街道の野盗
村を出て、三日目の昼。峠は、きのうのうちに下りきっていた。
街道は、広い平原の中を、まっすぐに伸びていた。
すれ違う人が、少しずつ増えてきた。荷トカゲに引かせた荷車、旅の商人、巡礼者らしい白い服の一団。獣人の親子が、大きな籠を背負って歩いている。ドワーフの一行が、斧を担いで、酒の歌を歌いながら通り過ぎていく。
「次の宿場町までは、あと半日だ」
じいさんが言った。
「今夜は、屋根の下で眠れるぞ」
「やった。ベッド……」
クレアが、心の底からうれしそうな声を出した。
二晩続けての野宿で、さすがに体のあちこちが痛いらしい。
俺は、そうでもなかった。
何度も会社の床で寝てたんだ。会社員なら固い床だろうが、寝れる。常識だ。
◇
それに出くわしたのは、平原を抜けて、街道が小さな林の中に入った時だった。
前方で、悲鳴が聞こえた。
荷トカゲの、甲高い鳴き声。何かが倒れる音。男たちの怒鳴り声。
三人で、顔を見合わせた。
林の木陰から、そっとのぞく。
街道の真ん中で、一台の荷車が、止まっていた。荷トカゲが、首を振って暴れている。
その周りを、男たちが取り囲んでいた。
六人。
汚れた革の鎧に、ばらばらの剣や斧。顔を布で覆っている者もいる。
荷車の御者台には、小太りの中年の男が、両手を上げて震えていた。その後ろで、若い娘が、荷台の幌にしがみついている。親子だろうか。
「野盗だな」
じいさんが、低く言った。
「積み荷を、置いていけ! 命までは取らねえ!」
頭目らしい、大柄な男が、斧を振り上げて怒鳴った。
「こ、これは、水都へ届ける麦で……これを失ったら、うちは……」
「知るか!」
頭目が、斧の柄で、商人の肩を殴りつけた。
商人が、御者台から転げ落ちる。娘が、悲鳴をあげた。
「お父さん!」
野盗の一人が、下品な笑い声をあげながら、荷台の娘に手を伸ばした。
◇
クレアが、腰のナイフに手をかけた。剣は、峠で折れたままだ。
「……行くわよ」
「待て」
じいさんが、クレアの肩を押さえた。
それから、俺を見た。
「カイ。お前さんなら、どうする」
なぜ俺に聞く。面接か。
どうするもこうするも、最初に浮かんだのは、関わらなければいい、だった。
あの荷車は、俺たちのものじゃない。商人も、娘も、知らない人だ。
荷は奪われるかもしれないが、誰も死なないかもしれない。
野盗がさよならグッバイすれば、俺たちは、誰にも見られずに、先へ進める。
それで正解かもしれない。
でも。
でも、一旦それはやめよう。
「見ないふり」はひとまず無しだ。
俺たちは、いや俺は、全ての問題を解決できるわけではない。
でも今回の人生、「見ないふり」は無しにしよう。
六人。全員、武器を持っている。正面からぶつかれば、じいさんはともかく、俺とクレアは危ない。
でも。
林の中。木陰。野盗たちの目は、全員、商人と、娘と、荷車の積み荷に向いている。
誰も、林のほうを見ていない。
「ギルさんと、クレアは、ここで待っていてください。いざとなったら、出てきてください」
「一人で行く気?」
「一人のほうが、消えやすい」
クレアが、何か言いかけて、口をつぐんだ。
じいさんは、黙って、うなずいた。
◇
二人に背を向けて、太い木の幹の裏へ回りこむ。
ここなら、じいさんとクレアの目からも、野盗たちの目からも、外れている。
息を殺す。背中を丸める。肩をすぼめる。
膜が、張る。街道の土の色が、一段沈んだ。
呼吸を、浅く、細く、長く。
つま先から。外側から、内側へ。膝を少し曲げて。
足の裏で、地面と話をするように。
村を出てから、朝も夜も、じいさんに言われて繰り返してきた歩き方だ。小枝は、もう、ほとんど踏まなくなった。
林の木陰を出て、街道へ。
一番手前の野盗の、背後へ。
荷車の後ろで、見張りをしている男だった。斧を肩に担いで、仲間が娘をからかうのを、にやにやしながら眺めている。
その、すぐ後ろに立つ。
男は、気づかない。
さて。
ここからが、問題だった。
ビッグボアも、ダイアウルフも、アーマーベアも、殺していい相手だった。殺さなければ、こっちが殺される。村が、襲われる。
でも、こいつらは、人間だ。
ろくでもない連中だ。商人を殴り、娘に手を出そうとしている。殺したって、誰も文句は言わないかもしれない。この世界では、それが、普通なのかもしれない。
でも。
俺は、短剣を抜いた。
逆手に握る。
そして、刃ではなく、柄のほうを、前に向けた。
三本角の角でできた、乳白色の、固い柄頭。
男の首筋を、見つめた。
その時、見えた。
青白い光の点が、いくつも。
首の横に、一つ。うなじに、一つ。耳の後ろに、一つ。
今までは、いつも、一つだけだった。命を断つ、一番強い光が、一つだけ。
でも、今は、違った。
首の横の光は、強く、冷たく、光っている。そこを刃で突けば、たぶん、この男は死ぬ。
その少し上、耳の後ろの光は、もっと淡い。やわらかい、ぼんやりとした光。
なぜか、わかった。
そこを打てば、この男は気を失う。
死なずに。
俺は、短剣を握り直し、耳の後ろの、淡い光に向かって、角の柄頭を、振り下ろした。
ごっ、と、鈍い音。
男の膝が、かくんと折れた。
声も出さずに、その場に崩れ落ちる。
俺は、倒れかけた男の体を、とっさに支えて、音を立てないように、地面に寝かせた。
息は、している。
気絶しているだけだ。
なぜだか膜は消えていない。
――一人目。
◇
二人目は、荷トカゲの手綱を押さえている男だった。
暴れる荷トカゲに手こずって、汗だくになっている。
背後に回る。耳の後ろの、淡い光。
ごっ。
崩れ落ちる体を支えて、荷車の陰に寝かせる。
荷トカゲが、急に手綱が緩んだのに驚いて、ぐえっと鳴いた。
なぜか、まだ膜は消えていない。
三人目と、四人目は、荷台の積み荷を下ろしていた。麦の袋を、二人がかりで担いでいる。
両手がふさがっている。
三人目の背後。ごっ。
男が倒れる。担いでいた麦の袋が、もう一人の男の上に、どさりと落ちた。
「うおっ、なんだ、てめえ、何して――」
麦の袋の下敷きになった男が、もがきながら顔を上げる。
その前には、誰もいない。
隣で、相棒が、白目をむいて寝ている。
「お、おい!? どうした!?」
男が、袋の下から這い出そうとする。
その背後で。ごっ。
男は、麦の袋に顔をうずめて、静かになった。
――四人目。
◇
「おい、なんだ! 何が起きてる!」
頭目が、ようやく異変に気づいた。
振り返ると、仲間が、四人、地面に寝ている。
荷車の陰に。麦の袋の上に。荷トカゲの足元に。
全員、いびきをかいていた。
「な……なんだ、これ……」
頭目の顔から、血の気が引いた。
娘に手を伸ばしていた男も、商人を押さえつけていた男も、そろって、ぽかんと口を開けた。
「誰だ! 誰がやった! 出てこい!」
頭目が、斧を振り回しながら、あたりを見回す。
その目は、林のほうを見ている。街道の先を見ている。荷車の上を見ている。
すぐ目の前に俺が立っているのに、気づいていない。
娘の腕をつかんでいた男が、震える声で言った。
「か、頭……やべえよ、これ……幽霊だ……」
「ふざけんな! 幽霊が、人を殴るか!」
「でも、誰もいねえじゃねえか!」
その男の背後に、俺は、するりと立った。
そっと娘の肩を叩く。娘が、俺に気づいた。
大きな目を、まんまるに見開く。
俺は、唇に人差し指を当てた。
しーっ。
娘が、こくこくとうなずいた。
男の耳の後ろ。ごっ。
男が、娘の腕を離して、崩れ落ちた。
娘が、口を両手で押さえて、悲鳴を飲みこんだ。
――五人目。
◇
残るは、頭目一人。
頭目は、斧を構えたまま、ぐるぐると回っていた。
娘の腕をつかんでいた男と会話をしていたのに、一瞬目を離したら気絶していた。
額から、滝のような汗が流れている。
「で、出てこい……! 出てこいって、言ってんだろ……!」
声が、裏返っていた。
さっきまで、商人を殴りつけていた男の声とは、思えなかった。
「ゆ、幽霊なんか、いるわけねえ……いるわけねえんだ……」
頭目は、ぶつぶつと、自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。
その目が、地面で寝ている仲間たちを、ちらちらと見る。
五人とも、白目をむいている。
「こ、この林、昔、首吊りがあったって……いや、ねえ、ねえよそんなの……」
頭目の膝が、がくがくと笑い始めた。
斧を持つ手が、ぶるぶると震えている。カチカチと、歯の鳴る音まで聞こえてきた。
俺は、頭目の背後から、少し離れたところで、それを見ていた。
さて。どうするか。
頭目は、恐怖のあまり、斧をでたらめに振り回している。
このおっさん、完全に幽霊だと思いこんでるな。
俺は、息を殺したまま、頭目の背後へ、そーっと、近づいていった。
一歩。
頭目が、びくっと肩を震わせて、右を見る。誰もいない。
二歩。
慌てて左を見る。誰もいない。
「だ、誰も、いねえ……いねえよな……」
三歩。
頭目の、真後ろ。
汗の匂いがする。荒い息づかいが聞こえる。首筋の毛が、全部、逆立っている。
頭目が、ゆっくりと、斧を下ろした。
大きく、息を吐く。
「……なんだ、何もしてこないのか」
その、肩の力が、ふっと抜けた瞬間。
俺は、頭目の耳元に、口を寄せ
腹の底から、思いきり叫んだ。
「わーーーーーーっ!!!!」
「ぎゃああああああああああっ!!!!」
頭目の悲鳴は、俺の叫び声の、たぶん三倍は大きかった。
頭目は、その場に、どすんと尻もちをつき、仰向けにひっくり返った。
そして。
「あぅあああっ! ひいいあああ!」
言葉にならない悲鳴をあげながら、
両手と両足を、地面について、後ろ向きに這い始めた。
ブリッジの姿勢でカサカサ動く頭目は
エクソ○ストのような動きで高速に動き、
口から泡を飛ばしている。
ゴンっ!
そのまま後頭部が、荷馬車の車輪に激突し
ブリッジの姿勢のまま、ゆっくりと、ゆっくりと、崩れ落ちる。
地面に大の字になった頭目は、白目をむいて、ぴくりとも動かなくなった。
……気絶した。
――六人目。
◇
林の中から、じいさんとクレアが出てきた。
クレアは、街道に転がっている六人の野盗を見回して、口をぽかんと開けた。
「……全員、気絶している」
「寝てるだけだ。殺してない」
クレアが、俺の顔を、じっと見た。
「……あんた、さっき、一瞬だけこっちを振り向いた時。目が、光ってなかった?」
「目?」
「青白く。前髪の奥で、瞳の奥が、ぼうっと」
俺は、自分の目元に、手をやった。もちろん、自分では見えない。
青白いというと、急所に見える、あの光と、同じ色だ。
そういえば、村の食堂で気絶したゴロツキの瞳にも、青白い光が、二つ映りこんでいた。あれは、俺の目だったのか。
「……気のせいじゃないか」
「……そう。そうよね」
クレアは、それ以上、何も言わなかった。ただ、自分の腕を、そっとさすっていた。
俺は、短剣を鞘に納めた。
手が、少しだけ、震えていた。
ビッグボアやダイアウルフの時とは、違う震えだった。
人を、殴った。
殺してはいない。でも、人を、殴った。
その感触が、角の柄頭を通して、まだ、手のひらに残っていた。
じいさんは、倒れている野盗たちを、一人ずつ見て回った。
五人とも、耳の後ろの、同じ場所に、同じこぶ。
「……耳の後ろ。骨の、継ぎ目のすぐ上。ここを、ちょうどいい力で打つと、人は、眠るように気を失う」
じいさんは、立ち上がって、俺を見た。
「村でビッグボアとやり合った時は、物陰で息を殺して、ゆっくり動くのが精一杯だったそうだな。足を一歩でも速く出せば、すぐに解けた」
「……はい」
「ダイアウルフの夜には、煙の中を、早足で歩いても解けんようになった。そして今日は、六人の背後を順に歩いて回って、誰にも気づかれん。光の点とやらも、命を断つ点だけでなく、眠らせる点まで見えるようになった」
じいさんは、指を折りながら、静かに数えた。
「半月だ。わしの知る誰も、半月で、ここまでは来ん」
言われて、初めて、自分でも気づいた。
村にいた頃は、息を止めて、じっとしていることしかできなかった。それが今は、早足で歩いても解けない。人を殺さずに眠らせる急所まで、見えるようになった。
できることが、増えている。
確かに、一つずつ。
それから、少し間を置いて、じいさんは聞いた。
「暗殺者が、人を、殺さんのか」
俺は、少し考えた。
それから、空を見上げて、答えた。
「僕の父は、警察官――えっと、こっちで言うと、町の衛兵みたいな仕事をしてました。悪いやつを捕まえる仕事です。殺すんじゃなくて、捕まえる」
父さんの、大きな背中を思い出した。
子供の頃、ひなたと二人で、父さんの真似をして、敬礼をしてふざけ合った日のこと。
「人を殺したら、たぶん、僕は、もう、妹に顔向けできない気がするんです。父さんの真似をして、敬礼をしてた、あいつに」
それに、シンプルにやっぱり人を殺すっていうのには抵抗がある。
この世界ではいつかは覚悟が必要なのかもしれないが、
今は人を殺さず済むなら殺したくはない。
じいさんは、しばらく、黙って俺を見ていた。
それから、ふっと、目元をゆるめた。
「……そうか」
それだけ言って、野盗たちを縛るための縄を、荷車から探し始めた。
◇
「あ、あの……!」
商人の親子が、震える足で、駆け寄ってきた。
小太りの商人は、肩を押さえながら、何度も何度も、頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……! なんとお礼を言ったらいいか……!」
「いえ、そんな」
俺も、反射的に、頭を下げた。
九十度で。
商人が、もっと深く頭を下げた。俺も、もっと深く下げた。
二人で、地面に頭がつきそうになったところで、クレアに襟首をつかまれて、引き起こされた。
「何やってんのよ」
「いや、つい」
娘のほうは、頬を赤くして、俺を見上げていた。
「あ、あの……さっき、わたしの前に、いきなり、すって現れて……しーって……」
「ああ、ごめん。驚かせたな」
「い、いえ! あの、その、すごく……」
娘の顔が、どんどん赤くなっていく。
(待て。これは、まさか。助けた娘さんに惚れられるという、伝説のイベントでは)
心の中で、ガッツポーズをしかけた。
その横で、クレアの目が、どんどん細くなっていく。
なんだろう。急に、気温が下がった気がする。
◇
商人は、宿場町まで、荷車に乗せてくれると言った。
縛り上げた野盗たちは、荷台の後ろにくくりつけて、宿場町の衛兵に引き渡すことになった。
荷トカゲが、のしのしと歩き出す。
荷台の上で、商人が、何度も礼を言いながら、身の上を話してくれた。
水都に麦を届ける途中だったこと。最近、街道に野盗が増えていること。
「水都の様子が、どうもおかしくてねえ」
商人は、眉をひそめた。
「パンの値段が、どんどん上がってるんですよ。黒麦のパン一つ、二リムだったのが、今じゃ六リムだ。
麦は、例年どおり採れてるはずなのに。
どこかで、誰かが、買い占めてるんじゃないかって噂でね。
だから、こうして、田舎の麦を運べば、いい値で売れるんですが……
そのせいで、野盗にも狙われる」
水都。
俺は、懐の手帳に、そっと手を当てた。
雨ににじんで読めなかった、最後のページ。
カイは、何に気づいていたのだろう。
◇
日が暮れる前に、宿場町に着いた。
街道沿いに、宿屋と、馬屋と、鍛冶屋が、ひとかたまりに並んだだけの、小さな町だった。真ん中に、石を組んだ井戸が一つ。荷トカゲをつなぐ杭が、ずらりと並んでいる。
それでも、コレット村しか知らない俺には、十分ににぎやかだった。
旅の商人、巡礼者、荷を運ぶ人夫。人族、エルフ、ドワーフ、獣人。街道を行き来する人たちが、日暮れとともに、この小さな町に吸いこまれていく。
「……おお」
思わず、声が出た。
商人に案内された宿屋の一階は、酒場になっていた。
扉を開けた瞬間、熱気と、笑い声と、酒と肉の匂いが、どっと押し寄せてきた。
長いテーブルに、旅人たちがひしめいている。ドワーフが、ジョッキを打ち鳴らして歌っている。首からランクの文字が刻まれたプレートを下げた冒険者たちが、今日の獲物の魔石を見せびらかし合っている。獣人の冒険者たちが、腕相撲で盛り上がっている。エルフの吟遊詩人が、隅のほうで竪琴を弾いている。
異世界の、酒場だ。
ゲームや漫画で、何百回も見た、あれだ。
冒険者が集まって、情報を交換して、依頼を受けて、旅立っていく、あの場所。
「……あんた、また、子どもの顔してる」
クレアが、あきれた声で言った。
「してない」
「してる。目が、きらきらしてる」
してたと思う。
◇
商人が、お礼にと、夕食をおごってくれた。
骨付きの肉の煮込み。焼きたての、白いパン。果実酒。
食べながら、じいさんが、さりげなく、テーブルを指で叩いた。
こん。
こん、こん。
一回。間を置いて、二回。
見回りの時の、あの合図だった。
「カイ。これを、覚えておけ」
じいさんは、声を落とした。
「灯守の合図だ。三度叩かれたら、二度返す。こうだ」
こん、こん。
じいさんは、指で二度、テーブルを叩いた。
「町には、灯守に手を貸してくれる者がおる。宿屋の主人だったり、鍛冶屋だったり、酒場の給仕だったりする。そういう者の店には、どこかに、小さな灯の印がある」
じいさんは、目で、酒場の奥を示した。
カウンターの上の、壁。古びた木の看板に、焼きごてで、小さな模様が押されていた。
ランタンの中で燃える、一つの炎。
カイの手帳の、裏表紙と同じ。
「店に入ったら、何か注文するふりをして、三度叩く。相手が二度返してきたら、仲間だ。困った時は、そこを頼れ」
ちょうど、カウンターの奥から、宿の主人が、果実酒のおかわりを持ってきた。
恰幅のいい、ひげの男だった。
主人は、果実酒の瓶をテーブルに置くと、
その瓶の底で、こん、こん、と二度、テーブルを叩いた。
そして、何事もなかったように、カウンターへ戻っていった。
……本当に、いた。
この世界には、表の世界と、もう一つ、陰の世界がある。
その陰の世界に、俺は、今、足を踏み入れたのだ。
◇
隣のテーブルでは、旅の商人たちが、酒を飲みながら、大声で噂話をしていた。
「聞いたか。王都の王太子殿下の話」
「ああ、あれだろ。まだお若いのに、ずいぶん落ち着いてらっしゃるっていう」
「落ち着いてるだけじゃないらしいぞ。宮廷の会議じゃ、古株の大臣たちが束になってかかっても、殿下ひとりに言い負かされるんだと。数字にも、法にも、隣の国の事情にも、やたら詳しくてな」
「へえ。大臣が裸足で逃げ出すってやつか」
「まさにそれだ。この国も、しばらく安泰だな」
商人たちは、笑いながら、ジョッキを打ち鳴らした。
年の若い王子様が、大臣より賢い。
日本で言えば、高校生くらいの子が、国会で大臣を論破しているようなものだろうか。とんでもない天才がいるもんだ。
確かに、そりゃあ安泰だな。
俺はそう思って、骨付き肉にかぶりついた。
◇
その夜は、久しぶりに、ベッドで眠った。
藁ではなく、綿の詰まった、ふかふかのベッドだった。
隣の部屋から、クレアの「ベッド……」という、幸せそうな寝言が聞こえてきた。
◇
宿場町を出て、二日目の昼。
なだらかな丘を上りきったところで、じいさんが、足を止めた。
「見えたぞ」
杖の先が、丘の向こうを指した。
俺は、その先を見た。
緑の平原の真ん中を、一本の川が、きらきらと光りながら流れていた。
その川をまたぐように、町があった。
高い城壁はない。代わりに、色とりどりの屋根が、川の両岸に、ぎっしりと並んでいる。若草色、桃色、空色、たまご色。丸い屋根、とんがった屋根、くるりとねじれた煙突。
まるで、絵本の中の町だった。
「……かわいい」
クレアが、ぽつりとつぶやいた。
「ミルフェの町だ。あの町に、書庫がある」
じいさんが、静かに言った。
「カイの報告が、届くはずだった場所だ」
俺は、懐の手帳を、服の上から、そっと押さえた。
カイ。
もうすぐだ。
お前の最後の報告を、ようやく、届けられる。
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