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 そうだ、話といえば僕も一つあったな。僕はつい最近本屋に寄ったんだけど、そこですごく面白いものを見たんだ。

 確か、その日は朝から雨が降っていたような気がする。雨自体はたいして強くもなかったんだけど、じめじめしていて蒸し暑かったことを覚えているよ。空は暗く分厚い雲に覆われていて、そのせいなのか僕の頭はずっと霞がかかったようにぼんやりとしていた。その日は平日で、特に外出する予定もなかったんだけど、これがよくなかった。

 君は知らないとは思うが、というか知っていたら怖いんだけどね、僕の家では時間が正確に分からないんだ。それが何故かっていうと、僕は時計というのを見るのが苦手なんだよ。なんというか、ありきたりな表現をするなら時計の針に追われているような感覚だね。奴はいくら動いたって決して疲れずに、常に一定の速さで刻々と僕に近づいてくるんだ。全く僕の話を聞かないし、表情だって変えることがない。容赦なんてしてくれるはずもない。あいつには人の心というものがないんだからね。でも、そんな時計の針がある場合のみに限って動かなくなることがあるんだよ。君ももう気づいているとは思うけど、それは電源がなくなってしまう時さ。つまり電池を消耗しきったときから、僕の家にある時計は一度も動いていないってことだよ。

 コホン、まあ、少し話がそれてしまったが、そういうことで僕はその日、普段通りに追われることのない時間を過ごしていたんだけど、適当にあれこれ考えているうちに変なことを思いついてしまったんだ。その考えは非常に馬鹿らしいのだけれど、それを否定することはできなくて、そうするためには一度でいいから時計を見るしかなかったんだよ。普段なら、もしそうだとしても全く気にすることはないばかりか、むしろ喜びさえするんだろうけどその日は訳が違った。その三日後にアレがあったんだよ。つまり今話しているのはアレの三日前の話さ。君はどうして来なかったのかを問いただしたいところだが、これ以上話がそれるわけにもいかないだろう。

 で、急に気になり始めた。そうなってしまったら、もう駄目だった。雨粒が窓にぶつかる音や、風が隙間を通る音が全部、規則的に聞こえているように感じられた。その音達は僕の馬鹿らしい理論を僕自身に信じさせようと、耳から脳へと這ってくるようだった。閉じられたその部屋は霞のかかった脳と同じように見え、さらに繰り返し同じことを考えている脳とその部屋がまた、同じもののように見えた。気づけば僕はその狭い部屋の中を、ぐるぐると歩き回っていた。たまに窓の外を見ても、雲はずっと同じとこにあるようで、今の時間を教えてくれることはなかった。

 そしてとうとう僕は我慢ができなくなってしまった。何度目かわからないが、ふと窓を見てみるとこれまでよりも雨が小さくなっている気がした。今だ、と思ったね。そう思ってからの僕の行動は早くて、すぐに余所行きの服に着替えて、脱いだ服はそのままに傘だけを手に持って玄関を開いた。それと同時に大きく風が吹き、その風に乗った雨粒が僕の服にしみ込んだ。

 直接外を見て、雨が弱まって見えたのは僕の気のせいだと気づいた。でも、このまま外へ出ないとすると、大事な余所行きの服をただ雨水で濡らしてしまっただけになってしまうと思って、結局僕は雨に濡れながら歩くことを選んだ。

 何?僕の考えてた馬鹿らしい理論が何かって?

 口にするのも恥ずかしいんだけどね、ほら、僕の置かれていた状況を想像してみなよ。そう、つまり僕は景色の変わらない閉じられた空間にいたってことだよ。そんな中、時間を確認することができないとなると、まるでこの部屋が全く同じことを繰り返しているように感じないかい。その時の僕は考えていることもぐるぐると巡っていたからね。さらに暑さのせいか頭がぼうっとしていたんだ。変な妄想をしたことくらい許してくれ。

 とまあ、こんな感じだけど、これはこの話の本質とは全く関係ないんだよ。あれ、どこまで話したんだっけ。あ、そうそう、ちょうど家を出たところだね。

 家の外は雨が降っていて、風もたまに吹いてきたりしてたんだけどね、そのおかげで家の中よりも涼しくてだんだんと頭が冴えてくるような気がしたんだ。それでも、あたりを見回しても人の影は一つもなかったせいで、あの馬鹿らしい考えを完全に拭い去ることはできなかった。そしてちょうど、細い通りを挟んで僕の家の向かいにある、個人で経営している本屋へ歩く。その本屋の軒下で傘を閉じ、雨水を振り落としていると、何やら急いでいる様子の男が傘立てにあった黒い傘を手に取って足早に去っていった。

 怪しいなと思いながらも、僕は疑問に思わなかった。なんせこの本屋の看板娘は、近所の間では噂の美人なのだ。僕は家が向かいにあるから、かなりの頻度でこの本屋を利用するのだけど、訪れるたびに記憶の中にある彼女よりも美しいと驚かされるほどに美しく、あれだけ持ち上げられているにもかかわらず、鼻にかける様子のない彼女は噂になるのもうなずけるほどの魅力を持っていると知ってたからだ。まあ、その誰にでも優しい性格のせいでストーカーだとか、隠れファンだとかが寄ってきちゃうんだから考え物だよね。

 僕?ははっ、そうだね、いや確かに、惹かれてた時期がなかったと言えば嘘になるんだけどね。かなりその本屋に通ってたからわかるんだけど、彼女好きな人がいるんだよ。さらにはその人の父親である、その本屋の店主がかなり屈強でね。あれを相手にする器量が僕にはないね。ということで、まあ、ありえないね。今度君も連れて行ってあげようか。君も店主のあの鋭いまなざしを体験するといいよ。

 それで、やっとの思いでたどり着いたその本屋になぜ来たかと言えば、そこには大きな振り子時計があるんだよ。店の雰囲気にかなりあっていて、あのどっしり構えてゆっくりと僕を見守ってくれるような感じが温かくていいんだ。多分だけど、付喪神か何かが憑いてるんだろうね。親の心を持った、とても素晴らしい時計だよ。あの時計だけは僕を急かしてこないからね。

 そうして僕は振り子時計の前まで歩いていった。時刻は十四時十五分。秒針が振り子の動きに合わせて、ゆっくりと動いている。そこでようやく僕は妄想の呪いから解放され、やっと目が覚めたかのように目の中に入る情報を、正確に分析できるようになっていた。頭の中にある、障子とふすまを全て開け放したかのような涼しさが頭を通り抜ける。空は曇っているというのに、僕が持ったその時の大きな印象は青空の下で縁側に座り、風鈴の音を聞いているような感覚だったね。

 心に余裕ができた僕は、そこで本を物色し始めた。雑誌、実用書、漫画、美術書、詩集、随筆と見て行って、とうとう小説の陳列棚まで来た。ここで僕は本当に面白いものを見たんだ。

 なんだと思う?

 そんな目で見るなよ。わかった、言うよ。

 そこには……たくさんの本が積まれた上に、檸檬が置いてあったんだよ。ああ、もちろん檸檬というのは短編小説じゃなくて、果物のほうだよ。確かに青果店はこの書店のすぐ近くにあるんだけど、問題はそこじゃないんだ。君は小説のほうの『檸檬』を読んだことがあるかい。——それはよかった。あの結末にはなかなか驚かされたわけだけど。まさに、それと同じように小説がばらばらに積まれて、その上にぽつりと檸檬が置かれているわけだ。あの小説を読んで真似をしたいと考える人間がどのくらいいるか。僕には分からないが、真似たいという人間も、あの主人公と同じ考えに至る人間もそういないと思うんだ。しかし、この近辺で最近『檸檬』を読んで真似しようと考えた人がいると思うと、やっぱり面白いだろう。だから僕もそう考えるようにしてたんだ。できれば写真を撮ってやりたかったんだけどね、あいにく僕はカメラを持っていなかった。

 しかし、さらに面白いのはここからなんだ。僕はその迷惑行為を店員に伝えようとした。店主は客の多くなる休日ににらみを利かせているから、逆に平日はいるときといない時がある。その日は雨で客も少ないから一人でも大丈夫だと看板娘の彼女のほうが言ったんだろう。店主の姿が見えないことを確認してから、彼女に話しかける。犯人だと疑われたらかなわないからね。すみません。といった感じに伝えると、なぜだか彼女は少しうれしそうな顔をしたのを確かに覚えている。それから、檸檬のある場所に案内して、彼女の作業ぶりを見届けようとする。すると彼女は檸檬を手に取り、それから積み上げられた八冊の小説を左から横に並べていった。彼女の顔はなんだか難しそうな顔をしている。彼女の視線は檸檬と八冊の小説を行ったり来たりしていた。僕はなんだか意味があるような気がして、本のタイトルを見ていく。左から『舞姫』、『吾輩は猫である』、『斜陽』、『細雪』、『羅生門』、『山月記』、『白痴』、『鏡地獄』という順番で並んでいる。すべて文豪と呼ばれる人物の作品であることはわかったのだが、その時の僕はそれ以外、共通点は見出せなかった。

 彼女は少しして、棚に戻されていない小説を残し、またもや難しい顔でレジカウンターへ戻っていった。僕は戻さなくていいのかと聞きたくなったが、それ以上に、この小説の謎に魅入られてしまい、戻されるのが惜しいと思ってしまって、何も言わずに彼女の背を見送った。

 あ、言ってなかったけど、この本屋は買った本を読めるスペースがあったんだった。その中でも端のほうには、振り子時計が目の前に来るような席があって、僕はその席がお気に入りだった。

 小説の順番を覚えて、そのお気に入りの席に座る。そこで僕はまず、檸檬について考え始めた。一つだけ果物であった檸檬。なぜそれだけ果物であるのだろうか。小説の並びの規則性から考えるに、果物の檸檬は小説の『檸檬』を示していると考えてもおかしくはないと思える。しかしそれならばなんで、『檸檬』ではなく檸檬を置いたのか。席についてすぐだが再び立ち上がり、さっきの小説の棚の前まで歩いていく。

 棚の前に到着してすぐに、「か」の列を探す。僕が探していたその小説はすぐに見つかった。なんせ、ちょうど積まれていた小説のすぐ隣の棚にあったのだから。つまり、この本屋に『檸檬』がなく、仕方なく近くの八百屋で買ってきたわけではないということだ。ここで僕は改めて考えて、もしそうだったとしても、結局あの積まれた小説が何なのかは全く分からないことに気づく。僕は檸檬の意味を探るのではなく、小説を積むことの意味について考える方向に舵を切った。

 また、まだ壊れてない、大きなのっぽの古時計とにらめっこをする時間が来た。小説を積む意味。彼女の反応から察するに、何らかのメッセージになっていると予想ができた。さらに、彼女は表紙を見るだけでその暗号が読めるかどうか、判断できるようだった。たいていの場合、小説の表紙に書かれている情報は作品名と作者名、あとは装丁、出版社だろう。もしもあれが暗号になっている場合、この情報のうちのどれか一つまたは二つを掛け合わせた形で作られていると考えるのが妥当だろう。

 何?ああ、そういうこと。そりゃ、三つも四つも掛け合わせてたら、それに当てはまる本なんてなくなっちゃうだろう。それに多分、一つだけだと思うよ。だって、表紙を眺めるだけで解読できるくらいの簡単な暗号だからね。多く見積もって二つかなってくらいだよ。

 まあ、その時の僕はそう考えて、再び小説を見に行く。しかし今度はタイトルだけでなく、作者名、出版社、装丁もじっくりと観察する。まず作者名、「森鴎外」、「夏目漱石」、「太宰治」、「谷崎潤一郎」、「芥川龍之介」、「中島敦」「坂口安吾」、「江戸川乱歩」共通点はあまりないと言えるだろう。あるとするなら、全員日本人であることと、漢字で表記できるということだろうか。『檸檬』の作者「梶井基次郎」を入れるとさらに分からなくなる。今のところでまとめるなら、三字以上五字以下の漢字で表記される名前といったところだろうか。次に出版社だが、すべて同じ出版社の棚から抜かれているので、明白だ。暗号に関係があるとしても、これが暗号であると示すサインのようなもの程度だろう。続いて装丁。何か文字が隠れていないかと、手に取り顔に近づけながら確認したが、やはりそんなことはなく、一応念のために次に、また次にと小説を手に取る。そして、『斜陽』を手に取ろうとしたときに、ブックカバーが隠れていたことに気が付いた。これがどこにあったのか確定はできないが、おそらく、『斜陽』と『細雪』の間に挟まれていたと予想した。そう考えると、ブックカバーも暗号の一部となる。つまり、ブックカバーにも、小説にもある要素である、装丁が暗号の鍵となっていると思えるだろう。しかしそれ以上の情報は得られなかった。ここで僕は推理に詰まってしまったので、再び席に着き一度すべてを省みようとした。

 まず、暗号について。暗号を作るうえで重要な要素は、まずそれが暗号であるとわかるかだろう。例えば、意味不明な図形の羅列なら一目瞭然なんだけど、既に存在する物事で暗号を作るとなれば、存在する物事と存在する物事を用いて作られた暗号の両方が存在することになるから、何を解読すればいいのかが分からない。さらに、解読された暗号の意味が通っていても、それが偶然なのか必然なのかが分からないだろう。なのでやはり、暗号は見ただけで暗号だとわかる隠された印がないといけないと考えられる。

 積まれた小説をそういった見方でとらえると、確かに暗号であると考えられるだろう。まず一つに、出版社が全て同じになっている点について。嫌がらせだった場合は、もっといろいろなところから持ってきて店員の労力を最大限に引き出そうと考えるはずだ。つまり、小説が積まれていたのは、店員に嫌がらせをするためではなかったと考えられる。

 次に『檸檬』の真似をしただけという可能性。君は檸檬を読んでいるのだからわかると思うのだが、主人公は小説を積んだりはしていないんだよ。美術書、正確には画集なんだ。そしてこの本屋にはそれがある。つまり単に『檸檬』の真似をしたかっただけというのは、小説を積んだという行動に対する根拠にはなりえない。

 さらに決定的なのはやはり、店員が片付けなかったことだろう。客に呼ばれて連れられて、そこに整頓されていない本があったのにもかかわらず片付けることをしなかったということは、それ以上に大事な何かがあったからであると考えられる。そう、つまり、暗号だよ。

 以上のことから、積まれた小説は暗号であると考えられる。次に暗号の種類について。人間は秘密が好きだからね。人類が誕生してからこれまでに作り出された暗号の種類は星の数よりも存在すると言ってもいいだろう。そして、それほどまでにたくさんの暗号の中から解読方法を一つだけ見つけ出すのはほぼ不可能だと思えるだろう。しかし、受け手である彼女が重大なヒントを残していた。それは、紙や鉛筆、電卓や対応表などを用いることなく解読を試みていたことだ。

 対応表を暗記していた可能性?それはないね。もしも対応表があるなら、檸檬について悩んだ時点でそれを確認すればいいだけだからね。でも、あの小説は片付けられていなかった。つまり、対応表がいらないほどに簡単な暗号ってことだよ。

 そうなると、やっと見えてくる。君は簡単な暗号と言われて何を思い浮かべるだろうか。

 たぬき暗号?もう少しまじめに考えてもらいたいね。まあいい。どうせこの答えは出ない。そう、つまり別の言語だよ。アメリカに行って日本語を話せば、周囲の英語話者はなんて言ってるか分からないだろう。でも、僕たち日本人からすれば、元から頭に入っている当たり前の言語なんだよ。

 だったら何だって顔をしてるね。ふふっ。これらのことから、暗号は日本語ではない、別の言語であると考えられる。としておこう。

 はい、じゃあ想像してみて。私は古時計を眺めながら暗号が何かを考えています。別の言語。得られる情報は文字列、色、漢字。使うのはそのうちの、どれか一つだと考える。秒針は十二時を出発して、十三、十四、十五……と増えていく数字をゆっくりと追い抜かしていく。数字。数字でできた言語と言えば……

 あるじゃないか。いや、正確にはあったじゃないか。一時期、脳にこびりつくほど利用されていた、数字を日本語に変換する言語。わかってしまえば簡単な話。これなら数えるだけで終わる。すでに知っている日本語ではない言語。

 その方法で解読すると、すべての謎が解ける。どうだい、わかったかい。そうだなあ、ヒントを言うとするなら、そうだね、昔々日本では十進法の数字を使ってメッセージのやり取りをしてました。さらに昔々、インドの偉い数学者が存在しないことを表す数を考え付いたそうで。——そう、正解。

 そのあと僕がどうしたかは分かるかい。『檸檬』を棚から引き抜いて、『舞姫』の左隣に置いたんだよ。どうだい、面白いだろう。

 あ、そうそう、君はなんで僕の妹の結婚式に出席しなかったんだい。僕はあれだけ行けるかどうか苦しんでたのに。

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