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 ペンを走らせていた手を止めたその時、私の伸びきった頭髪をつたい落ちた汗が、紙に乗ったインクをにじませた。途端に息が止まる。じんわりと色を分けていくインクの染みを見ながら私の瞳孔は大きく開いた。それと同時に私の手からはペンが落ちる。私の体は脱力したように椅子の背もたれへ体重をかけ、腕は垂れ下がり、頭は大きく上を向いたまま動かなくなった。

 はっと息を吸い込んだ。私は静かに立ち上がる。この家の床はかなり悪くなっているようで一歩踏み出すたびに音が鳴るのだが、私の耳にその音は届いていないようだった。そして床に散らばっている沢山の本や書類やその他たくさんのガラクタを無理に動かし、人が一人寝れる程度の空間を確保する。続けて私はそこに落ちていたペンを拾い床に描き始める。それは「描く」という表現が正しいとされるか分からない形をしてあり、模様のようでありながら文字のようでもあるそれは、その象(かたち)がそれを以て意味を成しているものであった。

 私は迷いなくペンを進める。一度も途切れることなくインクの線は続き、床のほとんどがそれに埋め尽くされた。私はゆっくりと立ち上がりナイフを取り出すと、それを首に押し当てる。それからナイフを大きく引くと、首にできた綺麗な割れ目から多量の血液が流れ出る。私の首筋から出たそれは目の前に黒く広がる象に沿うようにして脈々と動き始める。鮮やかな赤色はいつの間にか黒く染まり、私が描いたそれに染むように動きが遅くなっていく。私はそれを見ているうちに段々と視界が狭まっていき、ついには見えなくなった。目の見えない暗闇の中で聞こえる、何かが這うようなその音は徐々に遠ざかっていくように感じられた——

「お兄ちゃん!またお弁当忘れてたよ!」

 そう言いながら僕のいる教室に入ってくる藍(あい)は僕の一つ下の妹で——

 「うっ…」

 急に辺りが光に包まれる。その光は僕が人生で経験してきたどの光よりも強く僕の網膜を焼いた。反射的に目を閉じるが奥に痛みが残る。眩しい光はまだ続いているようで、目蓋を通して柔らかな赤い光を僕の目に映す。同時に僕の体から感覚が消えた。いや、少し違う。これは自重の感覚が消えたと言うべきだろうか。触覚が完全に消えたわけではなく、重力だけが消えてしまったような感じだ。そのせいで方向の感覚を完全に見失ってしまい、自分が今どんな状況にあるのか分からなかった。体が重くなっていくのを感じる。それにつれて光は段々と弱くなっていく。ドン、という音とともに体の側面に強い衝撃が走る。目を開いて、視力を失っていないことを確認する。

「ここは…」

 そこは、異世界だった。僕たちよりも幾らか高い位置にいる王様であろうその人が、僕たちがなぜここにいるのか、ここがどこなのかなどを説明していたのだ。その後、僕たちの潜在能力を確かめるとかで水晶に触れた。何のことはないただの作業だったのだが、そこで問題が起きる。本来30人を集める予定だったこの場に1人だけ余分に連れてこられたそうだった。これだけなら使う部屋が一部屋増えるだけなんだがそうもいかず、その1人は極端にステータスが低かったのだ。もう、お分かりだろう。その1人というのは僕の妹である最上西(もがみし)藍だった。

 それを知った国王は一定の生活費を国が保証するという条件で藍が城下町で暮らすようにと決定する。確かに軍の宿舎で寝泊まりをするよりも待遇が良いようだが、見知らぬ土地に訪れて急に町で生活をしろと言われても心細くて仕方がないだろう。僕はその旨を国王に伝えると、僕が妹と住めばいいじゃないかと言われた。ただし、僕の分の生活費は出ないようだった。僕は軍の訓練をしたくなかったので快く受け入れる。僕のステータスはそこまで良いものでもなかったので、勇者になりようのない人物を二人も厄介払い出来て国王も喜んでいることだろう。そうして僕たち兄妹はゆっくりとこの世界の生活に馴染んでゆくはずだった。

 何をしていただろうか。ただ覚えているのは、苦しく叫ぶ妹の声と何もできずに横たわる僕。

「助けて!あうああ!」

 口に指を入れられて上手く発音できないようだ。激しく動くその影を見て身体中が熱くなるのを感じる。速くなった鼓動で脳が揺れるような感覚に陥る。全身の筋肉に過剰なほどの血液が送られているようだった。

「う…あ……」

 体が更に熱くなり、後頭部に激痛が走る。僕はこの状況を、目をそらすことなく見続ける。僕は仮にも勇者として召喚させられた人間なのだからまだ何かできるはずだと強く祈ったとき、その声は聞こえてきた。

「見ろよ!彼女ヤられて悦んでやがる」

 言われてから気づく。視線をソレの方にやると自分がどうにも惨めで涙が出た。頬を流れる温かさを感じて僕は、自分がこれまで泣いていなかったことにも気づく。気づいてすぐに胸の方が熱くなり、それが上へと込み上げてくる。喉の辺りまで来たとき、僕は反射的にそれを止めようとするが全く引く気配がない。それどころか勢いを増していくようでブツブツとした感触を喉元に擦り付けながら、それは口腔にたどり着く。鼻の奥を直接刺すような臭いが僕の胃を潰す。本来、体の外に出てくるはずのないそれをどうにか自分の内で収めようと考える。しかし僕の口は閉じることなくそれを垂れ流す。違和感を覚えた僕が全身の感覚に集中すると、頬、首、内腿の辺りが生温かいことに気づいた。僕は僕の口どころか、僕の身体を操ることができなくなっていた。

「誰か!助けて!お兄ちゃんだ……」

 静かになる。うるさくし過ぎたのだろう。音は小さかったが何が起こったかは十分に理解できた。こちらの方にまで血が飛んでくる。まだ嫌な臭いが鼻を刺激している。口の中は妹と食べた夕食の味がする。終に僕は目を開くことができなかった。

「…さん……にいさん…お兄さん!」

 どれだけ思い出そうとしても思い出すことができなかったその顔が聞き覚えのある声を出して私を呼んでいた。

主人公は311歳の錬金術師です

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