第2話 幼馴染
第2話 幼馴染
宿場町の宿屋に戻り、荷物を整理し終えると、途端に部屋の中が静まり返った。知秋は周囲の見回りに行ってきますとだけ言い残し、気配を消すようにして外へ出ていった。
天蕊は一人、残されていた。
板張りの床に直に座り込み、壁に背を預けた途端、張り詰めていた糸が切れたように深い疲労が押し寄せてきた。
賑やかな市場の喧騒も、知秋と言い合った可笑しな掛け合いも、すべてが遠い幻だったかのように、部屋の中はひっそりとしていた。ふと静かになったその瞬間――。
天蕊の思考は、まるで深い水底へ沈んでいくかのように、自然とあの一片の容赦もない夜の記憶へと流れていった。
◇
それは、きらびやかな蝋燭の光が灯る、王宮の晩餐の席だった。
目の前には、透き通るような水晶餃子や、大輪の牡丹を模した冷菜の盛り合わせが美しく並んでいた。
しかし、宮殿の冷気の中で、最高級の鹿肉の煮込みの汁は白く固まり、せっかくの燕窩のスープからも湯気は一切立ち上っていない。
大卓にはそんな見た目だけの贅を尽くした料理が並び、父である国王も、王子である兄たちも、皆一様に上機嫌で上質な酒を煽っていた。
「天蕊、決まったぞ。隣国の第一皇子との婚姻だ」
父が、まるで今日の天気を語るかのような気軽さで、けれど絶対の決定としてそれを告げたのだ。
兄たちもまた、「これで我が国も安泰だな」「めでたい話だ」と口々に笑い、杯を掲げてみせていた。
それは、誰も天蕊自身の意思など最初から求めていない、冷徹なまでの当たり前だった。
隣国との和平の道具として、生まれながらに定められていた役割。
それを果たすのが王女の義務であり、疑う余地のない幸福なのだと、周囲の誰もが信じて疑わなかった。
(ああ、私はあそこに、人間ではなく象徴として置かれているだけなのだわ)
胸の奥が凍りつくような感覚を覚えながらも、天蕊は表向き、ただ静かに微笑んで頷くしかなかった。逆らう言葉など、あのきらびやかで息の詰まる空間のどこにも存在しなかった。
波風を立てず、ただ微笑んで、すべてを受け入れることこそが、天蕊にできる唯一の、そして最後の抵抗のつもりだった。
日取りが決まる、あの瞬間までは――。
「めでたい話だ、実にめでたい」
乾いた杯の触れ合う音が、天蕊の胸の奥で冷たく反響した。
晩餐が終わり、自室に戻った天蕊は、豪華な調度品に囲まれた部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
婚姻の日取りは、次の満月の夜。
あと半月もすれば、自分は別の国の、見たこともない男の元へと送り届けられ、そこで一生を和平の飾り人形として終えることになるからだ。
(嫌だ、とは言えなかった。けれど――)
窓の外を見上げると、夜空にはあの時と同じ、抜けるような暗青色の闇が広がっていた。ここでただ微笑み続けて死んでいくくらいなら、いっそ、誰も自分を知らない場所で、一人の人間として泥にまみれて生きてみたい。
その想いが一度芽生えると、それは確かな熱となって、天蕊の細い身体を突き動かした。
持てるだけのわずかな路銀と、動きやすい仕立ての古い衣を纏い、天蕊は深夜の王宮の裏口へと走った。
心臓が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いていた。張り巡らされた結界の隙間を抜け、ようやく城壁の外へと這い出したその瞬間だった。
冷たい夜気が喉を刺し、息を吸うたびに胸の奥がきゅっと縮んだ。
「――そこまでです、姫様」
闇の向こうから現れた背の高い影に、天蕊は息が止まるかと思った。月光を浴びて鈍く光る剣の柄。
そこに刻まれているのは、王宮の警護を一手に引き受ける名門・葉家の紋章。
姿を現したのは、他でもない、幼馴染の葉知秋だった。
(ああ、やっぱり見つかってしまった。彼は、私を連れ戻しに来たのだわ)
天蕊は絶望に足元が崩れそうになりながらも、知秋をまっすぐに見据えた。連れ戻されれば、今度こそ自由はない。それでも、知秋にだけは、人形ではない自分の本当の声を伝えたかった。
「知秋。私は、あの冷たい宮殿には戻りません。国を裏切る大罪人として、ここで私を斬るというのなら、そうしてください」
絞り出すような天蕊の言葉に、知秋はしばらく無言のまま佇んでいた。
夜風が二人の間を通り抜けていく。やがて知秋は、ゆっくりと剣から手を離すと、静かにその場に片膝を突いた。
「俺の実家からは、不穏な動きを見せる姫様を監視し、もし逃亡の兆候あれば即座に捕縛せよとの命が下っておりました」
「知秋……」
「ですが、俺は葉家の人間である前に、姫様の護衛です。……何より、あんな冷え切った場所で、姫様の笑顔が摩耗していくのをこれ以上見ていたくはないのです」
知秋は顔を上げ、まっすぐに天蕊を見つめた。
その瞳には、一族を裏切るという、底知れない恐怖を押し殺した男の、壮絶な覚悟が宿っていた。
「一族の命には背きます。俺のすべてを捨てて、姫様をここから連れ出します。……さあ、私の手を取ってください。二度と、あの場所へは戻らせない。さあ、早く」
知秋が差し出した無骨な右手を、天蕊は震える手で強く、強く握りしめた。それが、二人の逃避行の本当の始まりだったのだ。
◇
「……姫様、戻りました。周囲に不審な者はいません」
パチリ、と囲炉裏の薪が爆ぜるような音がして、天蕊はハッと我に返った。
部屋の扉が静かに開けられ、見回りを終えた知秋が中に入ってくるところだった。
過去の冷たい記憶から、一瞬でいまの現実に引き戻された。そこには豪華な食事も、きらびやかな衣装もない。
けれど、目の前で外套の塵を払っているのは、自分の意思で手を取り合ってここにいる、かけがえのない幼馴染だった。




