お前は、誰だ
今日から朝7時10分に投稿します。よろしくお願いします。
その夜。
食堂の灯りが落ちたあと、じいさんは、黙って裏口から出ていった。
俺は、少し間を置いてから、そのあとを追った。
じいさんは、村はずれの、小さな丘の上にいた。
一本だけ立っている大きな木の根元に、腰を下ろしている。
空には、二つの月。大きな白い月と、少し小さな青い月。満月を過ぎたばかりの白い月が、丘の草を、銀色に光らせていた。
「来たか」
じいさんは、振り返らずに言った。
「座れ」
俺は、少し離れた草の上に、腰を下ろした。
正座で。
上司や、取引先の担当者に呼び出されて、大事な話をする時は正座だった。
じいさんは上司ではないが、取引先の役員のようなもんだろう。だったら正座。常識だ。
じいさんは、それを見て、ほんの少しだけ、目を細めた。
◇
しばらく、どちらも黙っていた。
虫の声が、草むらのあちこちから聞こえる。遠くで、ふくろうが鳴いた。
やがて、じいさんが、口を開いた。
「わしはな、カイが赤ん坊の頃から、あの子を知っておる」
静かな声だった。
「雪の朝、村の入口に置かれていた、あの籠の中の赤ん坊を、最初に抱き上げたのは、わしだ。泣きもせんで、じっとこっちを見ておった。妙に肝の据わった赤ん坊だと思ったよ」
じいさんは、月を見上げた。
「歩き方も、笑い方も、怒り方も。木の登り方も、短剣の握り方も。罠の見つけ方も、足跡の読み方も。全部、わしが見てきた。いくつかは、わしが教えた」
それから、ゆっくりと、俺のほうを向いた。
「だから、わかる」
月明かりに照らされたその目は、もう、値踏みをしていなかった。
ただ、まっすぐに、俺を見ていた。
「お前は、カイではないな」
◇
心臓が、一度、大きく跳ねた。
それから、不思議と、静かになった。
ああ、やっぱり。
そう思った。
この人には、最初から、わかっていたのだ。
「くくり罠に気づかなかった。足跡を、逆に読んだ。鍵開けは、考えるとできんのに、考えるのをやめると、指が勝手に開けた。体は覚えておるのに、頭が知らん」
じいさんは、指を一本ずつ折りながら、静かに続けた。
「杖の合図に、『リズム感がいい』と返した。あれは、カイとわしの間でだけ通じる合図だ。三度叩かれたら、二度返す。カイは、十二の頃から、一度も間違えたことがない」
二本目の指が、折られた。
「樫の木の下で、わしは、お前さんを見失った。目の前にいたはずなのに、だ。わしは、五十年、人の気配を読んで生きてきた。その目で、見失ったのは、生まれて初めてだ」
三本目。
「それに、話し方。笑い方。カイは、あんなふうに笑わん。客に、腰を九十度に曲げたりもせん」
四本目。
「そして、今」
じいさんは、俺の膝を見た。
「その座り方。カイは、そんな座り方は、一度もしたことがない」
五本の指が、すべて折られた。
「お前は、誰だ」
◇
俺は、膝の上で、両手を握りしめた。
ごまかすことは、できた。
頭を打って、忘れたんです。崖から落ちて、何もかもわからなくなったんです。そう言い続けることは、できた。
頭の中で、冷たい計算が回り始めていた。
本当のことを言ったら、どうなる。カイの体を乗っ取った、得体の知れないもの。屍鬼と、何が違う。この村を追い出される。ハンナさんの食堂にも、屋根裏の寝床にも、二度と戻れない。悪くすれば、ここで、あの仕込み杖に斬られる。
嘘を続ければ、少なくとも、今夜は無事だ。
でも、計算は、もう一つの答えも出していた。
この人は、もう、答えを持っている。指を五本折って、全部、言い当てた。答えを知っている相手に嘘を重ねても、信用を削るだけだ。それは、前の人生で、嫌というほど見てきた。
……最低だな、と思った。
本当のことを言おうとしている理由の半分が、自己保身のため、なんて。
でも。
今日、崖の上で見た、刃の跡。
苔の剥がれた岩。最後まで、落ちまいとした、カイの手の跡。
そして、この人の目。
赤ん坊のカイを、最初に抱き上げた人の目。
この人に、これ以上、嘘をつき続けることは、できなかった。
カイのためにも。
「……信じてもらえないと、思いますけど」
声が、かすれた。
「俺は、この世界の人間じゃ、ありません」
じいさんの表情は、変わらなかった。
ただ、黙って、続きを待っていた。
俺は、話した。
日本という国のこと。そこで、二十七年間、生きてきたこと。
会社という場所で、毎日、夜遅くまで働いていたこと。怒鳴られないように、目立たないように、気配を消して生きてきたこと。
三年前に、両親を亡くしたこと。
九つ下の妹がいること。ひなたという名前であること。
その妹の誕生日に、母さんのカレーを作ろうとして、材料を買いに行った帰り道。
トラック――鉄でできた、家ほどもある大きな荷車が、突っこんできたこと。
妹の腕を引いて、突き飛ばしたこと。
そして、気がついたら、暗い場所を流されていて。
目を開けたら、棺の中にいたこと。
話しているうちに、声が震えてきた。
ひなたの名前を口にした時、喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「……カイの体を、勝手に借りているんです。カイの名前で呼ばれて、カイの家族に、ごはんを作ってもらって」
俺は、草の上に、両手をついた。
頭を、下げた。
九十度でも、十五度でもなかった。額が、草につくほど、深く。
「黙っていて、すみませんでした」
◇
長い沈黙だった。
虫の声だけが、聞こえていた。
やがて、頭の上で、じいさんが、大きく息を吐く音がした。
「……顔を上げろ」
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
じいさんは、月を見上げていた。
「わしは、五十年あちこちを旅して、いろんなものを見てきた。だが、そんな話は、聞いたことがない」
それから、ぽつりと続けた。
「……いや。一つだけ、聞いたことがあるな。古い言い伝えだ。ごくまれに、死にかけて、まるで人が変わったようになる者がいる、と」
じいさんは、首を振った。
「わしには、判断がつかん。お前さんが何者なのか。お前さんの言う、そのニホンとやらが何なのか。わしの手には、余る」
「……」
「だから、書庫の賢者に、見てもらう」
書庫の賢者。
ゆうべ、灰色の鳥に結ばれた手紙の、宛名。
「ゆうべの手紙は、そのためだったんですか」
じいさんの眉が、ぴくりと動いた。
それから、苦笑した。
「……見ておったのか」
「すみません。後ろに、立ってました」
「後ろに?」
「すぐ後ろに。肩越しに、宛名を」
じいさんは、しばらく、あっけにとられた顔で俺を見ていた。
それから、くっくっと、喉の奥で笑い出した。
「わしの、すぐ後ろにか。……まったく。とんでもない若造を拾ってしまったもんだ」
その笑い声は、宴の夜の作り笑いとは、違って聞こえた。
◇
笑いが収まると、じいさんは、居住まいを正した。
「お前さんは、話してくれた。だから、わしも話そう」
その声が、低くなった。
「カイの、秘密だ」
俺は、背筋を伸ばした。
「お前さん、カイの手帳の裏表紙を見たか。ランタンの中で燃える、炎の紋章を」
「……はい。『書庫へ報告すること。灯は消さない』って」
じいさんは、うなずいた。
それから、懐に手を入れ、小さな銀の徽章を取り出した。
月明かりに、きらりと光る。
ランタンの中で燃える、一つの炎。
手帳の裏表紙に描かれていたのと、まったく同じ紋章だった。
「灯守」
じいさんは、その言葉を、大切なものを扱うように、静かに口にした。
「ずっと昔から、この世の陰で、ある異変を見張ってきた者たちの集まりだ。表には出ん。名前を知っている者も、ほとんどおらん。」
「……ギルさんも、その一人なんですか」
「古株の一人だ。各地を旅しておるのは、そのためだ。土産話を集めるためではない」
じいさんは、徽章を手のひらに乗せたまま、じっと見つめた。
「そして、カイも、灯守の一人だった」
息が、止まった。
「カイを、灯守に引き入れたのは、わしだ」
◇
「カイが十五で鑑定を受けて、盗賊と出た時、わしは、これだと思った」
じいさんは、遠くを見るような目をした。
「身軽で、目と耳がよくて、何より、口が固い。辺境の見張り役には、うってつけだった。わしは、あの子に見回りを教え、記録のつけ方を教え、灯守の合図を教えた。あの引き出しの二重底も、わしが作り方を教えたものだ」
だから、じいさんは、迷わずに二重底を開けたのだ。
「ここ何年か、各地で、妙な魔物が増えておる。もとからおる魔物が、角を増やし、図体を大きくし、手がつけられんほど凶暴になる。角が三本に増えたビッグボア、群れの頭が倍に育ったダイアウルフ、背中に棘の生えたアーマーベア。わしらは、それを『変異種』と呼んでおる。カイの仕事は、この村のまわりの変異を記録して、書庫に報告することだった。書庫はこの世界の各地にある。報告は、書庫から書庫へ渡って、書庫の賢者のもとへ届く」
「手帳の、記録……」
「そうだ。日付、場所、魔物の特徴。それを、月に一度、鳥で送る」
じいさんは、少し間を置いた。
「だが、弱点までは、頼んでおらん」
「え?」
「魔物の弱点を調べて、書き留めて、倒し方まで考える。それは、灯守の仕事ではない。カイが、自分で始めたことだ」
じいさんの声が、かすかに揺れた。
「村を、守りたかったんだろう。ハンナと、クレアと、この村を。記録をつけて報告するだけでは、満足できんかった。あの子は、昔から、そういう子だった。自分のことより、人のことばかりで」
俺は、懐の手帳に、そっと手を当てた。
弱点の書かれたページ。
『火を嫌う』『前足を上げた瞬間が狙い目』『光に弱い』。
あれは、誰に頼まれたのでもなく、カイが、自分で選んでやっていた仕事だったのだ。
――生まれて初めて、俺が、自分で選ぶ仕事だ。
ビッグボアを倒した夜、屋根裏で、俺がそう思ったのと、同じように。
◇
「わしが村に帰ってきたのはな」
じいさんが、続けた。
「カイの鳥が何も持たず帰ってきたからだ」
鳥というのは、じいさんが手紙を送る時に使った灰色の鳥のことだろうか。
「あの鳥は灯守一人ひとりに、一羽ついておる。報告を持ってくるはずの鳥が、手ぶらで飛んでくるということは、主人の危機を知らせる時だけだ」
「……」
「それと、カイの最後の報告には、こうあったそうだ。『次の報告で、大事なことを知らせる』と」
次の報告。
雨ににじんだ、手帳の最後のページ。
『点をつなぐと――』
「その次の報告は、届いておらん」
じいさんは、手帳のあるあたりを、ちらりと見た。
「カイは、何かに気づいた。大事なことに。それを報告する前に、殺された」
月が、雲に隠れた。
丘の上が、少しだけ、暗くなった。
「……わしが、あの子を、灯守に誘わなければ」
じいさんの声が、かすれた。
「辺境の、ただの『村の目』のままでいさせてやれば。あの子は、今も、生きておったかもしれん」
じいさんは、銀の徽章を、ぎゅっと握りしめた。
その拳が、震えていた。
「カイを死なせたのは、わしだ」
◇
俺は、何も言えなかった。
ゆうべ、井戸のそばで聞いた、「すまんな、カイ」という声。
あれは、このことだったのだ。
慰めの言葉は、いくつも頭に浮かんだ。
じいさんのせいじゃない。悪いのは、カイを殺したやつだ。
でも、どれも、口に出したら、軽すぎる気がした。
俺たちは黙って、座っていた。
しばらくして、雲が流れ、また月が顔を出した。
じいさんが、大きく息を吐いた。
「……年寄りの愚痴だ。忘れろ」
「忘れません」
俺は、言った。
「カイが、何に気づいたのか。誰に殺されたのか。俺も、知りたいです」
じいさんが、俺を見た。
「カイの手帳は、俺が持っています。屋根裏の二重底から、俺が見つけました。黙っていて、すみません」
懐から、手帳を取り出して、じいさんの前に差し出した。
じいさんは、手帳を見つめた。
でも、受け取らなかった。
「それは、お前さんが持っておれ」
「でも、これは灯守の――」
「カイは、それを、命がけで守った。二重底に隠して、誰にも渡さんようにした。その手帳が、お前さんの手に渡った」
じいさんは、ゆっくりと首を振った。
「それに、お前さんは、その手帳で、ビッグボアを倒し、ダイアウルフを倒し、クレアとポポを守った。カイが、一番やりたかったことを、お前さんが、やった」
それから、ほんの少しだけ、笑った。
「書庫の賢者のところへは、お前さん自身が、届けに行け。カイの、最後の報告をな」
◇
その時。
背後の茂みで、がさり、と音がした。
俺とじいさんは、同時に振り返った。
月明かりの中、茂みの陰に、人影が立っていた。
高く結んだ髪が、月明かりに、金色に透けている。
クレアだった。
顔が、真っ白だった。
両手で、胸の前に、何かを抱きしめている。
布の包み。『クレアへ』と書かれた、カイの包み。
「……クレア」
じいさんが、かすれた声で呼んだ。
クレアは、答えなかった。
ただ、俺を見ていた。
大きく見開かれた目で。
信じられないものを見るような目で。
唇を、きつく噛みしめていた。噛んだところに、血がにじんでいる。
泣き声も、怒鳴り声も、全部、その唇の内側に押しこめているみたいだった。
いつから、そこにいたのだろう。
どこから、聞いていたのだろう。
カイの中身が別人だということは、クレアも、もう知っている。宴の夜、食堂の裏で、二人だけで決めたことだ。
でも。
日本のこと。妹のこと。カイが、崖で殺されたこと。じいさんが、カイを灯守に誘ったこと。
全部、聞かれていた。
その目を見れば、わかった。
「クレア、俺は――」
俺が立ち上がりかけた瞬間、クレアは、くるりと背を向けた。
そして、走り出した。
草を蹴る足音が、丘の下へ、遠ざかっていく。
俺は、その場に、立ちつくしていた。
月明かりの中、クレアの足音だけが、いつまでも、耳に残っていた。
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