書庫の街、ミルフェ
ミルフェの町は、にぎやかだった。
城壁も、門番もない。街道がそのまま、石畳の通りになって、町の中へ続いている。
通りの両側に、色とりどりの家が並んでいた。若草色の壁に、桃色の窓枠。空色の扉に、ひまわり色の屋根。軒先では、パンの形や、鍋の形や、長靴の形の看板が揺れ、屋根の上では、魚の形の風見がくるくると回っている。
町の真ん中を、川が流れていた。底の小石まで透けて見える、浅く澄んだ川だ。日の光を受けた水面が、きらきらと、光の粒を散らしている。
その川をはさんで、町は、東と西に分かれていた。
川沿いの広場では、旅芸人が、色とりどりの玉を宙に放り上げて、くるくると操っていた。子どもたちが、手を叩いて笑っている。屋台からは、甘い焼き菓子の匂い。
広場の真ん中には、俺の背丈の三倍はありそうな、真鍮の大きな鐘が据えつけてあった。
「あれ、なんですか」
「町の鐘だ。日に三度、鳴る。朝と、昼と、夕にな」
にしてはデカすぎるだろ。
コレット村の教会の鐘とは、桁が違う。鳴ったら、耳が壊れそうだ。
「にぎやかな町ですね」
「この辺りでは、一番大きな町だからな」
じいさんは、人波の間を、すいすいと抜けていく。
「この町にも、書庫がある。カイの報告が、届くはずだった場所だ」
途中、じいさんは、表通りから一本外れた、細い裏通りを抜けた。
空気が、変わった。
色とりどりの家並みの裏側に、煤けた古書店や、何を売っているのかわからない骨董屋が、ひっそりと軒を並べている。占いの館なんてのもある。
裏通りを抜けると、川のほとりに出た。
川べりに並ぶ家々の中に、円い屋根の建物が一つ、まぎれていた。
まわりの家より、少し大きいくらい。壁は、くすんだ若草色。言われなければ、気にも留めずに通り過ぎてしまいそうだ。
「あれが、書庫だ」
円い屋根の頂に、小さな灯が、昼間なのに、ぽつりと灯っていた。
近くで見ると、それは、ガラスのランタンだった。
ランタンの中で、一つの炎が、燃えている。
カイの手帳の、裏表紙と同じ形。
灯守の紋章と、同じ形だった。
「……あれ、いいんですか。あんな目立つところに」
「誰も、気にせんよ」
じいさんは、にやりと笑った。
「書庫の灯は、知恵の灯。消してはならん灯。どこの町の書庫にも、灯っておる。町の者は、みんな、そう思っておる。表向きはな」
表向きは。
ここが、灯守の隠れ家。
カイが、月に一度、報告を送っていた場所。
◇
書庫の中は、ひんやりとしていた。
円い広間の壁に沿って、背の高い本棚が、ぐるりと並んでいた。二階の回廊にも、本棚。紙と、革と、古いインクの匂い。
あちこちの机で、学者たちが、静かに本を読んでいた。ページをめくる音と、ペンが紙を走る音しか、聞こえない。
クレアが、ぽかんと口を開けて、本棚を見上げていた。
「……すごい。こんなにたくさんの本、生まれて初めて見た」
若草色の目が、きらきらしている。コレット村にある本といえば、教会の祈りの本と、食堂の帳面くらいだ。
(……市の図書館くらいか)
正直な感想は、それだった。日本の市立図書館なら、これくらいの本は普通にある。
でも、この世界には、印刷機がない。ここにある本は、全部、誰かが一文字ずつ手で書き写したものだ。一冊作るのに、何か月もかかるのかもしれない。
そう思うと、棚の一段一段が、とんでもない手間と時間の積み重ねに見えてきた。
(この世界にとっては、とんでもない量なんだろうな)
「……何冊あるの、これ」
「三千冊ほどだと聞いたな。この地方では、一番の書庫だ」
「三千っ……!」
クレアは、オーマイガッ!みたいな顔で本棚を見上げたまま、しばらく動かなかった。
その後も若草色の目が、きらきらしていた。口が、ぽかんと半開きになっている。
棚から棚へ、目が忙しく飛び移る。薬草の本はどこだろう、とでも探しているのか、つま先立ちになって、体が右へ左へ揺れている。
いつものツンとした顔が、どこにもなかった。祭りの屋台を前にした、子どもの顔だった。
「……薬草の本、あるかな。あるよね。三千冊もあるんだもん」
誰に言うでもなく、そうつぶやいて、また背伸びをした。
じいさんは、広間を横切り、奥の小さな扉の前で、足を止めた。
扉には、何の飾りもなかった。物置の扉にしか見えない。
ここだけ周りから死角になっていて見られない。
じいさんは、その扉を、杖の先で叩いた。
こん。
こん、こん。
しばらくして、扉の向こうから、こん、こん、と二度、返ってきた。
扉が、内側から開いた。
その先は、下へ続く、石の階段だった。
◇
階段を、ずいぶん長く下りた。
壁に、ランタンが、等間隔に灯っている。どれも、中で一つの炎が燃えている。
やがて、階段は、地下の広い空間に出た。
上の書庫と同じように、壁一面が本棚になっている。でも、こちらの棚に並んでいるのは、本ではなく、紐で綴じた紙の束だった。何千、何万という束が、ぎっしりと詰まっている。
そのあちこちで、人が働いていた。
紙の束を広げて、何かを書き写している者。壁に貼られた大きな地図に、ピンを刺している者。鳥かごの前で、灰色の鳥の足から、小さな紙を外している者。
あの鳥だ。
じいさんが、井戸のそばで飛ばしていた、あの灰色の鳥。
「各地の灯守から届いた報告だ」
じいさんが、壁の棚を示した。
「この棚の、どこかに、カイの報告も綴じてある。四年分な」
四年分。
月に一度。四十八通。
カイは、それだけの報告を、ここへ送っていたのだ。
地図の前で、ピンを刺していた男が、こちらを振り返った。じいさんを見て、目を見開く。
「ギルバート殿! お戻りでしたか」
そういえば、じいさん、名前はギルバートだったな。
「おう。賢者殿は、まだおられるか」
「ええ、奥の部屋に。ふだんは大陸じゅうの書庫を渡り歩いておられる方が、カイ殿の消息が途絶えたと聞いて、ここに腰を落ち着けておられます。ギル殿の鳥が着いてからは、ずっとそわそわしておられて」
男は、それから、俺のほうを見た。
上から下まで、珍しいものを見るような目で。
「……その方が、例の?」
「例の、だ」
例の。
俺は、何と書かれていたのだろう。
◇
奥の部屋は、小さな書斎だった。足の踏み場がなかった。
壁際に、本が、床から天井まで、無造作に積み上げられている。
崩れかけた本の塔が、いくつも。
机の上も、本と紙と、飲みかけのお茶の杯で、埋まっていた。
その、本の山の向こうから、声がした。
「おお、来たね、来たね!」
本の塔の陰から、一人の老人が、ひょこりと顔を出した。
小柄な老人だった。背中が丸まっていて、目の高さは、クレアとほとんど変わらない。
真っ白な髪を、後ろでひとつに束ねている。真鍮の縁の、丸い眼鏡。しわだらけの顔。長衣の袖口には、インクの染みが、いくつもついていた。
老人は、本の塔をよけながら、こちらへ歩いてきた。途中で、一つの塔を肘で引っかけた。
本の塔が、ぐらりと揺れた。
老人は、くるりと振り返り、倒れかけた塔を、両手で、ひょいと支えた。
「おっと、と。危ない、危ないねえ」
一番上の本が、老人の頭の上に、ぽすんと落ちた。
老人は、頭に本を乗せたまま、にっこりと笑った。
「やあ、ギル。よく帰ってきたね。それから、クレアちゃんだね。大きくなったねえ。最後に会ったのは、君がまだ、おしめをしていた頃だったかな」
「お、おしめ……」
クレアの顔が、真っ赤になった。
老人は、頭の本を手に取って、本の塔のてっぺんに戻した。
それから、俺の前に立った。
眼鏡の奥の目が、俺を見上げた。
穏やかな、灰色の目だった。
「そして、君が、カイくんだね」
その目が、ほんの少しだけ、細められた。
「いや。カイくんの体に入っている、誰かさん、と言ったほうがいいのかな」
俺は、息をのんだ。
「僕は、ゼフィル。あちこちの書庫を渡り歩いている、ただの本の虫さ。みんなからは、書庫の賢者、なんて呼ばれているがね。
大げさな名前だよね」
ゼフィルさんは、俺の手を取って、両手で、しっかりと握った。
小さくて、乾いた、あたたかい手だった。
「ようこそ、書庫へ。遠いところを、よく来てくれたね」
◇
「ギルの手紙、読んだよ」
ゼフィルさんは、俺たち三人に、お茶をいれてくれた。机の上の本を、腕でざっと押しのけて、杯を置く場所を作る。
「崖から落ちたカイくんの体が、葬式の最中に起き上がった。職業が、盗賊から暗殺者に変わった。三本角のビッグボアを、一突きで倒した。ダイアウルフの頭も、一突きで倒した。それから――」
ゼフィルさんは、くっくっと笑った。
「最後の一行が、傑作だったね。『わしには、あれが、恐ろしい』だってさ」
「ゼフィル」
じいさんが、苦い顔をした。
「ギルがね、四十年以上の付き合いで、僕に何かを恐ろしいなんて書いてきたのは、初めてなのさ。だからね、どんな化け物が来るのかと、ずっと楽しみにしていたんだよ」
ゼフィルさんは、俺を、上から下まで、しげしげと眺めた。
「なんだ。人の良さそうな、普通の若者じゃないか」
ゼフィルさんは、楽しそうに笑った。
なんというか。
つかみどころのない、おじいちゃんだった。
じいさんの時は、頭の中で警報が鳴りっぱなしだった。でも、この人には、なぜか、まったく鳴らない。
本の塔を倒しかけて、頭に本を乗せて、本当に楽しそうに笑っている。
俺は、肩の力を抜いた。
◇
ひとしきり笑ったあと、ゼフィルさんは、杯を置いた。
その顔から、笑みが、すっと引いた。
「さて。まずは、大事な話から済ませようか」
ゼフィルさんは、俺を見た。
「ギルの手紙には、もう一つ、書いてあったね。カイくんの最後の報告を、君が持っている、って」
俺は、うなずいた。
懐から、革の手帳を取り出した。
村を出てから、ずっと、服の上から押さえてきた手帳。
カイの、几帳面な字。炭のスケッチ。村のまわりの地図と、×のついた、赤い印。
雨ににじんだ、最後のページ。
差し出そうとして、手が、止まった。
この手帳を渡したら、俺に、何が残るんだろう。
ビッグボアを倒せたのも、ダイアウルフの頭を倒せたのも、アーマーベアを倒せたのも、この手帳があったからだ。カイ先輩の教本があったから、俺は、ただの空気じゃなくて、村の役に立つ誰かでいられた。
手放したくない。
一瞬、本気で、そう思った。
カイの最後の報告を届けに、ここまで来たのに。
腹を括り、俺は右手で手帳を持ち、まだ力の戻りきらない左手の指を、そっと添えて、差し出した。
「カイの、最後の報告です」
声が、少し、震えた。
「遅くなって、すみません」
ゼフィルさんは、すぐには受け取らなかった。
しばらく、俺の手の上の手帳を、じっと見つめていた。
それから、両手で、そっと、受け取った。
まるで、壊れものを扱うように。
「……確かに、受け取ったよ」
静かな声だった。
「よく、届けてくれたね。カイくんも、きっと、ほっとしているさ」
その一言で、胸の奥に、ずっと詰まっていたものが、すうっと、ほどけていった。
届いた。
カイの報告が、やっと、届いた。
隣で、クレアが、膝の上で拳を握りしめていた。その目が、少しだけ、潤んでいた。
◇
ゼフィルさんは、手帳を開いた。
一ページずつ、ゆっくりと、めくっていく。
日付。場所。魔物の特徴。弱点。
ゼフィルさんの指が、ページの端を、そっとなでていた。
「……几帳面な子だったんだよ」
ぽつりと、言った。
「報告は、いつも、時間どおりに届いた。字は、いつも、きれいだった。それにね、頼んでもいないのに、魔物の弱点まで、毎回、書き添えてあったのさ。僕は、それが、いつも楽しみでね」
ゼフィルさんは、最後のほうのページで、手を止めた。
雨ににじんで、紙がごわごわと波打っている、あのページ。
「ここだね」
「はい。にじんで、ほとんど読めなくて。最後の一行だけ、『点をつなぐと――』って」
ゼフィルさんは、うなずいた。
それから、机の引き出しから、小さな瓶を取り出した。
薄い青色の液体が、入っていた。
ゼフィルさんは、細い筆を瓶にひたし、にじんだページの上に、その液体を、薄く、薄く、塗っていった。
「書庫の古い技でね。水ににじんだインクを、もう一度、浮かび上がらせるのさ」
液体が、紙にしみこんでいく。
すると。
にじんで、ぼやけていたインクが、ゆっくりと、輪郭を取り戻し始めた。
まるで、霧が晴れていくように。
一文字、また一文字と、カイの几帳面な字が、浮かび上がってくる。
俺も、クレアも、じいさんも、身を乗り出して、その文字を見つめた。
ゼフィルさんが、浮かび上がった文字を、ゆっくりと読み上げた。
「『変異は、村のまわりだけではない。峠の向こう、街道沿いの村々でも、同じことが起きている。日付を並べると、変異は、東から、波のように広がってきている』」
東。
「『波の、来る方角をたどると、水都がある』」
「水都……」
クレアが、つぶやいた。
宿場町で、商人が言っていた。水都で、パンの値段が上がっている、と。
ゼフィルさんは、続けた。
「『水都の協力者から、ふた月、連絡が途絶えている。こちらから送った鳥も、戻ってこない』」
部屋の空気が、少しだけ、冷たくなった気がした。
「『次の報告で、確かめたことを知らせる。点をつなぐと――』」
そこで、文字は、途切れていた。
その先は、雨ではなく、もともと、書かれていなかった。
カイは、ここまで書いて、何かに気づいて、手を止めたのだ。
そして、雨の中へ、出ていった。
◇
長い沈黙だった。
ゼフィルさんは、浮かび上がった文字を、じっと見つめていた。
その指が、最後の一行、『点をつなぐと――』の上で、止まっていた。
長い、長い間。
眼鏡の奥の灰色の目が、何を考えているのか、俺には、わからなかった。
やがて、ゼフィルさんは、そっと手帳を閉じた。
「……ありがとうね」
小さく、そう言った。
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。俺に、なのか。カイに、なのか。
「この報告は、確かに、受け取ったよ。カイくんが命をかけて確かめようとしたことは、僕らが、必ず引き継ぐからね」
ゼフィルさんは、手帳を、机の上に置いた。
その上に、そっと、手のひらを重ねた。
それから、顔を上げた。
その目に、また、あのお茶目な光が戻っていた。
「さて」
ゼフィルさんは、俺を見て、にっこりと笑った。
「カイくんの報告は、届いた。だからね、次は、君の番なのさ」
「……僕の、番、ですか?」
「ギルはね、君が何者なのか、僕に見極めてほしいって書いてきたんだよ。僕も、知りたいのさ。どうしても、ね」
ゼフィルさんは、眼鏡を外して、長衣の袖で、レンズを拭いた。
それから、もう一度、かけ直した。
灰色の目が、まっすぐに、俺を見つめた。
さっきまでの、おじいちゃんの目ではなかった。
何千冊、何万冊の本を読み、何百年分の記録をひもといてきた、学者の目だった。
「君の魂を、見せてもらおうかな」
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