第五話:ハブ都市の枷と、煤煙の呼び声(前編)
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「——神楽、本気で【下層】の『排気底』へ行くつもりか?」
カウンターの向こうで、オルドがいつになく険しい顔で煙管の灰をトントンと叩き落とした。真鍮のボイラーからは、いつも通り香ばしい珈琲の気が立ち上っている。
「ああ。俺のカメラと、あの『からくり箱』に刻まれていた共通の接合記号……。
この世界の構造と、俺が落ちてきた日本の廃墟の接点を探るには、排気底にあるという『旧時代の廃棄炉』を見るしかない」
俺は、冷めた珈琲を口に含みながら静かに答えた。
「行くのは構わん。だがな、神楽。この『蒸鋼都グラントヴァル』の移動ルールを甘く見るなよ。ここは、通りを曲がれば隣の区へ行けるような単純な街ではないんじゃ」
オルドは擦り切れた羊皮紙の都市図をテーブルに広げた。
そこには巨大な歯車のように入り組んだグラントヴァルの階層構造が描かれている。
「ワシたちのいるここ『フォグラード区』は【中層】のエリアBじゃ。だが、ここから直接【下層】へ降りるルートも、あるいは他のエリアへ行く道も……存在せん」
「……存在しない?」俺は眉をひそめた。「先日、アーカム家の令嬢エレノア殿の件で【上層】の商業裁判所へ行ったじゃないか。普通に行けたように記憶しているが」
「あれは『エレノア殿がいたから』じゃよ!」
オルドが呆れたように溜息をついた。
「この都市の交通は、すべてエリアA『グラント中央港区』が唯一のハブになっておる。エリアB(居住区)やエリアC(市場区)から、他の階層や特殊な区画へ向かうには、必ず一度エリアAを経由せねばならん。そして……あの時は上層の大貴族であるアーカム家の特別乗船許可証と、彼女の専用飛行船があったからこそ、チェックポイントを顔パスで通過できたのじゃ」
「なるほど」俺は頷いた。「巨大な一極集中型の検問システムか。上下階層の行き来を制限し、特権階級が人流と物流を完全に管理するための『法的・物理的構造』だな」
「その通りじゃ。特に飛行船に乗れるのは、ハブであるエリアAと、古い墓地や教会がある孤立特区『エリアD(アーカム・墓標区)』の二箇所のみ。個人で下層へ降りるとなれば、エリアAの厳しい検問を通り、排出用エレベーターの通行許可証を手に入れる必要がある」
俺はカメラのレンズキャップを弄りながら思考を巡らせた。
公的な手続きを踏めば、当然上層のギルドに俺たちの動きが察知される。先の裁判でメンツを潰されたバルト一味やギルドの連中が、俺たちを野放しにするはずがない。
「面倒な移動制限だな。だが……ルールが厳格であればあるほど、裏の抜け道(抜け穴)もまた存在するはずだ」
「カッカッカ! 言ってくれるわい。……まあ、その『裏の抜け道』を知っておるのが、ワシのような長生きのジジイなんじゃがな」
オルドが不敵に笑った、その時だった。
『蒸湯屋』の裏手にある勝手口の扉が、ガタガタと激しく叩かれた。
正面の真鍮ベルではなく、密やかな、だが切迫したノック。
オルドが眉をひそめ、懐に真鍮の短銃を忍ばせて扉を薄く開ける。
すべり込んできたのは、防煙マスクを首にかけた小柄な少年だった。
全身煤だらけで、呼吸をするたびに胸からヒューヒューと痛ましい異音が漏れている。
「オルドのじいさん……っ! 助けてくれ……!」
「トードか! 息を落ち着かせい。一体どうした?」
少年——トードは、下層『排気底』で身寄りのない孤児たちを束ねている少年だった。
トードは荒い息を吐きながら、懐から一枚の煤けた鉄板……いや、鉄板に直接刻印された「退去宣告書」を取り出してテーブルに叩きつけた。
「ギルドの連中が……『排気パイプの清掃費用が未払いだ』って言って、俺たちの居住区の蒸気バルブを閉め始めたんだ! 明日までに立ち退かないと、部屋に致死量の高熱蒸気を流し込むって……!」
俺は手袋をはめた手でその鉄板を取り上げ、ファインダー越しに観察した。
鉄板に刻まれていたのは、上層の黒ギルドが下層住民に対して突きつける不当な搾取協定。
だが、俺の目を惹いたのはその文書ではなく、鉄板の枠に打ち込まれた「特殊な留め具」の構造だった。
「……オルド。この鉄板、エリアAを通らずに下層の第7区画へ直通している『廃棄ダクトの緊急バルブ』のロック機構じゃないか?」
オルドが目を丸くした。
「なに……!? お前さん、なぜそれを……!?」
「観察すればわかる。この留め具の消耗具合と油の匂いは、定期的にエリアBの廃棄物と一緒に下層へ叩き落とされている証拠だ。……トードと言ったな。君たちはこのダクトを使って、密かに中層と下層を行き来しているな?」
トードが驚愕で目を見開いた。
「あんた……なんでそれを……! そうだよ! 俺たちはエリアAの検問を通れないから、命がけで廃棄ダクトを降りてるんだ! でも、この鉄板でバルブをロックされたら、路地が塞がれるだけじゃなく、高熱蒸気で全滅させられる……!」
トードは必死な目で俺にしがみついた。
「お願いだ! 上層の裁判で勝ったっていう『神楽先生』! 下層にはまともな法律なんてない……力ずくで追い出されたら、俺たちは行く場所がないんだ!」
俺はカメラを首に下げ、上着のボタンを留めた。
「オルド。下層へ行くための『通行許可証』も『飛行船』も、最初から必要なかったようだな」
「神楽……! 本気か!? 下層の不法占拠案件だぞ! 向こうは言葉より先に暴力で喋る連中じゃ!」
「暴力もまた、不完全な構造の一つだ」
俺は薄く微笑んだ。
「そして、彼らが塞ごうとしているそのダクトの先にこそ……俺たちの探す『旧時代の廃棄炉』がある」
俺はトードの煤けた頭をぽんと叩いた。
「案内しろ、トード。……君たちの家を守り、ついでに俺たちの『通り道』を作るとしよう」
次回は後編です!




