その141 「夏の客人Ⅲ」
とりあえず返事だけする悠馬君
夜になると、ウィルトシャーの屋敷は静かになった。
子供たちは一日中走り回ったせいで、
夕食のあとすぐ眠った。
広い屋敷は、夜になると音が遠くなる。
テラスにはまだ灯りが残っていた。
テーブル
グラス
夏の夜の空気
悠馬は一人で座っていた。
書類を閉じる。
その時、声がする。
「隣、いいか」
振り向く。
レオンだった。
「どうぞ」
レオンは椅子に腰を下ろす。
グラスを持つ。
少し沈黙。
夜の虫の音が聞こえる。
レオンが言う。
「娘が世話になる」
悠馬は首を振る。
「こちらこそ」
「賑やかで助かります」
レオンは笑う。
「賑やかすぎるかもしれないが」
悠馬は庭を見る。
暗い芝生。
昼の騒ぎが嘘のようだ。
レオンが言う。
「仕事の話は昼にした」
「今は別の話だ」
悠馬は少し姿勢を正す。
レオンは悠馬を見る。
静かに観察するような視線だった。
「君は」
少し間。
「面白い男だ」
悠馬は困った顔をする。
「そうでしょうか」
「うちの娘は」
レオンは笑う。
「ウサギと言っていた」
悠馬が固まる。
「……」
レオンが笑う。
「気にするな」
悠馬は真顔で答える。
「気にしていません」
レオンは少し肩を揺らす。
「そうか」
少しの沈黙。
レオンが続ける。
「だが」
「弱い男ではない」
悠馬は何も言わない。
レオンはグラスを回す。
「弱い男は」
「こんな場所には座っていない」
悠馬は視線を落とす。
それ以上は答えない。
レオンは少し笑う。
「なるほど」
庭の向こう。
声がする。
小さい声。
言い合い。
芝生の端。
ロッテとイーサンだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ウサギじゃん」
ロッテが言う。
イーサンが首を振る。
「違うって」
「どこが」
「優しいよ」
「弱いだけでしょう?」
「弱い事と優しいのは違う」
ロッテは腕を組む。
「ママには合わない」
イーサンが止まる。
「え?」
ロッテは言う。
「母の横に立つなら」
「もっと強い人じゃないと」
イーサンは庭を見る。
テラス。
悠馬。
レオン。
そして言う。
「叔父さん強いよ」
ロッテが笑う。
「どこが」
イーサンは真顔になる。
「絶対逃げない」
ロッテが眉を上げる。
「?」
イーサンは続ける。
「ノア叔父さんが何言っても」
「叔父さん逃げない」
ロッテは少し考える。
確かに。
ノアは厄介そうだった。
でも悠馬は怒らない。
逃げない。
ただ困っている。
ロッテは言う。
「弱いわ」
イーサンは笑う。
「それ違うな」
「?」
「鈍い」
ロッテが吹き出す。
「それはわかる」
イーサンも笑う。
「でしょ」
少し沈黙して、イーサンが言う。
「でもさ」
「叔父さん」
「恋してる」
ロッテがため息をつく。
「八ヶ月検討」
「遅い」
イーサンが笑う。
「でしょ?」
二人は同時にテラスを見る。
夜の灯り。
その中で。
悠馬がレオンと話している。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
レオンは庭を見る。
「子供は正直だ」
悠馬が言う。
「そうですね」
レオンは少し笑う。
「ロッテは君を気に入っていない」
悠馬は頷く。
「理解しています」
レオンが聞く。
「気にするか」
悠馬は首を振る。
「いいえ」
レオンは少し面白そうに言う。
「なぜだ」
悠馬は少し考える。
そして言う。
「正しいからです」
レオンが眉を上げる。
「ほう」
悠馬は庭を見る。
「私は」
少し間。
「弱そうに見える」
レオンは笑う。
「確かに」
悠馬は真顔で続ける。
「それは否定はできません」
レオンは静かに笑う。
「正直だ」
そしてグラスを置く。
「だが」
「それでも」
レオンは言う。
「面白い男だ」
悠馬は困った顔をする。
「ありがとうございます」
レオンは立ち上がった。
「娘は」
少し笑う。
「少し気が強い」
悠馬は頷く。
「そうですね」
レオンは続ける。
「簡単には許さない」
悠馬は答える。
「そうでしょうね」
レオンはグラスを置いた。
それから、悠馬をまっすぐ見る。
「それでも逃げるな」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「逃げる男は嫌いだ」
静かな声だった。
命令でも忠告でもない。
ただの事実のように言った。
悠馬は背筋を伸ばす。
「……はい」
レオンはそれだけで満足したように頷く。
「では、また明日」
そう言って屋敷へ戻っていった。
テラスに残る。
夏の夜。
風が少し涼しい。
悠馬はグラスを持ったまま、庭を見た。
暗い芝生。
その端で、まだ誰かが話している。
ロッテとイーサンだった。
何か言い合っている。
ロッテはテラスを見る。
灯りの中。
父と佐伯。
少し話して、父が立ち上がる。
屋敷へ戻る。
佐伯はそのまま座っている。
少し考えている顔。
イーサンが言う。
「怒られてた?」
「違う」
ロッテは首を振る。
「父は怒らない」
イーサンはテラスを見る。
「叔父さん怒られても気づかなそう」
ロッテは思わず笑う。
「それはある」
テラスでは
悠馬がまだ庭を見ている。
真面目な顔。
困った顔。
少し考えて。
そして小さく頷く。
何か結論を出したらしい。
ロッテは言う。
「……変な人」
イーサンが聞く。
「どっち?」
「どっちも」
ロッテはテラスを見る。
母はまだ屋敷の中だ。
あのウサギ。
弱そうで。
びくびくしていて。
でも。
”逃げない”
ロッテは少しだけ目を細める。
「……面倒ね」
イーサンが笑う。
「叔父さん?」
ロッテは言う。
「違う」
少し間。
そして小さく言う。
「ママ」
ーーーーーーーーーーーーーー
悠馬は小さく息を吐く。
(逃げるな)
言葉を思い出す。
(……何から?)
正直に言えば、心当たりがない。
仕事なら逃げない。
逃げたこともない。
契約も。
責任も。
交渉も。
全部、正面からやっている。
(……仕事ではない)
では何だ。
悠馬は少し考える。
考えて。
結論を出す。
(……不明)
情報が足りない。
悠馬は小さく頷く。
とりあえず結論。
(逃げない)
それでいいだろう。
テラスの灯りの向こう。
屋敷の窓に灯りがある。
夏の夜は長い。
そして悠馬はまだ知らない。
その「逃げるな」という言葉が、
”自分の人生の話”だということを。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
『佐伯悠馬の結婚事情(仮)』始まりました。
結婚する気がない男の結婚事情(仮)です。
相変わらず周囲がうるさく、悠馬の胃が忙しいです。
更新はのんびりですが、完結まで書いていく予定なので
よかったらまた覗いてください。
感想・フォロー等とても励みになります!




