おおきなおおきな、忘れもの
エルンストは、気づかれないようそっとリディアを見つめる。
彼女は間違いなく、何らかの思惑を抱えて勇者に近づいてきた。
けれど――正直に言えば、そんなことはもう大した問題ではなかった。
「わかった。しばらくの間、よろしく頼むよ」
「えっ!? い、良いんですか?」
リディアは目を丸くし、驚いた。
話の流れから断られると想像していたのだろう。
「ああ。むしろ、こっちが頼みたいくらいだ」
「あ、ありがとうございます! よろしくお願いします!」
彼女は安堵の息を吐き、それから深く頭を下げた。
十中八九……いや、十中十。
彼女はどこかの諜報員である。
それがこの国の人間か、他国の人間かまではわからない。
だが、リディアがどの誰であり、そしてどんな目的があったとしても、エルンストにとっては大した問題にはならなかった。
情報を盗む?
好きなだけ流してくれ。
それで勇者反対論が広まるなら、むしろ万々歳だ。
聖剣を盗む?
むしろ期待している。
この『持ち主の元へ戻って来る聖剣』を本当に盗み出せるなら、自分たちは勇者という重責から解放され自由になれる。
自分たちを物理的に排除する?
たぬきと、そのお供が一人いるだけの二人旅に、そこまでする必要がどこにある。
放っておいても、そのうち勝手に破滅する。
結論――失うものがない。
だからこそ、たとえ相手が敵であろうと、一緒にいてくれた方が得られるものの方が大きかった。
仮に敵だったとしても、それでもなお本心から歓迎できてしまう。
それほどまでに、エルンストを取り巻く状況は詰んでいた。
「ま、なにはともあれ、これであと二人……いや、俺を入れてあと一人か」
エルンストがそう呟くと、リディアは小さく首を傾げた。
「何が、あと一人なんですか?」
「いけに――旅の同行者だよ」
エルンストは誤魔化すように微笑んだ。
少し考えた後、リディアは微笑んだ。
「ああ……。勇者の旅の最低人数ですね」
「そうそう」
「でもそれ、四人じゃなかったですか?」
「だから、たぬ勇者、俺、君であと一人」
リディアの笑みが、ぴたりと止まる。
少し考え込むような仕草をした後、言いづらそうに、口を開いた。
「……あの……凄く失礼なことを言っても良いですか?」
「どうぞどうぞ」
「その……果たして勇者様は、人としてカウントしてもよろしいのでしょうか……」
「…………あっ」
はっとした後、エルンストは細かな制約を思い出そうとする。
けれど、思い出せなかった。
「勇者と三人だったか、勇者を含めて四人だったか……。まあ良い。とりあえず、あと一人見つけた後で考えよう」
「そ、そうですね! "予言者"様の元へ向かうまでに、あと一人、仲間探しを頑張りましょう!」
エルンストは感心したような声を漏らした。
「ほー。本当に良く知ってるな」
正しく言えば、『スパイなのに、知ってることを隠さないんだな』だが、さすがにそれは失礼なので口には出さなかった。
「一緒に旅をするために、勉強しましたから」
リディアはぐっと両手を握り、嬉しそうな笑みをエルンストへ向けてくる。
どくりと、心臓が高鳴った。
それを悟られないよう、エルンストはそっと視線を逸らす。
「助かるよ」
曖昧な笑みを浮かべながら、呼吸を落ち着かせていく。
(メンタルが弱ってるのか……それとも、自分はこんなにも女に弱かったのか)
内心で地味にショックを受けつつも、気持ちはすぐに切り替えられた。
「ところで、話は全然変わるのですが、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「ん? なんだ? 夕食の後は寝るだけだし、軽く豆のスープとパンだけど」
「あ、私、干し肉余ってますので、どうぞ使って下さい」
干し肉という単語を聞いた瞬間、たぬきはぴくりと反応し、じわりと涎を垂らした。
「そりゃ助かるよ。ありがとな」
「いえいえ……って、そうではなくてですね」
「ん? なんだい?」
「はい。その、お名前をお聞きしてもよろしいかなと」
エルンストは眉をひそめた。
「エルンストって言わなかったっけ?」
「いえ、エルさんではなくて、勇者様です」
「……へ?」
「さきほどから、“たぬぽん”とか“たぬ勇者”とか、そういう呼び方しかしていらっしゃらないので、お名前は何なのかなと……」
エルンストは静かに空を見上げた。
綺麗な、美しい星空だった。
その後、そっと自分の顔に手を当て、苦悩するような姿勢を取り――。
「名前付けるの……忘れてた……」
絞り出すよう、そう呟いた。
「そ、そんなことあります?」
呆れ顔のリディアに、エルンストは何も言い返せなかった。
たぬきは話が難しくてよくわからないのか、エルンストの腕の中で焚火にあたりながら、うつらうつらと舟を漕いでいた。
ありがとうございました。




