もう一つの世界
「あ、あの……!」
商人の親子が、震える足で駆け寄ってきた。
小太りの商人は肩を押さえながら、何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……! なんとお礼を言ったらいいか……!」
「いえ、そんな」
俺も反射的に頭を下げた。
九十度で。
商人がもっと深く頭を下げた。俺も、もっと深く下げた。
二人で地面に頭がつきそうになったところで、クレアに襟首をつかまれて引き起こされた。
「何やってんのよ」
「いや、つい……」
娘のほうは頬を赤くして、俺を見上げていた。
「あ、あの……さっき、わたしの前にいきなり、すって現れて……しーって……」
「驚かせてしまって、すみませんでした」
「い、いえ! あの、その、すごく……」
娘の顔が、どんどん赤くなっていく。
(待て。これは、まさか。助けた娘さんに惚れられるという、伝説のイベントでは!?)
心の中で、ガッツポーズをしかけた。
その横で、クレアの目がどんどん細くなっていく。
なんだろう。急に気温が下がった気がする。
◇
商人は、宿場町まで荷車に乗せてくれると言った。
縛り上げた野盗たちは荷台の後ろにくくりつけて、宿場町の衛兵に引き渡すことになった。
荷トカゲが、のしのしと歩き出す。
荷台の上で、商人が何度も礼を言いながら、身の上を話してくれた。
水都に麦を届ける途中だったこと。最近、街道に野盗が増えていること。
「水都の様子が、どうもおかしくてねえ」
商人は眉をひそめた。
「パンの値段が、どんどん上がってるんですよ。黒麦のパン一つ、2リムだったのが、今じゃ6リムだ。
麦は例年どおり採れてるはずなのに。
どこかで誰かが買い占めてるんじゃないかって噂でね。
だから、こうして田舎の麦を運べば、いい値で売れるんですが……
そのせいで、野盗にも狙われる」
水都。
俺は懐の手帳に、そっと手を当てた。
雨ににじんで読めなかった、最後のページ。
カイは何に気づいていたのだろう。
◇
日が暮れる前に、宿場町に着いた。
街道沿いに、宿屋と馬屋と鍛冶屋がひとかたまりに並んだだけの、小さな町だった。真ん中に石を組んだ井戸が一つ。荷トカゲをつなぐ杭が、ずらりと並んでいる。
それでも、コレット村しか知らない俺には十分ににぎやかだった。
旅の商人、巡礼者、荷を運ぶ人夫。人族、エルフ、ドワーフ、獣人。街道を行き来する人たちが、日暮れとともにこの小さな町に吸いこまれていく。
「……おお」
思わず声が出た。
商人に案内された宿屋の一階は、酒場になっていた。
扉を開けた瞬間、熱気と笑い声と、酒と肉の匂いが、どっと押し寄せてきた。
長いテーブルに旅人たちがひしめいている。ドワーフがジョッキを打ち鳴らして歌っている。首からランクの文字が刻まれたプレートを下げた冒険者たちが、今日の獲物の魔石を見せびらかし合っている。獣人の冒険者たちが腕相撲で盛り上がっている。エルフの吟遊詩人が、隅のほうで竪琴を弾いている。
異世界の酒場だ。
(ゲームや漫画で何百回も見た、あれだ! 本物だ!)
冒険者が集まって、情報を交換して、依頼を受けて、旅立っていく、あの場所。
「……あんた、また子どもの顔してる」
クレアが、あきれた声で言った。
「してないよ」
「してる。目がきらきらしてる」
してたと思う。
◇
商人がお礼にと、夕食をおごってくれた。
骨付きの肉の煮込み。焼きたての白いパン。果実酒。
食べながら、じいさんが、さりげなくテーブルを指で叩いた。
こん。
こん、こん。
一回。間を置いて、二回。
見回りの時の、あの合図だった。
「カイ。これを覚えておけ」
じいさんは声を落とした。
「灯守の合図だ。三度叩かれたら、二度返す。こうだ」
こん、こん。
じいさんは指で二度、テーブルを叩いた。
「町には、灯守に手を貸してくれる者がおる。宿屋の主人だったり、鍛冶屋だったり、酒場の給仕だったりする。そういう者の店には、どこかに小さな灯の印がある」
じいさんは目で、酒場の奥を示した。
カウンターの上の壁。古びた木の看板に、焼きごてで小さな模様が押されていた。
ランタンの中で燃える、一つの炎。
カイの手帳の裏表紙と同じ。
「店に入ったら、何か注文するふりをして三度叩く。相手が二度返してきたら、仲間だ。困った時は、そこを頼れ」
ちょうどカウンターの奥から、宿の主人が果実酒のおかわりを持ってきた。
恰幅のいい、ひげの男だった。
主人は果実酒の瓶をテーブルに置くと、
その瓶の底で、こん、こん、と二度テーブルを叩いた。
そして、何事もなかったようにカウンターへ戻っていった。
……本当にいた。
この世界には、表の世界ともう一つ、陰の世界がある。
その陰の世界に、俺は今、足を踏み入れたのだ。
◇
隣のテーブルでは、旅の商人たちが酒を飲みながら、大声で噂話をしていた。
「聞いたか。王都の王太子殿下の話」
「ああ、あれだろ。まだお若いのに、ずいぶん落ち着いてらっしゃるっていう」
「落ち着いてるだけじゃないらしいぞ。宮廷の会議じゃ、古株の大臣たちが束になってかかっても、殿下ひとりに言い負かされるんだと。数字にも法にも、隣の国の事情にも、やたら詳しくてな」
「へえ。大臣が裸足で逃げ出すってやつか」
「まさにそれだ。この国も、しばらく安泰だな」
商人たちは笑いながら、ジョッキを打ち鳴らした。
年の若い王子様が、大臣より賢い。
日本で言えば、高校生くらいの子が国会で大臣を論破しているようなものだろうか。とんでもない天才がいるもんだ。
確かに、そりゃあ安泰だな。
俺はそう思って、骨付き肉にかぶりついた。
◇
その夜は、久しぶりにベッドで眠った。
藁ではなく、綿の詰まったふかふかのベッドだった。
隣の部屋から、クレアの「ベッド……」という幸せそうな寝言が聞こえてきた。
◇
宿場町を出て、二日目の昼。
なだらかな丘を上りきったところで、じいさんが足を止めた。
「見えたぞ」
杖の先が、丘の向こうを指した。
俺はその先を見た。
緑の平原の真ん中を、一本の川がきらきらと光りながら流れていた。
その川をまたぐように、町があった。
高い城壁はない。代わりに、色とりどりの屋根が川の両岸にぎっしりと並んでいる。若草色、桃色、空色、たまご色。丸い屋根、とんがった屋根、くるりとねじれた煙突。
まるで絵本の中の町だった。
「……かわいい」
クレアがぽつりとつぶやいた。
「ミルフェの町だ。あの町に書庫がある」
じいさんが静かに言った。
「カイの報告が、届くはずだった場所だ」
俺は懐の手帳を、服の上からそっと押さえた。
カイ。
もうすぐだ。
お前の最後の報告を、ようやく届けられる。
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