たった一つ
誰かが言っていた。
『あの人は、自分たちとは違うから』
また、誰かが言っていた。
『恵まれていて羨ましいものだ』
サヴァリオン一族の傑作。絶対支配の完成形。
彼こそが未来であり、希望。
『エルンスト・サヴァリオン』
皆が彼を褒めたたえた。
皆が彼を羨んだ。
そして皆が彼を、恵まれた者として羨んだ。
妬み、憎み、陰口を叩かれた。
どうしてあいつばかりと。
けれど、リシャールだけは違った。
知っていたからだ。
彼だって、別に幸せなわけではないと。
同じように周りから評価されてきたリシャールの日々は、大人たちにしごかれ、ボコボコにされるというものだった。
そして当然、エルンストも同じようなもの。
こんなものが、幸せななわけがなかった。
隠れて友人と遊んだこともあった。
だが、その友人とは目の前で絶縁させられた。
訓練をサボったこともあった。
翌日には、サボった分の訓練をすべて追加され、その上で無意味に殴られた。
リシャールの固有は、身体能力向上。
そこには回復力も含まれていたからこそ、余計に酷使された。
そんな日々だったからこそ、リシャールは理解していた。
自分たちは恵まれた人間などではなく、ただ単なる、『祝福の奴隷』に過ぎないということを。
もはや人間にさえ見られていない。
周囲の認識は、完全に狂っている。
エルンストが連続で弓の的を射抜けば、女どもはキャーキャーと歓声を上げる。
『やっぱり天才は凄い!』
エルンストが料理の訓練をすれば、また女どもは騒ぎ立てる。
『素敵! 料理のできる彼氏ほしい!』
エルンストが何を習得しても、皆が褒めそやした。
けれど、根本からもう違う。
『やっぱり、凄い祝福があると違うなぁ』
あいつらは、本気でそんなことを口にしている。
祝福の恩恵だからエルンストは何でも出来るんだと、何故かみんなそう思い込んでいる。
少し考えれば、違うことくらいわかるだろう。
エルンストの祝福は支配系列。
そこに、どう料理が関係してくる?
弓が、剣が、治療が、学問が、何がどう関係する?
むしろ逆だ。
あいつは、祝福とは無関係なことを極め続けることを強制されている。
その苦しみを、誰にも気づかれないままで。
普通に考えればわかることなのに、誰もわからない。
なぜか。
簡単なことだった。
誰も、エルンストを見ていないからだ。
見ているのは、『凄い祝福を持つ天才』という記号だけ。
大人も子供も、エルンストを才能に付随した、おまけ程度にしか扱っていない。
天才だからもっと頑張れ。
天才だから出来て当然。
だから、少し考えればわかることに誰も気づけない。
考えさえしないのだ。同じ人間だと思っていないから。
リシャールも、相当に苦しんだという自負がある。
どれだけの人間を殺したいと憎んだことか。
けれど、その苦しみだってあいつほどではない。
自分は、ただ才能を伸ばすだけでよかった。
教える方も、伸ばす方も、容易い未知だ。
だがエルンストは違う。
才能の有無に関係なく、あらゆるものを伸ばし続けなければならなかった。
嫌なことをし続ける辛さ。
苦手なことを強制される苦しみ。
泣き言を口にさえ出来ない悲しさ。
それがどれほどの苦痛であっただろうか。
祝福に依存していないということは、誰でも同じことができるということだ。
ならば、エルンストと同じことを、誰か一人でもやってきたのか。
強制され、あらゆる分野の達人を目指させられる。
それを、本当に幸せだと思っているのか。
だからこそ、リシャールはエルンストに同情していた。
優れた祝福を授かったせいで、人生を犠牲にさせられた仲間。
勝手に人生設計を決められ、未来を見る自由すら奪われた囚人同士。
この気持ちは、同族意識と言い換えてもいい。
けれど同時に、嫉妬せずにもいられなかった。
祝福が負けているとは思わない。
だが、あいつは『絶対支配』の系列能力。
サヴァリオンの名を継ぐのは、あいつだ。
自分はいずれ、その名を捨てることになる。
だから、悪いと思いながらも、嫉妬を抑えきれなかった。
あいつがどれほど苦しんできたか理解した上で、それでも――。
ある日、リシャールは思い切って声をかけた。
友達として声をかけて、そして手を差し出そうと考えた。
お前と二人で、こんな場所を抜け出そう。
本当にやりたいことをやろう、と――。
本気でそう思った。
二人でなら、何だって出来ると。
けれど……駄目だった。
ボロボロにされ、殴られ、蹴られ。
惨めな姿になっていたのに……それでも、あいつは笑っていた。
エルンストは、自分の人生を犠牲にする生き方に、納得していた。
見知らぬ誰かのために、英雄になる。
それが、あいつの夢だった。
悍ましかった。
恐ろしかった。
不気味だった。
仲間意識は、この瞬間に霧散した。
自分とあいつは違う。
この時、リシャールは理解させられてしまった。
あいつは本物で、そして自分は紛い物に過ぎないと。
英雄になりたかった。
本物の英雄に憧れた。
けれど、英雄の資格がどういうものか、わからせられてしまった。
――誰かのために生きるなんて、自分にはできない。
そう悟ってしまった瞬間、強烈な敗北感を叩き込まれた。
そのせいで、リシャールもまた大切なことを見失った。
エルンストが、どんな生き方を強いられ、どれほど苦しんできたのか。
いや、リシャール以上に多くの人間に見張られ、がんじがらめに規制され、自由を奪われていた、その意味を。
少し考えれば、それが"洗脳"だとわかったはずだった。
けれど、リシャールはそれを"本物"だと思ってしまった。
敗北感と嫉妬が、彼の目を曇らせた。
他の有象無象と同じように。
同じだけの才覚を持ち、同じ環境で育ち、同じ痛みを知っていた。
だから二人は、唯一の理解者になれたはずだった。
もしもその手を止めずに差し出していれば、二人は吟遊詩人に謳われる、伝説へと至っていただろう。
双翼の英雄なんて呼ばれて。
ほんの一歩。
手を差し伸べていれば――。
けれど、そうはならなかった。
リシャールの心に最後まで残った、唯一の善性。
それは、彼への『負けたくない』という想いだった。
だから彼は、差し出そうとした手を引っ込めた。
嫉妬の裏にある善性に従い、努力を重ねた。
例え偽物であっても、このたった一つ、
剣だけは負けたくないと、がむしゃらに振り続けた。
才能で負けた。
能力で負けた。
家柄で負けた。
人格で負けた。
何もかも、負けている。
それでも――剣だけは。
これだけは、負けたくなかった。
あいつが本物の英雄であることは、もうわかっている。
自己犠牲を当然のように受け入れられる人間を見れば、嫌でも自分が凡人だと理解させられる。
それでも。
偽物であっても、譲れないものがあった。
剣だけは。
これだけは、絶対に譲れなかった。
いつか勇者になる。
このミストラウルにある、まがい物の聖剣ではなく、本物の聖剣を手にして。
たとえそれが叶わなくとも、自分の力だけで勇者と呼ばれる存在になる。
あるいは。
勇者の仲間となり、最高の剣士と呼ばれる。
妥協だが、それでもよかった。
あいつに負けたいたった一つがあれば、それだけでよかった。
一番という柱さえあれば、自分は生きてゆける。
――そう、思っていた。
ミストラウルの聖剣が抜けた。
まがい物だと思っていたそれは、本物だった。
剣を失った石の台座を、リシャールは見つめる。
がらんどうになった心のまま。
そして、それを持っていったのは――追放されたはずの、あいつだった。
ようやく消えたと思った、あいつだった。
しかも――。
『誰もアレとは関わるな。これはサヴァリオンの意思である』
そう、命じられた。
仲間となるどころか、恨むことさえ禁止された。
サヴァリオンの一族は、既にエルンストを切り捨てていた。
あれだけ大切に育て、あれだけ虐待して苦しめた、最高傑作を、いとも簡単に、切り捨てやがった。
空っぽの器に、憎しみだけが満たされていく。
ずっと……たった一つだけを望んできた。
劣等感も、敗北感も受け入れた。
それなのに、そのたった一つさえ、目の前で奪われた。
リシャールの心は、その瞬間よりずっとぐちゃぐちゃのままだった。
ありがとうございました。




