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17/21

街道の野盗

村を出て、三日目の昼。峠は、きのうのうちに下りきっていた。


街道は、広い平原の中を、まっすぐに伸びていた。


すれ違う人が、少しずつ増えてきた。荷トカゲに引かせた荷車、旅の商人、巡礼者らしい白い服の一団。獣人の親子が、大きな籠を背負って歩いている。ドワーフの一行が、斧を担いで、酒の歌を歌いながら通り過ぎていく。


「次の宿場町までは、あと半日だ」


じいさんが言った。


「今夜は、屋根の下で眠れるぞ」


「やった。ベッド……」


クレアが、心の底からうれしそうな声を出した。


二晩続けての野宿で、さすがに体のあちこちが痛いらしい。


俺は、そうでもなかった。


何度も会社の床で寝てたんだ。会社員なら固い床だろうが、寝れる。常識だ。


 ◇


それに出くわしたのは、平原を抜けて、街道が小さな林の中に入った時だった。


前方で、悲鳴が聞こえた。


荷トカゲの、甲高い鳴き声。何かが倒れる音。男たちの怒鳴り声。


三人で、顔を見合わせた。


林の木陰から、そっとのぞく。


街道の真ん中で、一台の荷車が、止まっていた。荷トカゲが、首を振って暴れている。


その周りを、男たちが取り囲んでいた。


六人。


汚れた革の鎧に、ばらばらの剣や斧。顔を布で覆っている者もいる。


荷車の御者台には、小太りの中年の男が、両手を上げて震えていた。その後ろで、若い娘が、荷台の幌にしがみついている。親子だろうか。


「野盗だな」


じいさんが、低く言った。


「積み荷を、置いていけ! 命までは取らねえ!」


頭目らしい、大柄な男が、斧を振り上げて怒鳴った。


「こ、これは、水都へ届ける麦で……これを失ったら、うちは……」


「知るか!」


頭目が、斧の柄で、商人の肩を殴りつけた。


商人が、御者台から転げ落ちる。娘が、悲鳴をあげた。


「お父さん!」


野盗の一人が、下品な笑い声をあげながら、荷台の娘に手を伸ばした。


 ◇


クレアが、腰のナイフに手をかけた。剣は、峠で折れたままだ。


「……行くわよ」


「待て」


じいさんが、クレアの肩を押さえた。


それから、俺を見た。


「カイ。お前さんなら、どうする」


なぜ俺に聞く。面接か。


どうするもこうするも、最初に浮かんだのは、関わらなければいい、だった。


あの荷車は、俺たちのものじゃない。商人も、娘も、知らない人だ。


荷は奪われるかもしれないが、誰も死なないかもしれない。


野盗がさよならグッバイすれば、俺たちは、誰にも見られずに、先へ進める。


それで正解かもしれない。


でも。


でも、一旦それはやめよう。


「見ないふり」はひとまず無しだ。


俺たちは、いや俺は、全ての問題を解決できるわけではない。


でも今回の人生、「見ないふり」は無しにしよう。


六人。全員、武器を持っている。正面からぶつかれば、じいさんはともかく、俺とクレアは危ない。


でも。


林の中。木陰。野盗たちの目は、全員、商人と、娘と、荷車の積み荷に向いている。


誰も、林のほうを見ていない。


「ギルさんと、クレアは、ここで待っていてください。いざとなったら、出てきてください」


「一人で行く気?」


「一人のほうが、消えやすい」


クレアが、何か言いかけて、口をつぐんだ。


じいさんは、黙って、うなずいた。


 ◇


二人に背を向けて、太い木の幹の裏へ回りこむ。


ここなら、じいさんとクレアの目からも、野盗たちの目からも、外れている。


息を殺す。背中を丸める。肩をすぼめる。


膜が、張る。街道の土の色が、一段沈んだ。


呼吸を、浅く、細く、長く。


つま先から。外側から、内側へ。膝を少し曲げて。


足の裏で、地面と話をするように。


村を出てから、朝も夜も、じいさんに言われて繰り返してきた歩き方だ。小枝は、もう、ほとんど踏まなくなった。


林の木陰を出て、街道へ。


一番手前の野盗の、背後へ。


荷車の後ろで、見張りをしている男だった。斧を肩に担いで、仲間が娘をからかうのを、にやにやしながら眺めている。


その、すぐ後ろに立つ。


男は、気づかない。


さて。


ここからが、問題だった。


ビッグボアも、ダイアウルフも、アーマーベアも、殺していい相手だった。殺さなければ、こっちが殺される。村が、襲われる。


でも、こいつらは、人間だ。


ろくでもない連中だ。商人を殴り、娘に手を出そうとしている。殺したって、誰も文句は言わないかもしれない。この世界では、それが、普通なのかもしれない。


でも。


俺は、短剣を抜いた。


逆手に握る。


そして、刃ではなく、柄のほうを、前に向けた。


三本角の角でできた、乳白色の、固い柄頭。


男の首筋を、見つめた。


その時、見えた。


青白い光の点が、いくつも。


首の横に、一つ。うなじに、一つ。耳の後ろに、一つ。


今までは、いつも、一つだけだった。命を断つ、一番強い光が、一つだけ。


でも、今は、違った。


首の横の光は、強く、冷たく、光っている。そこを刃で突けば、たぶん、この男は死ぬ。


その少し上、耳の後ろの光は、もっと淡い。やわらかい、ぼんやりとした光。


なぜか、わかった。


そこを打てば、この男は気を失う。


死なずに。


俺は、短剣を握り直し、耳の後ろの、淡い光に向かって、角の柄頭を、振り下ろした。


ごっ、と、鈍い音。


男の膝が、かくんと折れた。


声も出さずに、その場に崩れ落ちる。


俺は、倒れかけた男の体を、とっさに支えて、音を立てないように、地面に寝かせた。


息は、している。


気絶しているだけだ。


なぜだか膜は消えていない。


――一人目。


 ◇


二人目は、荷トカゲの手綱を押さえている男だった。


暴れる荷トカゲに手こずって、汗だくになっている。


背後に回る。耳の後ろの、淡い光。


ごっ。


崩れ落ちる体を支えて、荷車の陰に寝かせる。


荷トカゲが、急に手綱が緩んだのに驚いて、ぐえっと鳴いた。


なぜか、まだ膜は消えていない。


三人目と、四人目は、荷台の積み荷を下ろしていた。麦の袋を、二人がかりで担いでいる。


両手がふさがっている。


三人目の背後。ごっ。


男が倒れる。担いでいた麦の袋が、もう一人の男の上に、どさりと落ちた。


「うおっ、なんだ、てめえ、何して――」


麦の袋の下敷きになった男が、もがきながら顔を上げる。


その前には、誰もいない。


隣で、相棒が、白目をむいて寝ている。


「お、おい!? どうした!?」


男が、袋の下から這い出そうとする。


その背後で。ごっ。


男は、麦の袋に顔をうずめて、静かになった。


――四人目。


 ◇


「おい、なんだ! 何が起きてる!」


頭目が、ようやく異変に気づいた。


振り返ると、仲間が、四人、地面に寝ている。


荷車の陰に。麦の袋の上に。荷トカゲの足元に。


全員、いびきをかいていた。


「な……なんだ、これ……」


頭目の顔から、血の気が引いた。


娘に手を伸ばしていた男も、商人を押さえつけていた男も、そろって、ぽかんと口を開けた。


「誰だ! 誰がやった! 出てこい!」


頭目が、斧を振り回しながら、あたりを見回す。


その目は、林のほうを見ている。街道の先を見ている。荷車の上を見ている。


すぐ目の前に俺が立っているのに、気づいていない。


娘の腕をつかんでいた男が、震える声で言った。


「か、頭……やべえよ、これ……幽霊だ……」


「ふざけんな! 幽霊が、人を殴るか!」


「でも、誰もいねえじゃねえか!」


その男の背後に、俺は、するりと立った。


そっと娘の肩を叩く。娘が、俺に気づいた。


大きな目を、まんまるに見開く。


俺は、唇に人差し指を当てた。


しーっ。


娘が、こくこくとうなずいた。


男の耳の後ろ。ごっ。


男が、娘の腕を離して、崩れ落ちた。


娘が、口を両手で押さえて、悲鳴を飲みこんだ。


――五人目。


 ◇


残るは、頭目一人。


頭目は、斧を構えたまま、ぐるぐると回っていた。


娘の腕をつかんでいた男と会話をしていたのに、一瞬目を離したら気絶していた。


額から、滝のような汗が流れている。


「で、出てこい……! 出てこいって、言ってんだろ……!」


声が、裏返っていた。


さっきまで、商人を殴りつけていた男の声とは、思えなかった。


「ゆ、幽霊なんか、いるわけねえ……いるわけねえんだ……」


頭目は、ぶつぶつと、自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。


その目が、地面で寝ている仲間たちを、ちらちらと見る。


五人とも、白目をむいている。


「こ、この林、昔、首吊りがあったって……いや、ねえ、ねえよそんなの……」


頭目の膝が、がくがくと笑い始めた。


斧を持つ手が、ぶるぶると震えている。カチカチと、歯の鳴る音まで聞こえてきた。


俺は、頭目の背後から、少し離れたところで、それを見ていた。


さて。どうするか。


頭目は、恐怖のあまり、斧をでたらめに振り回している。


このおっさん、完全に幽霊だと思いこんでるな。


俺は、息を殺したまま、頭目の背後へ、そーっと、近づいていった。


一歩。


頭目が、びくっと肩を震わせて、右を見る。誰もいない。


二歩。


慌てて左を見る。誰もいない。


「だ、誰も、いねえ……いねえよな……」


三歩。


頭目の、真後ろ。


汗の匂いがする。荒い息づかいが聞こえる。首筋の毛が、全部、逆立っている。


頭目が、ゆっくりと、斧を下ろした。


大きく、息を吐く。


「……なんだ、何もしてこないのか」


その、肩の力が、ふっと抜けた瞬間。


俺は、頭目の耳元に、口を寄せ


腹の底から、思いきり叫んだ。


「わーーーーーーっ!!!!」


「ぎゃああああああああああっ!!!!」


頭目の悲鳴は、俺の叫び声の、たぶん三倍は大きかった。


頭目は、その場に、どすんと尻もちをつき、仰向けにひっくり返った。


そして。


「あぅあああっ! ひいいあああ!」


言葉にならない悲鳴をあげながら、

両手と両足を、地面について、後ろ向きに這い始めた。


ブリッジの姿勢でカサカサ動く頭目は

エクソ○ストのような動きで高速に動き、

口から泡を飛ばしている。


ゴンっ!


そのまま後頭部が、荷馬車の車輪に激突し

ブリッジの姿勢のまま、ゆっくりと、ゆっくりと、崩れ落ちる。


地面に大の字になった頭目は、白目をむいて、ぴくりとも動かなくなった。


……気絶した。


――六人目。


 ◇


林の中から、じいさんとクレアが出てきた。


クレアは、街道に転がっている六人の野盗を見回して、口をぽかんと開けた。


「……全員、気絶している」


「寝てるだけだ。殺してない」


クレアが、俺の顔を、じっと見た。


「……あんた、さっき、一瞬だけこっちを振り向いた時。目が、光ってなかった?」


「目?」


「青白く。前髪の奥で、瞳の奥が、ぼうっと」


俺は、自分の目元に、手をやった。もちろん、自分では見えない。


青白いというと、急所に見える、あの光と、同じ色だ。


そういえば、村の食堂で気絶したゴロツキの瞳にも、青白い光が、二つ映りこんでいた。あれは、俺の目だったのか。


「……気のせいじゃないか」


「……そう。そうよね」


クレアは、それ以上、何も言わなかった。ただ、自分の腕を、そっとさすっていた。


俺は、短剣を鞘に納めた。


手が、少しだけ、震えていた。


ビッグボアやダイアウルフの時とは、違う震えだった。


人を、殴った。


殺してはいない。でも、人を、殴った。


その感触が、角の柄頭を通して、まだ、手のひらに残っていた。


じいさんは、倒れている野盗たちを、一人ずつ見て回った。


五人とも、耳の後ろの、同じ場所に、同じこぶ。


「……耳の後ろ。骨の、継ぎ目のすぐ上。ここを、ちょうどいい力で打つと、人は、眠るように気を失う」


じいさんは、立ち上がって、俺を見た。


「村でビッグボアとやり合った時は、物陰で息を殺して、ゆっくり動くのが精一杯だったそうだな。足を一歩でも速く出せば、すぐに解けた」


「……はい」


「ダイアウルフの夜には、煙の中を、早足で歩いても解けんようになった。そして今日は、六人の背後を順に歩いて回って、誰にも気づかれん。光の点とやらも、命を断つ点だけでなく、眠らせる点まで見えるようになった」


じいさんは、指を折りながら、静かに数えた。


「半月だ。わしの知る誰も、半月で、ここまでは来ん」


言われて、初めて、自分でも気づいた。


村にいた頃は、息を止めて、じっとしていることしかできなかった。それが今は、早足で歩いても解けない。人を殺さずに眠らせる急所まで、見えるようになった。


できることが、増えている。


確かに、一つずつ。


それから、少し間を置いて、じいさんは聞いた。


「暗殺者が、人を、殺さんのか」


俺は、少し考えた。


それから、空を見上げて、答えた。


「僕の父は、警察官――えっと、こっちで言うと、町の衛兵みたいな仕事をしてました。悪いやつを捕まえる仕事です。殺すんじゃなくて、捕まえる」


父さんの、大きな背中を思い出した。


子供の頃、ひなたと二人で、父さんの真似をして、敬礼をしてふざけ合った日のこと。


「人を殺したら、たぶん、僕は、もう、妹に顔向けできない気がするんです。父さんの真似をして、敬礼をしてた、あいつに」


それに、シンプルにやっぱり人を殺すっていうのには抵抗がある。


この世界ではいつかは覚悟が必要なのかもしれないが、

今は人を殺さず済むなら殺したくはない。


じいさんは、しばらく、黙って俺を見ていた。


それから、ふっと、目元をゆるめた。


「……そうか」


それだけ言って、野盗たちを縛るための縄を、荷車から探し始めた。


 ◇


「あ、あの……!」


商人の親子が、震える足で、駆け寄ってきた。


小太りの商人は、肩を押さえながら、何度も何度も、頭を下げた。


「ありがとうございます、ありがとうございます……! なんとお礼を言ったらいいか……!」


「いえ、そんな」


俺も、反射的に、頭を下げた。


九十度で。


商人が、もっと深く頭を下げた。俺も、もっと深く下げた。


二人で、地面に頭がつきそうになったところで、クレアに襟首をつかまれて、引き起こされた。


「何やってんのよ」


「いや、つい」


娘のほうは、頬を赤くして、俺を見上げていた。


「あ、あの……さっき、わたしの前に、いきなり、すって現れて……しーって……」


「ああ、ごめん。驚かせたな」


「い、いえ! あの、その、すごく……」


娘の顔が、どんどん赤くなっていく。


(待て。これは、まさか。助けた娘さんに惚れられるという、伝説のイベントでは)


心の中で、ガッツポーズをしかけた。


その横で、クレアの目が、どんどん細くなっていく。


なんだろう。急に、気温が下がった気がする。


 ◇


商人は、宿場町まで、荷車に乗せてくれると言った。


縛り上げた野盗たちは、荷台の後ろにくくりつけて、宿場町の衛兵に引き渡すことになった。


荷トカゲが、のしのしと歩き出す。


荷台の上で、商人が、何度も礼を言いながら、身の上を話してくれた。


水都に麦を届ける途中だったこと。最近、街道に野盗が増えていること。


「水都の様子が、どうもおかしくてねえ」


商人は、眉をひそめた。


「パンの値段が、どんどん上がってるんですよ。黒麦のパン一つ、二リムだったのが、今じゃ六リムだ。

麦は、例年どおり採れてるはずなのに。

どこかで、誰かが、買い占めてるんじゃないかって噂でね。


だから、こうして、田舎の麦を運べば、いい値で売れるんですが……

そのせいで、野盗にも狙われる」


水都。


俺は、懐の手帳に、そっと手を当てた。


雨ににじんで読めなかった、最後のページ。


カイは、何に気づいていたのだろう。


 ◇


日が暮れる前に、宿場町に着いた。


街道沿いに、宿屋と、馬屋と、鍛冶屋が、ひとかたまりに並んだだけの、小さな町だった。真ん中に、石を組んだ井戸が一つ。荷トカゲをつなぐ杭が、ずらりと並んでいる。


それでも、コレット村しか知らない俺には、十分ににぎやかだった。


旅の商人、巡礼者、荷を運ぶ人夫。人族、エルフ、ドワーフ、獣人。街道を行き来する人たちが、日暮れとともに、この小さな町に吸いこまれていく。


「……おお」


思わず、声が出た。


商人に案内された宿屋の一階は、酒場になっていた。


扉を開けた瞬間、熱気と、笑い声と、酒と肉の匂いが、どっと押し寄せてきた。


長いテーブルに、旅人たちがひしめいている。ドワーフが、ジョッキを打ち鳴らして歌っている。首からランクの文字が刻まれたプレートを下げた冒険者たちが、今日の獲物の魔石を見せびらかし合っている。獣人の冒険者たちが、腕相撲で盛り上がっている。エルフの吟遊詩人が、隅のほうで竪琴を弾いている。


異世界の、酒場だ。


ゲームや漫画で、何百回も見た、あれだ。


冒険者が集まって、情報を交換して、依頼を受けて、旅立っていく、あの場所。


「……あんた、また、子どもの顔してる」


クレアが、あきれた声で言った。


「してない」


「してる。目が、きらきらしてる」


してたと思う。


 ◇


商人が、お礼にと、夕食をおごってくれた。


骨付きの肉の煮込み。焼きたての、白いパン。果実酒。


食べながら、じいさんが、さりげなく、テーブルを指で叩いた。


こん。


こん、こん。


一回。間を置いて、二回。


見回りの時の、あの合図だった。


「カイ。これを、覚えておけ」


じいさんは、声を落とした。


「灯守の合図だ。三度叩かれたら、二度返す。こうだ」


こん、こん。


じいさんは、指で二度、テーブルを叩いた。


「町には、灯守に手を貸してくれる者がおる。宿屋の主人だったり、鍛冶屋だったり、酒場の給仕だったりする。そういう者の店には、どこかに、小さな灯の印がある」


じいさんは、目で、酒場の奥を示した。


カウンターの上の、壁。古びた木の看板に、焼きごてで、小さな模様が押されていた。


ランタンの中で燃える、一つの炎。


カイの手帳の、裏表紙と同じ。


「店に入ったら、何か注文するふりをして、三度叩く。相手が二度返してきたら、仲間だ。困った時は、そこを頼れ」


ちょうど、カウンターの奥から、宿の主人が、果実酒のおかわりを持ってきた。


恰幅のいい、ひげの男だった。


主人は、果実酒の瓶をテーブルに置くと、

その瓶の底で、こん、こん、と二度、テーブルを叩いた。


そして、何事もなかったように、カウンターへ戻っていった。


……本当に、いた。


この世界には、表の世界と、もう一つ、陰の世界がある。


その陰の世界に、俺は、今、足を踏み入れたのだ。


 ◇


隣のテーブルでは、旅の商人たちが、酒を飲みながら、大声で噂話をしていた。


「聞いたか。王都の王太子殿下の話」


「ああ、あれだろ。まだお若いのに、ずいぶん落ち着いてらっしゃるっていう」


「落ち着いてるだけじゃないらしいぞ。宮廷の会議じゃ、古株の大臣たちが束になってかかっても、殿下ひとりに言い負かされるんだと。数字にも、法にも、隣の国の事情にも、やたら詳しくてな」


「へえ。大臣が裸足で逃げ出すってやつか」


「まさにそれだ。この国も、しばらく安泰だな」


商人たちは、笑いながら、ジョッキを打ち鳴らした。


年の若い王子様が、大臣より賢い。


日本で言えば、高校生くらいの子が、国会で大臣を論破しているようなものだろうか。とんでもない天才がいるもんだ。


確かに、そりゃあ安泰だな。

俺はそう思って、骨付き肉にかぶりついた。


 ◇


その夜は、久しぶりに、ベッドで眠った。


藁ではなく、綿の詰まった、ふかふかのベッドだった。


隣の部屋から、クレアの「ベッド……」という、幸せそうな寝言が聞こえてきた。


 ◇


宿場町を出て、二日目の昼。


なだらかな丘を上りきったところで、じいさんが、足を止めた。


「見えたぞ」


杖の先が、丘の向こうを指した。


俺は、その先を見た。


緑の平原の真ん中を、一本の川が、きらきらと光りながら流れていた。


その川をまたぐように、町があった。


高い城壁はない。代わりに、色とりどりの屋根が、川の両岸に、ぎっしりと並んでいる。若草色、桃色、空色、たまご色。丸い屋根、とんがった屋根、くるりとねじれた煙突。


まるで、絵本の中の町だった。


「……かわいい」


クレアが、ぽつりとつぶやいた。


「ミルフェの町だ。あの町に、書庫がある」


じいさんが、静かに言った。


「カイの報告が、届くはずだった場所だ」


俺は、懐の手帳を、服の上から、そっと押さえた。


カイ。


もうすぐだ。


お前の最後の報告を、ようやく、届けられる。


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