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カイの代わりなんていらない

「行ってやれ」


じいさんが、低く言った。


「わしが行っても、あの子は何も話さん。お前さんが行け」


俺は、丘を駆け下りた。


 ◇


クレアは、村の東を流れる川のほとりにいた。


大きな平たい岩の上に、膝を抱えて座っている。胸の前には、カイの包み。


川面に、二つの月が映って、揺れていた。


俺は、少し離れたところで、足を止めた。


なんと声をかければいいのか、わからなかった。


「……来ないでって言っても、来るんでしょ」


クレアが、こちらを見ないまま言った。


「隠れるの、得意だもんね。来ないでって言っても、どうせ、消えて、そのへんに立ってるんでしょ」


「……今は、消えてないよ」


「そう」


俺は、クレアの隣の岩に、腰を下ろした。


少しだけ、間を空けて。


川の音が、二人の間を流れていった。


 ◇


「カイは、もういないんだね」


クレアが、ぽつりと言った。


川面の月を、じっと見つめたまま。


「……ああ」


嘘は、つけなかった。


「どこに、行ったの」


「わからない」


俺は、正直に答えた。


「俺が目を覚ました時には、もう、この体の中に、カイはいなかった。カイがどこへ行ったのか、俺には、わからない」


クレアは、何も言わなかった。


膝を抱える腕に、ぎゅっと力がこもった。


「……宴の夜、あんたに聞いたでしょ。本当は、誰なのって」


小さな声だった。


「あの時、あんたは、前のカイの記憶は、ほとんどないって言った。ほとんど、って」


クレアの声が、震え始めた。


「だから、どこかで、思ってたの。あんたの奥のどこかで、カイが眠ってて、そのうち、ひょっこり起きてくるんじゃないかって。九十度のお辞儀も、昼寝して泣くのも、ポポと本気でかくれんぼするのも、全部カイじゃないって、わかってたのに」


「……ごめん」


「でも、カイは、崖で殺されてた。あんたが来るより、前に」


クレアが、顔を上げた。


月明かりの中で、その頬が、濡れていた。


「わかりたくなかった。わかったら、カイが、本当に死んじゃうから」


 ◇


クレアは、泣いていた。


声を殺して。肩を震わせて。


カイの包みを、胸に抱きしめたまま。


俺は、何もできなかった。


この子が泣いているのは、カイのためだ。そして、カイを奪ったのは、半分は、俺だ。俺がこの体に入らなければ、少なくとも、カイの体は、ちゃんと埋葬されて、ちゃんと、お別れができたのに。


「……殴っていいよ」


俺は、言った。


「葬式の日みたいに。気が済むまで、殴っていい」


クレアは、涙に濡れた目で、俺をにらんだ。


そして、右手を振りかぶった。


俺は、目を閉じた。


歯を食いしばる。


……衝撃は、来なかった。


目を開けると、クレアの右手は、宙で止まっていた。


震えていた。


それから、ゆっくりと、下ろされた。


「……殴らない」


「なんで」


「殴ったら、あんたを、カイの代わりにしちゃう気がするから」


クレアは、乱暴に、袖で涙をぬぐった。


「葬式の日、あたしは、カイを叩いたつもりだった。死んだと思ったでしょって。ばかって。でも、叩いたのは、あんただった」


クレアは、まっすぐに、俺を見た。


「カイの代わりなんて、いらない」


その言葉は、冷たくなかった。


突き放すようでいて、どこか、違っていた。


「あんたは、カイじゃない。カイの代わりでもない。だから、カイの代わりに、殴られたりしなくていい。カイの代わりに、謝ったりもしなくていい」


クレアの声が、少しだけ、やわらかくなった。


「あんたは、あんたでしょ」


俺は、何も言えなかった。


胸の奥で、何かが、ほどけていく気がした。


この世界に来てから、ずっと、誰かの代わりだった。


カイの名前で呼ばれ、カイの家族に囲まれ、カイの仕事を継いで。それは、自分で選んだことだ。後悔はしていない。


でも、心のどこかで、ずっと思っていた。


俺は、ここにいていいんだろうか、と。


カイの居場所を、横取りしているだけなんじゃないか、と。


――あんたは、あんたでしょ。


その一言が、こんなにも、胸にしみるなんて。


「……ありがとう」


ようやく、それだけ言えた。


「お礼を言われることじゃない」


クレアは、ふいっと顔をそむけた。


でも、その耳が、月明かりの中で、少しだけ赤くなっているように見えた。


 ◇


しばらくして、クレアが、ぽつりと言った。


「ねえ。あんたの名前は?」


「え?」


「本当の名前。ニホンっていうところの」


俺は、少し迷ってから、答えた。


「海。うみって書いて、カイ」


クレアが、きょとんとした顔をした。


「……同じじゃない」


「同じなんだよ。だから、鑑定盤で名前が出た時、びっくりした」


クレアは、しばらく黙っていた。


それから、ふっと、小さく吹き出した。


「なにそれ。ずるい」


「ずるいって言われても」


「同じ名前じゃ、呼び分けられないじゃない」


クレアは、膝を抱え直して、川面を見た。


「……じゃあ、いい。カイって呼ぶ。でも、それは、あんたのことだから」


「……ああ」


「あっちのカイは、あっちのカイ。あたしの中で、ちゃんと、分けておく」


クレアは、胸の包みに、そっと手を当てた。


 ◇


「おじいちゃんに、ついていくんでしょ」


クレアが言った。


「書庫に。カイの手帳を、届けに」


「……全部、聞いてたんだな」


「全部じゃない。灯守とか、そういうのは、よくわかんなかった。でも、カイが殺されたってことは、わかった」


クレアの声が、低くなった。


「崖で、斬られて、落とされたって」


俺は、うなずいた。


クレアは、包みを抱く腕に、力をこめた。


「あたしも、行く」


「え?」


「カイを殺したやつが、誰なのか。それを、確かめたい。この村にいたら、たぶん、一生わからない」


「でも、危ないぞ。カイを殺したやつは、たぶん、まだどこかに――」


「だから、行くの」


クレアは、立ち上がった。


月明かりの中で、その背中が、まっすぐに伸びていた。


「あたし、おじいちゃんに、少しだけ剣を習ってる。ビッグボアの時だって、火を起こしたのは、あたしでしょ」


「それは、そうだけど」


「それに」


クレアは、こちらを振り返って、ふんと鼻を鳴らした。


「あんたのためじゃないから。カイのためだから。勘違いしないでよ」


俺は、思わず、笑ってしまった。


「なに笑ってんのよ」


「いや。なんでもない」


宴の夜にも、同じことを言っていた。


ツンデレの、教科書みたいな台詞だった。


もちろん、口が裂けても、言えなかった。


「……母さんにも、話そう」


川べりからの帰り道で、クレアが、ぽつりと言った。


「宴の夜、母さんには絶対に言わないでって、あたしが頼んだのに。……ごめん。でも、村を出るなら、母さんに嘘をついたままじゃ、行けない」


「……いいのか?」


「よくない。でも、そうする」


クレアは、前を向いたまま、カイの包みを、ぎゅっと抱きしめた。


 ◇


翌日、俺とじいさんとクレアは、ハンナさんに、すべてを話した。


食堂の灯りを落としたあと、カウンターをはさんで。


俺が、この世界の人間ではないこと。カイの体を、借りていること。


カイが、事故ではなく、殺されたこと。


そして、三人で、書庫へ行くこと。


ハンナさんは、最後まで、黙って聞いていた。


途中で、一度も口をはさまなかった。


俺が話し終えると、ハンナさんは、カウンターの上の自分の湯呑みを、両手で包みこんだ。


長い沈黙だった。


「……そうかい」


ハンナさんは、ぽつりと言った。


「やっぱり、そうだったのかい」


俺は、顔を上げた。


「葬式の日にね。あんたを抱きしめた時、なんとなく、思ったんだよ。この子は、うちのカイじゃないかもしれないって」


ハンナさんは、湯呑みの中のお茶を、じっと見つめた。


「でも、そんなこと、考えたくなかった。生きて帰ってきてくれたんだって、思いたかった。だから、頭を打ったせいだって、自分に言い聞かせてた」


「……すみません」


「謝るんじゃないよ」


ハンナさんが、顔を上げた。


目が、真っ赤だった。


「カイは、もういない。それは、悲しいよ。悲しくて、悲しくて、どうにかなりそうだよ。でもね」


ハンナさんは、カウンター越しに、手を伸ばした。


大きな、あたたかい手が、俺の頭の上に、ぽんと乗った。


「この1週間ほど、うちで芋をむいて、皿を洗って、ポポと遊んで、ビッグボアとダイアウルフから村を守ってくれたのは、あんただろ」


その手が、俺の頭を、くしゃくしゃとなでた。


「あんたが誰だろうと、関係ないよ。うちで飯を食った子は、みんな、うちの子だ」


声が、震えていた。


「腹が減ったら、帰っといで。あんたも、うちの子だよ」


俺は、うつむいた。


カウンターの木目が、にじんで見えた。


日本の母さんも、こんなふうに、頭をなでてくれたことがあった。子どもの頃。テストで悪い点を取って、泣きながら帰った日に。


あれから、もう、二十年も経つ。


「……はい」


それしか、言えなかった。


ハンナさんは、それから、クレアのほうを向いた。


「あんたも、行くんだね」


「うん」


「止めても、聞かないんだろうね。あんたは、昔っから、カイのことになると、まるで聞かない子だった」


ハンナさんは、深いため息をついた。


それから、じいさんをにらんだ。


「父さん。この子たちに何かあったら、あたしは、一生、父さんを許さないからね」


「……わかっとる」


じいさんは、神妙な顔で、頭を下げた。


じいさんも、娘には頭が上がらないらしい。


 ◇


出発は、肩とふくらはぎの糸が抜けるまで、待つことになった。七日後だ。


その間に、やることがあった。


まず、村の見回りのことだ。


カイがいなくなり、俺も村を出れば、また、村の目がいなくなる。手帳の地図には、まだ、峠のアーマーベアの印が残っている。


俺は、カイの手帳の地図と、魔物の弱点を、別の紙に書き写した。


そして、それを、猟師のおじさんに渡した。


ビッグボアの傷を見て青ざめていた、あの獣人のおじさんだ。


「これ、カイが調べてた、このあたりの魔物の記録です。どこに何が出て、何が弱点か。全部書いてあります」


おじさんは、紙をめくって、目を丸くした。


「カイの坊主、こんなものを……」


「村の見回り、お願いできませんか。一人じゃなくて、何人かで。木こりの人たちとか、グンターさんとかと一緒に」


カイは、一人で背負いこんで、死んだ。


同じことを、この村で、繰り返させたくなかった。


おじさんは、しばらく紙を見つめていた。


それから、顔を上げて、にやりと笑った。


「任せとけ。村の目は、これからは、村のみんなでやる」


 ◇


出発の朝。


村の入口に、村中の人が集まっていた。


グンターさんが、のしのしと前に出てきた。


手に、布にくるんだ細長いものを持っている。


「約束のもんだ」


布を解くと、中から、短剣が出てきた。


カイの短剣だった。


刃は、きれいに研ぎ直されて、朝日を受けて光っている。そして、柄。すり減っていた木の柄が、乳白色の、なめらかな角の柄に、付け替えられていた。


三本角のビッグボアの、角だ。


「刃は、前のまんまだ。柄だけ、新しくした」


グンターさんは、ひげの奥で、むすっと言った。


「カイの刃と、お前の角だ。二人分だぞ。大事に使え」


俺は、両手で短剣を受け取った。


握ると、手のひらに、ぴたりと吸いついた。


「……ありがとうございます」


俺は、頭を下げた。


十五度で。


グンターさんは、金槌には手を伸ばさなかった。


代わりに、太い腕で、俺の背中を、ばん、と叩いた。息が止まるかと思った。


 ◇


「兄ちゃあああん!」


人垣をかき分けて、ポポが飛び出してきた。


顔中、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。尻尾が、ぶんぶんと振り回されている。


ポポは、俺の腰に、頭から突っこんできた。


「行っちゃやだああ!」


「ごめんな、ポポ」


「やだ! 兄ちゃん、また、いなくなっちゃう! 前の兄ちゃんみたいに、いなくなっちゃう!」


その言葉が、胸に刺さった。


俺は、しゃがみこんで、ポポと目の高さを合わせた。


「いなくならない。ちゃんと、帰ってくる」


「ほんと?」


「ほんと。ハンナさんに、腹が減ったら帰ってこいって言われたからな。俺は、腹が減りやすいんだ」


ポポは、しゃくりあげながら、ポケットから何かを取り出した。


白い、小さなお守りだった。ふわふわの毛を、不器用に編んである。


「メルの毛……。母ちゃんに、編むの手伝ってもらった……」


「……ありがとう、ポポ」


俺は、お守りを受け取って、短剣の柄に結びつけた。


「大事にする」


ポポは、また、わんわん泣き出した。


 ◇


葬式の日に祈っていた、薬草園のしわくちゃの婆さんが、俺の額に、葉っぱを一枚押しつけて、にゃむにゃむと何かを祈って、いい笑顔でサムズアップしてくれた


木こりの男たちが、「暗殺者、達者でな!」と手を振った。


食堂の常連のおじいさんが、最後に一度だけ、「あれ、やってくれ」と言ったので、九十度のお辞儀をした。おじいさんは、満足そうにうなずいた。


ハンナさんは、何も言わなかった。


ただ、クレアと俺を、一人ずつ、ものすごい力で抱きしめた。


それから、大きな包みを、二つ押しつけた。


「弁当だよ。三日分。塩漬けの肉も入れといたからね。祝いの日でもないのに、大盤振る舞いだよ。食べきれなかったら、承知しないからね」



 ◇


村を出て、なだらかな丘を上っていく。


先頭を、杖をついたじいさん。


その後ろを、白い袖なしの旅装に、フードつきの深緑の短いケープを左肩に片掛けにしたクレア。脚は、深緑に染めた丈夫な革のロングブーツ。腰に、祖父からもらった細身の剣と、いつもの薬草袋を下げている。


最後に、角の柄の短剣を差した、俺。


丘の上で、俺は、振り返った。


村の入口で、まだ、みんなが手を振っていた。


ハンナさんの大きな体。ポポの、ちぎれそうに振られる尻尾。グンターさんの、ひげもじゃの顔。


もう一度、手を振り返す。


また、少し歩いて、振り返る。


みんなの姿が、だんだん小さくなっていく。


「……何回振り返るのよ」


クレアが、あきれた声で言った。


「いや、なんか」


「名残惜しいの?」


「……うん」


日本で、会社を辞めたいと思ったことは、何百回もあった。


でも、どこかを離れるのが、こんなに名残惜しいと思ったことは、一度もなかった。


たったの2週間なのに。


帰る場所が、出来たからだ。


腹が減ったら帰っておいでと、言ってくれる人がいるからだ。


村の屋根が、ハンナさんの食堂の煙突が、木々の向こうに隠れていく。


それでも、俺は、村が見えなくなるまで、何度も、何度も、振り返り続けた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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