アーマーベア変異種
アーマーベアは、峠の頂上近くの岩だらけの斜面にいた。
最初に気づいたのは匂いだった。獣の匂いと、何かが腐ったような匂い。三本角のビッグボアの時と同じ匂いだ。
岩陰から、そっとのぞく。
「うっそだろ・・・」
超〜でかいんだが。思ってたのと全然違う。
立ち上がったら二階建ての家の屋根に届きそうな、黒い熊の魔物だった。
アーマーベア。鎧のように硬い毛皮をまとった熊の魔物だと、手帳にあった。
普通のアーマーベアなら、立ち上がっても人の背丈の倍ほどで、背中は硬い毛皮におおわれているだけだという。
こいつの背中には、無数の棘がハリネズミのように突き出している。
一本一本が、槍の穂先ほどもある。
普通のアーマーベアに、棘は生えていない。
ちょっと待て、このアーマーベアのこと、じいさんは「どうということはあるまい」って言ったのか。
チラッとじいさんを見ると、驚愕の表情で目を見開いている。
めちゃくちゃ不安になったんだが。
アーマーベアは、岩の間に頭を突っこんで何かを食べていた。
その左の後ろ脚が、少しだけ地面から浮いている。
『左の後ろ脚をかばう癖あり』
カイの記録どおりだった。
「……どうする」
クレアが小声で聞いた。
その手が剣の柄を握りしめている。指の関節が白くなっていた。
俺はアーマーベアを見つめながら、さっき地面に描かれた線を頭の中でなぞった。
まず、ゴール。どこを突けば仕留められるか。
心臓はだめだ。あの分厚い毛皮と肉の奥まで、この短い刃はたぶん届かない。
なら、喉だ。顎の下。前にテレビの動物番組で、熊の喉元は比較的毛皮が薄いと言っていた、気がする。
とにかく顎を切る。それで死なない生物はいないだろう。
でも、四つ足で歩いているアーマーベアの顎の下は、地面すれすれだ。潜りこめば、真上からあの巨体と牙が降ってくる。
だから、段取りを二つに分ける。
背中の棘で、上からは刺せない。正面は爪と牙。あの巨体の一撃をもらったら、一発で終わりだ。
そして、弱点は左の後ろ脚。
なら。
「作戦を、二段階に分けます」
俺は二人に向き直った。
「第一弾。ギルさん、アーマーベアの正面に出ていただけますか。斬らなくていいです。払って、いなして、気を引くだけで」
「うむ。それは、わしの仕事だ」
じいさんは、あっさりとうなずいた。
あの爪を正面で受け流せるのは、この中ではじいさんしかいない。
「クレアは、向かって左の岩陰に隠れててくれる? アーマーベアがギルさんに向かって踏みこんだら、右の前脚を突いてほしいんだ」
「……わたしが?」
クレアの顔がこわばった。まぁ、怖いよね。
「狙うのは、毛で覆われた脚じゃないよ。前脚の先の、指のところ。あそこには毛がないから、細い剣でもたぶん通る」
俺はアーマーベアの前脚を指さした。岩をつかむ太い指が、黒い肌をむき出しにしている。
「指を突かれて痛みが走れば、右の前脚を引くはずなんだ。体勢が左に傾く。かばってる左の後ろ脚に体重がかかる」
「小さい的じゃない。動いてるのよ」
「今朝、木の幹の一点にきれいに吸いこまれてたよね。クレアならできるよ」
クレアが目を見開いた。
それから、ぷいっと横を向いた。耳の先が赤い。
じいさんの眉が、ぴくりと動いた。じいさんはクレアの横顔を、しばらく見ていた。
「……足で突け。肩ではなく、足でな」
「わかってるわよ」
今度は言い返さなかった。クレアは剣の柄を握り直した。さっきより、指の白さが少しだけ薄くなっていた。
「突いたら、すぐに下がってくれるか? 深追いはしなくていいからね」
「そこで、僕が消えたまま近づいて、左の後ろ脚の膝の裏を刺します。脚を奪えば、ひとまず安全に戦えます」
「刺したら、あやつは振り向くぞ。お前さんの姿が出る」
「わかっています。刺したら、すぐにあの岩の陰に飛びこみます」
俺は、アーマーベアの左手にある大きな岩を指さした。
「僕の姿が出たら、お二人でアーマーベアの目を引きはがしてください。僕が岩陰で消え直すまで」
「……ほう。それで、第二弾は」
「座りこんだアーマーベアの鼻先を、ギルさんが斬ってください。浅くていいです。痛みで頭を上げて吠えるはずです。頭が上がれば、顎の下ががら空きになります」
俺はアーマーベアの顎の下を見つめた。
「そこを、岩陰から出て下から刺します」
じいさんは、しばらく俺を見ていた。
それから、にやりと笑った。
「それで、いこう」
じいさんは仕込み杖の握りに手をかけた。
「一つだけ足しておく。お前さんが顎の下を突いたあと、もしアーマーベアが最後に暴れたら、それはわしが受け持つ。姿が出たあとのお前さんは、ただの薄い若造だからな」
◇
じいさんが岩陰から、ゆっくりと歩み出た。
仕込み杖の先で、足元の岩を、かつん、と打つ。
「こっちだ、でかいの」
アーマーベアが岩の間から頭を抜いた。
アーマーベアが動いた。
小さな目が、じいさんを捉える。
低いうなり声。ゴアアアァァと響き、地面がびりびりと震えた。
アーマーベアが後ろ脚で立ち上がった。
でかい。本当に二階の屋根に届きそうだった。
じいさんは退かなかった。半身になって、杖を軽く構えただけだった。
アーマーベアが前脚を振り下ろした。
じいさんが、半歩だけ横にずれる。仕込み杖を抜きもせず、振り下ろされる爪の横腹を、こつん、と叩いた。
それだけで、爪の軌道がわずかにそれた。
爪はじいさんの肩のすぐ横を素通りして、背後の岩をばきりと砕いた。
真正面から受けたら、杖ごと叩き潰されるはずの一撃だ。それをほとんど動かずに、横から押してよけさせた。
アーマーベアが、もう一度前脚を振るう。じいさんが、また杖で払う。いなす。半歩下がる。
攻めない。倒そうとしない。正面で、相手の目をひたすら引きつけ続ける。
きのう地面に線を引きながら言っていたことを、じいさんはそのままやっていた。
元王国騎士って、こういうことか。
いら立ったアーマーベアが四つ足に戻った。じいさんを押しつぶそうと、右の前脚をずしんと前に踏み出す。
岩をつかむように開いた太い指。毛のない黒い肌。
その瞬間。
アーマーベアの右手の岩陰から、金色の髪がひるがえった。
クレアだった。
「次はこっちよ、豚!」
クレアはビッグボアのことも豚って呼んでたよね。
…いつか俺のことも豚って呼ぶんだろうか。
俺が新しい扉を開きかけてゾクゾクしている間にも、クレアは迫る。
後ろ足で地面を蹴り、体ごと前へ滑りこむ。肩ではなく、足から。今朝、木の幹を突いた時と同じ、きれいな踏みこみだった。
細身の剣が、地面に突いた前脚の指の付け根へ、まっすぐ伸びる。
ーシュッ。
切っ先が黒い肌に吸いこまれた。
グアアアア!
アーマーベアが痛みに驚き、右の前脚を跳ね上げた。
クレアは、もうそこにいなかった。剣を引くと同時に跳び退いている。高く結んだ髪が、遅れて金色の弧を描いた。
右の前脚を浮かせたまま、巨体が左に傾く。
かばっていた左の後ろ脚に、全体重がかかる。
アーマーベアが苦痛の声をあげた。
すでに俺は、アーマーベアの左側に回りこんでいた。
クレアが飛び出した瞬間から、息を殺し、背中を丸め、つま先から、外側から内側へ。体のまわりに膜が張っていた。
足の裏で、地面と話をするように足を運ぶ。
アーマーベアの目も鼻も、正面のじいさんと指を突いたクレアに向いていた。
誰も俺を見ていない。
逆手に握った、角の柄の短剣。
目の前に、アーマーベアの左の後ろ脚があった。かばっていたその脚に、今、山のような体重がまるごと乗っている。
丸太のような脚の膝の裏。そこに太い筋が一本、張りつめているのが見えた。
この脚一本で、あの巨体を支えている筋だ。
第一弾。
俺は張りつめた筋に、短剣を思いきり叩きこんだ。
刃が筋を断ち切る、ぶつりという手応え。
アーマーベアが絶叫した。
左の後ろ脚が、がくりと折れる。巨体が尻もちをつくように、左の腰から岩の上に崩れ落ちた。
立ち上がろうとして、また崩れる。もう、あの脚は体を支えられない。
その代わりに、アーマーベアは激痛のもとを探して、巨体をねじった。
速かった。
あの巨体からは想像もつかなかった。怒り狂ったアーマーベアは、座りこんだまま信じられない速さで、上半身ごとこちらへ向き直った。
振り向いた小さな目が、俺を捉えた。
膜が、すっと消えた。
左の前脚を振るう。
よけきれなかった。
爪の先が胸を掠める。
服が裂ける音。その下の皮膚が裂ける感触。
――その時。
「こっちだと言っとるだろう!」
じいさんの杖が、アーマーベアの右の肩口をがつんと打った。
同時に、クレアが横から飛びこんで、さっき突いた右の前脚の指をもう一度突いた。
アーマーベアの目が、俺から引きはがされた。
その隙に、俺は決めておいた岩の陰へ転がりこんだ。胸の傷がヒリヒリし、目の前がチカチカする。
アーマーベアの目から、俺の姿が消える。
岩に背中を押しつけたまま、息を殺す。背中を丸める。
呼吸を浅く、細く、長く。
心臓が口から飛び出しそうだった。
でも、ここまでは段取りどおりだ。
◇
岩の向こうで、アーマーベアが吠えていた。
いや。吠えるなんて、生やさしいものではなかった。
岩陰から、そっとのぞく。
アーマーベアは座りこんだまま、狂ったように暴れていた。
手負の獣ってやつだ。とはいえ、この大きさで暴れられると近寄ることもできない。
脚を奪われた痛みと怒りで、完全に我を失っている。両方の前脚をでたらめに振り回す。岩を殴り、地面をえぐり、そばの若木を根こそぎ薙ぎ倒す。
動かない後ろ脚を引きずりながら、前脚だけで巨体をぐるぐると回す。
そのたびに、背中の棘が槍ぶすまのように四方八方を向いた。
近づけない。
どこから近づいても、爪か牙か棘がある。
こう着状態だ。
・・・。
ふと、思った。
・・・いや、もうこれ、放っておけばいいんじゃないか?
こいつもそのうち暴れ疲れる。
そして動けないなら、いずれ弱って死ぬんじゃないか。
そんなことを考えていると、じいさんがアーマーベアの正面へ踏みこんだ。
刃が鼻先を狙って走る。
当然、作戦はまだ続いていた。第二弾が始まった。
クレアもやる気満々だ。
「もう放っておこうかな」なんて考えているのは俺だけだ。
いかんいかん。
よし、俺もやろう。
放置プレイをして弱るのを待つのはプランBだ。
まずは決めたとおりやろう。
アーマーベアの前脚が、じいさんの打ち込みを牽制した。
刃は鼻先の皮を、浅くかすめただけだった。
アーマーベアが吠えた。
頭は上がらない。
それどころか、アーマーベアは頭を低く低く下げ、顎を胸に押しつけるように首を縮めた。鼻先を、両方の前脚の間に隠すように。
痛いところを守ったのだ。
顎の下が、まるで見えない。
……くそっ
思わず、声が漏れそうになった。
頭を上げて吠えるはずだったが、そう思うようにはいかないか。
アーマーベアは頭を下げたまま、前脚を振り回し続けている。じいさんが、もう一度鼻先を狙って踏みこむ。前脚に阻まれる。下がる。また踏みこむ。
爪が、じいさんの外套の裾をばりっと裂いた。
「おじいちゃん!」
クレアが踏みこんだ。
細身の剣が、まっすぐ伸びる。
きぃん。
切っ先が、分厚い毛皮の上で滑った。刺さらない。細い刃がしなって、跳ね返される。
ビッグボアの時と同じだった。
だが、その一歩が近すぎた。
アーマーベアの前脚が、クレアに向かって横なぎに飛んだ。
クレアが、とっさに剣で受ける。
がぎん、と嫌な音がした。
細身の剣が、真ん中からぽきりと折れた。
折れた刃が、くるくると宙を舞う。クレアの体が紙きれのように弾き飛ばされ、岩に背中を打ちつけた。
クレア!
俺は岩陰から飛び出しかけた。
足が半分、前に出ていた。
――見られれば、姿が出る。姿が出れば、狙われる。
じいさんの声が、頭の中で鳴った。
今、俺が出ていったら。隠密の解けた俺が、あの爪の前に出ていったら。
クレアを助けるどころか、もう一人怪我人が増えるだけだ。
俺は歯を食いしばって、岩陰に体を押し戻した。
拳を握りしめる。爪が手のひらに食いこんだ。
クレアは岩にもたれたまま、咳きこんでいた。でも、折れた剣の柄をまだ握っている。立ち上がろうとしている。
生きている。
よかった。
でも。
どうする。
アーマーベアは頭を下げて首を縮めたまま、暴れ続けている。この段取りのままでは、顎の下はいつまで経っても出てこない。
その間に、じいさんの体力が削られる。クレアが、また弾き飛ばされる。
段取りが崩れた。
――その時は、もう一度考え直すんじゃ。
どうする、プランB発動か?
せっかくここまで二人が引っ張ってくれたのに、こんな弱気のプランしか思いつかない。
他のプランはないか。
考えろ。
考えろ、考えろ。
でも、何も浮かばなかった。
その時。
「クレア、下がれ! アーマーベアから離れろ! カイ、そのまま動くな!」
じいさんの声が峠に響いた。
じいさんはアーマーベアの正面から、すっと身を引いた。
それから、裂けた外套の留め具を片手で外した。
大きな旅の外套。
じいさんは、掴んだ手を高く上げた。
アーマーベアが、ひらひらと揺れる外套に、頭を低くしたまま牙をむいた。
じいさんが一歩踏みこむ。
そして、広げた外套をアーマーベアの頭を目掛けて投げた。
アーマーベアの頭の上から、ばさりとかぶさる。
アーマーベアの目が、鼻が、厚い布にすっぽりと覆われる。
アーマーベアが、うろたえたようにうなった。
何も見えない。顔に何かが張りついている。
アーマーベアは前脚で、顔の外套をかきむしった。
顔を守るどころではなくなった。両方の前脚が外套に取られている。
鼻先が、がら空きになった。
じいさんは、それを待っていた。
外套をかぶせた勢いのまま、もう一歩踏みこむ。
前脚の間に、仕込み杖の刃がするりと滑りこんだ。
外套の上から。
布ごと、アーマーベアの鼻先を横一文字に深く斬り裂いた。
布の裂け目から、赤いものがぱっと散った。
アーマーベアが絶叫した。
さっきのかすり傷とは、比べものにならない声だった。
一番痛いところを、見えないまま斬られた。
アーマーベアは痛みから逃れようとするように、頭を天に向かって大きく振り上げた。
縮めていた首が伸びる。
天に向かって口を開け、痛みと怒りの咆哮をあげる。
頭が上がった。
首が反った。
その、顎の下。
棘も分厚い毛皮もない、喉の奥。顎の骨の付け根の、すぐ内側に。
見えた。
青白い小さな光の点。
三度目だった。
もう驚かなかった。
アーマーベアの目も鼻も、外套の下だ。爪は、顔に張りついた布を必死にかきむしっている。
俺は岩陰から飛び出す。
息を殺したまま、アーマーベアの左の脇へ。体勢を低くして、座りこんだ巨体の腕の下に潜りこむ。
そして、真下から。
今度は順手で短剣を握った腕を、引き絞る。
その瞬間、俺の世界から音が消えた。
アーマーベアの咆哮が、水の向こうへ遠ざかる。かきむしられる外套の動きが、舞い散る赤い飛沫が、ゆっくりになる。まるで水の中で見ているみたいに。
握った短剣が、青白く光った。
顎の下の光の点に、重ねるように。
短剣を突き上げた。
刃が青白い光の線を引く。
音もなく、すっと顎の下に突き刺さった。
一拍おいて、俺の世界に音が戻る。
アーマーベアの咆哮が戻り、途中でぶつりと途切れた。
巨体が、びくん、と大きく跳ねた。
それでも、アーマーベアはまだ倒れなかった。
最後の力で、右の前脚が持ち上がる。腕の下にいる俺の頭の上に。
外套をかぶったアーマーベアは、俺を見ていない。膜はもう消えている。
でも、見えていなくても、暴れる前脚はそこにいる俺を潰せる。
よけられない。
――その時、影がアーマーベアの右の脇の下に滑りこんだ。
じいさんだった。
仕込み杖の細い刃が、アーマーベアの脇の下、毛皮の薄いところから、まっすぐに胸の奥へと突き入れられた。
振り上げられた前脚が、空中で止まった。
ゆっくりと、力なく垂れ下がっていく。
俺はその下から、転がるように抜け出した。
巨体が、ゆっくりと横倒しになった。
どう、と山が揺れた。
棘だらけの背中が、岩の上に沈んだ。
それきり、アーマーベアは動かなかった。
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