に、腰を下ろしている。


空には、二つの月。大きな白い月と、少し小さな青い月。満月を過ぎたばかりの白い月が、丘の草を、銀色に光らせていた。


「来たか」


じいさんは、振り返らずに言った。


「座れ」


俺は、少し離れた草の上に、腰を下ろした。


正座で。


上司や、取引先の担当者に呼び出されて、大事な話をする時は正座だった。


じいさんは上司ではないが、取引先の役員のようなもんだろう。だったら正座。常識だ。


じいさんは、それを見て、ほんの少しだけ、目を細めた。


 ◇


しばらく、どちらも黙っていた。


虫の声が、草むらのあちこちから聞こえる。遠くで、ふくろうが鳴いた。


やがて、じいさんが、口を開いた。


「わしはな、カイが赤ん坊の頃から、あの子を知っておる」


静かな声だった。


「雪の朝、村の入口に置かれていた、あの籠の中の赤ん坊を、最初に抱き上げたのは、わしだ。泣きもせんで、じっとこっちを見ておった。妙に肝の据わった赤ん坊だと思ったよ」


じいさんは、月を見上げた。


「歩き方も、笑い方も、怒り方も。木の登り方も、短剣の握り方も。罠の見つけ方も、足跡の読み方も。全部、わしが見てきた。いくつかは、わしが教えた」


それから、ゆっくりと、俺のほうを向いた。


「だから、わかる」


月明かりに照らされたその目は、もう、値踏みをしていなかった。


ただ、まっすぐに、俺を見ていた。


「お前は、カイではないな」


 ◇


心臓が、一度、大きく跳ねた。


それから、不思議と、静かになった。


ああ、やっぱり。


そう思った。


この人には、最初から、わかっていたのだ。


「くくり罠に気づかなかった。足跡を、逆に読んだ。鍵開けは、考えるとできんのに、考えるのをやめると、指が勝手に開けた。体は覚えておるのに、頭が知らん」


じいさんは、指を一本ずつ折りながら、静かに続けた。


「杖の合図に、『リズム感がいい』と返した。あれは、カイとわしの間でだけ通じる合図だ。三度叩かれたら、二度返す。カイは、十二の頃から、一度も間違えたことがない」


二本目の指が、折られた。


「樫の木の下で、わしは、お前さんを見失った。目の前にいたはずなのに、だ。わしは、五十年、人の気配を読んで生きてきた。その目で、見失ったのは、生まれて初めてだ」


三本目。


「それに、話し方。笑い方。カイは、あんなふうに笑わん。客に、腰を九十度に曲げたりもせん」


四本目。


「そして、今」


じいさんは、俺の膝を見た。


「その座り方。カイは、そんな座り方は、一度もしたことがない」


五本の指が、すべて折られた。


「お前は、誰だ」


 ◇


俺は、膝の上で、両手を握りしめた。


ごまかすことは、できた。


頭を打って、忘れたんです。崖から落ちて、何もかもわからなくなったんです。そう言い続けることは、できた。


頭の中で、冷たい計算が回り始めていた。


本当のことを言ったら、どうなる。カイの体を乗っ取った、得体の知れないもの。屍鬼と、何が違う。この村を追い出される。ハンナさんの食堂にも、屋根裏の寝床にも、二度と戻れない。悪くすれば、ここで、あの仕込み杖に斬られる。


嘘を続ければ、少なくとも、今夜は無事だ。


でも、計算は、もう一つの答えも出していた。


この人は、もう、答えを持っている。指を五本折って、全部、言い当てた。答えを知っている相手に嘘を重ねても、信用を削るだけだ。それは、前の人生で、嫌というほど見てきた。


……最低だな、と思った。


本当のことを言おうとしている理由の半分が、自己保身のため、なんて。


でも。


今日、崖の上で見た、刃の跡。


苔の剥がれた岩。最後まで、落ちまいとした、カイの手の跡。


そして、この人の目。


赤ん坊のカイを、最初に抱き上げた人の目。


この人に、これ以上、嘘をつき続けることは、できなかった。


カイのためにも。


「……信じてもらえないと、思いますけど」


声が、かすれた。


「俺は、この世界の人間じゃ、ありません」


じいさんの表情は、変わらなかった。


ただ、黙って、続きを待っていた。


俺は、話した。


日本という国のこと。そこで、二十七年間、生きてきたこと。


会社という場所で、毎日、夜遅くまで働いていたこと。怒鳴られないように、目立たないように、気配を消して生きてきたこと。


三年前に、両親を亡くしたこと。


九つ下の妹がいること。ひなたという名前であること。


その妹の誕生日に、母さんのカレーを作ろうとして、材料を買いに行った帰り道。


トラック――鉄でできた、家ほどもある大きな荷車が、突っこんできたこと。


妹の腕を引いて、突き飛ばしたこと。


そして、気がついたら、暗い場所を流されていて。


目を開けたら、棺の中にいたこと。


話しているうちに、声が震えてきた。


ひなたの名前を口にした時、喉の奥が、ぎゅっと詰まった。


「……カイの体を、勝手に借りているんです。カイの名前で呼ばれて、カイの家族に、ごはんを作ってもらって」


俺は、草の上に、両手をついた。


頭を、下げた。


九十度でも、十五度でもなかった。額が、草につくほど、深く。


「黙っていて、すみませんでした」


 ◇


長い沈黙だった。


虫の声だけが、聞こえていた。


やがて、頭の上で、じいさんが、大きく息を吐く音がした。


「……顔を上げろ」


俺は、ゆっくりと顔を上げた。


じいさんは、月を見上げていた。


「わしは、五十年あちこちを旅して、いろんなものを見てきた。だが、そんな話は、聞いたことがない」


それから、ぽつりと続けた。


「……いや。一つだけ、聞いたことがあるな。古い言い伝えだ。ごくまれに、死にかけて、まるで人が変わったようになる者がいる、と」


じいさんは、首を振った。


「わしには、判断がつかん。お前さんが何者なのか。お前さんの言う、そのニホンとやらが何なのか。わしの手には、余る」


「……」


「だから、書庫の賢者に、見てもらう」


書庫の賢者。


ゆうべ、灰色の鳥に結ばれた手紙の、宛名。


「ゆうべの手紙は、そのためだったんですか」


じいさんの眉が、ぴくりと動いた。


それから、苦笑した。


「……見ておったのか」


「すみません。後ろに、立ってました」


「後ろに?」


「すぐ後ろに。肩越しに、宛名を」


じいさんは、しばらく、あっけにとられた顔で俺を見ていた。


それから、くっくっと、喉の奥で笑い出した。


「わしの、すぐ後ろにか。……まったく。とんでもない若造を拾ってしまったもんだ」


その笑い声は、宴の夜の作り笑いとは、違って聞こえた。


 ◇


笑いが収まると、じいさんは、居住まいを正した。


「お前さんは、話してくれた。だから、わしも話そう」


その声が、低くなった。


「カイの、秘密だ」


俺は、背筋を伸ばした。


「お前さん、カイの手帳の裏表紙を見たか。ランタンの中で燃える、炎の紋章を」


「……はい。『書庫へ報告すること。灯は消さない』って」


じいさんは、うなずいた。


それから、懐に手を入れ、小さな銀の徽章を取り出した。


月明かりに、きらりと光る。


ランタンの中で燃える、一つの炎。


手帳の裏表紙に描かれていたのと、まったく同じ紋章だった。


「灯守《ひもり》」


じいさんは、その言葉を、大切なものを扱うように、静かに口にした。


「ずっと昔から、この世の陰で、ある異変を見張ってきた者たちの集まりだ。表には出ん。名前を知っている者も、ほとんどおらん。」


「……ギルさんも、その一人なんですか」


「古株の一人だ。各地を旅しておるのは、そのためだ。土産話を集めるためではない」


じいさんは、徽章を手のひらに乗せたまま、じっと見つめた。


「そして、カイも、灯守の一人だった」


息が、止まった。


「カイを、灯守に引き入れたのは、わしだ」


 ◇


「カイが十五で鑑定を受けて、盗賊と出た時、わしは、これだと思った」


じいさんは、遠くを見るような目をした。


「身軽で、目と耳がよくて、何より、口が固い。辺境の見張り役には、うってつけだった。わしは、あの子に見回りを教え、記録のつけ方を教え、灯守の合図を教えた。あの引き出しの二重底も、わしが作り方を教えたものだ」


だから、じいさんは、迷わずに二重底を開けたのだ。


「ここ何年か、各地で、妙な魔物が増えておる。もとからおる魔物が、角を増やし、図体を大きくし、手がつけられんほど凶暴になる。角が三本に増えたビッグボア、群れの頭が倍に育ったダイアウルフ、背中に棘の生えたアーマーベア。わしらは、それを『変異種』と呼んでおる。カイの仕事は、この村のまわりの変異を記録して、書庫に報告することだった。書庫はこの世界の各地にある。報告は、書庫から書庫へ渡って、書庫の賢者のもとへ届く」


「手帳の、記録……」


「そうだ。日付、場所、魔物の特徴。それを、月に一度、鳥で送る」


じいさんは、少し間を置いた。


「だが、弱点までは、頼んでおらん」


「え?」


「魔物の弱点を調べて、書き留めて、倒し方まで考える。それは、灯守の仕事ではない。カイが、自分で始めたことだ」


じいさんの声が、かすかに揺れた。


「村を、守りたかったんだろう。ハンナと、クレアと、この村を。記録をつけて報告するだけでは、満足できんかった。あの子は、昔から、そういう子だった。自分のことより、人のことばかりで」


俺は、懐の手帳に、そっと手を当てた。


弱点の書かれたページ。


『火を嫌う』『前足を上げた瞬間が狙い目』『光に弱い』。


あれは、誰に頼まれたのでもなく、カイが、自分で選んでやっていた仕事だったのだ。


――生まれて初めて、俺が、自分で選ぶ仕事だ。


ビッグボアを倒した夜、屋根裏で、俺がそう思ったのと、同じように。


 ◇


「わしが村に帰ってきたのはな」


じいさんが、続けた。


「カイの鳥が何も持たず帰ってきたからだ」


鳥というのは、じいさんが手紙を送る時に使った灰色の鳥のことだろうか。


「あの鳥は灯守一人ひとりに、一羽ついておる。報告を持ってくるはずの鳥が、手ぶらで飛んでくるということは、主人の危機を知らせる時だけだ」


「……」


「それと、カイの最後の報告には、こうあったそうだ。『次の報告で、大事なことを知らせる』と」


次の報告。


雨ににじんだ、手帳の最後のページ。


『点をつなぐと――』


「その次の報告は、届いておらん」


じいさんは、手帳のあるあたりを、ちらりと見た。


「カイは、何かに気づいた。大事なことに。それを報告する前に、殺された」


月が、雲に隠れた。


丘の上が、少しだけ、暗くなった。


「……わしが、あの子を、灯守に誘わなければ」


じいさんの声が、かすれた。


「辺境の、ただの『村の目』のままでいさせてやれば。あの子は、今も、生きておったかもしれん」


じいさんは、銀の徽章を、ぎゅっと握りしめた。


その拳が、震えていた。


「カイを死なせたのは、わしだ」


 ◇


俺は、何も言えなかった。


ゆうべ、井戸のそばで聞いた、「すまんな、カイ」という声。


あれは、このことだったのだ。


慰めの言葉は、いくつも頭に浮かんだ。


じいさんのせいじゃない。悪いのは、カイを殺したやつだ。


でも、どれも、口に出したら、軽すぎる気がした。


俺たちは黙って、座っていた。


しばらくして、雲が流れ、また月が顔を出した。


じいさんが、大きく息を吐いた。


「……年寄りの愚痴だ。忘れろ」


「忘れません」


俺は、言った。


「カイが、何に気づいたのか。誰に殺されたのか。俺も、知りたいです」


じいさんが、俺を見た。


「カイの手帳は、俺が持っています。屋根裏の二重底から、俺が見つけました。黙っていて、すみません」


懐から、手帳を取り出して、じいさんの前に差し出した。


じいさんは、手帳を見つめた。


でも、受け取らなかった。


「それは、お前さんが持っておれ」


「でも、これは灯守の――」


「カイは、それを、命がけで守った。二重底に隠して、誰にも渡さんようにした。その手帳が、お前さんの手に渡った」


じいさんは、ゆっくりと首を振った。


「それに、お前さんは、その手帳で、ビッグボアを倒し、ダイアウルフを倒し、クレアとポポを守った。カイが、一番やりたかったことを、お前さんが、やった」


それから、ほんの少しだけ、笑った。


「書庫の賢者のところへは、お前さん自身が、届けに行け。カイの、最後の報告をな」


 ◇


その時。


背後の茂みで、がさり、と音がした。


俺とじいさんは、同時に振り返った。


月明かりの中、茂みの陰に、人影が立っていた。


高く結んだ髪が、月明かりに、金色に透けている。


クレアだった。


顔が、真っ白だった。


両手で、胸の前に、何かを抱きしめている。


布の包み。『クレアへ』と書かれた、カイの包み。


「……クレア」


じいさんが、かすれた声で呼んだ。


クレアは、答えなかった。


ただ、俺を見ていた。


大きく見開かれた目で。


信じられないものを見るような目で。


唇を、きつく噛みしめていた。噛んだところに、血がにじんでいる。


泣き声も、怒鳴り声も、全部、その唇の内側に押しこめているみたいだった。


いつから、そこにいたのだろう。


どこから、聞いていたのだろう。


カイの中身が別人だということは、クレアも、もう知っている。宴の夜、食堂の裏で、二人だけで決めたことだ。


でも。


日本のこと。妹のこと。カイが、崖で殺されたこと。じいさんが、カイを灯守に誘ったこと。


全部、聞かれていた。


その目を見れば、わかった。


「クレア、俺は――」


俺が立ち上がりかけた瞬間、クレアは、くるりと背を向けた。


そして、走り出した。


草を蹴る足音が、丘の下へ、遠ざかっていく。


俺は、その場に、立ちつくしていた。


月明かりの中、クレアの足音だけが、いつまでも、耳に残っていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


もし少しでも「面白い!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、


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作者のモチベーションが爆上がりし、更新速度が上がります!


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次回は、明日の【朝7時10分頃】に更新予定です。引き続きよろしくお願いいたします!

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