ヘンゼ・クリケット①
商会を出た二人は、再び通りを歩いていた。
高く昇った太陽が、石畳を白く照らしている。
行き交う人々の影はくっきりと地面に落ち、昼の熱気が街を包んでいた。
荷馬車の軋む音と、人々のざわめきが通りに広がっている。
隣を歩くマロンが、嬉しそうに口を開いた。
「アッシェお姉さまと買い物できて、とても楽しかったです」
胸の前で、小さな箱を大事そうに抱えている。
先ほど買ってもらったネックレスの箱だ。
「良かったわ」
アッシェも穏やかに答えた。
「このあと、少し街を見て回りましょう」
「はい。ディクト様から任されたお仕事ですし、しっかり調査しないとですね!」
マロンは元気よく頷く。
アッシェは歩きながら、先ほどの商会の様子を思い返していた。
店内に、不自然な点は見当たらなかった。
豊富な品揃え。
整えられた店内。
店員たちの動きも無駄がなく、買い物を楽しんでいる客も多かった。
少なくとも、店としてはよくできている。
だからこそ、引っかかった。
街の露店は明らかに減っていた。
借金取りに脅されていた店主の姿も、まだ記憶に残っている。
活気を失いつつある街。
その中で、ひとり勝ちするように栄えるバルド商会。
その二つが、偶然とは思えなかった。
(裏で帝国が関わっている……? それとも、もっと別の何かが――)
思考を巡らせていた、その時だった。
「わっ……!」
向こうから走ってきた小さな少年が、マロンにぶつかった。
肩と肩が強く当たり、マロンの体がよろける。
「ご、ごめんなさい!」
マロンは咄嗟に謝った。
だが少年は振り返らない。
小さな体を丸めるようにして、人混みの奥へ駆けていく。
「……?」
マロンが不思議そうに首を傾げた。
その横で、アッシェはわずかに目を細める。
ただぶつかったにしては、少年の動きは不自然だった。
まるで最初からマロンを狙っていたかのように、真っ直ぐ向かってきていた。
衝突したあとも足を止めず、消えるように人の流れへ紛れていった。
偶然ではない。
明らかに、計画的な行動だった。
「マロン。腰元を確認して」
「え?」
マロンは慌てて自分の腰に手をやった。
「あっ……ポーチが……!」
そこにあったはずの小さな革のポーチが、消えていた。
アッシェは少年が消えた人混みの方へ視線を向ける。
「スリね」
「ええっ!?」
「ここで待っていて。すぐ戻るわ」
「お、お姉さま――」
マロンが言い終える前に、アッシェはすでに駆け出していた。
人波を縫うように進み、人々の肩の隙間をすり抜ける。
行き交う荷車を軽やかに避け、石畳を蹴るたびに銀髪が陽光を弾いた。
走っているというのに、その足運びに乱れはない。
スカートの裾を翻しながら進む姿は、どこか舞うように滑らかだった。
だが、少年も慣れている。
人の流れを読み、追跡者の進路を塞ぐように走っていた。
ただ逃げているのではない。
人混みを盾にする、手慣れた逃げ方だった。
距離は、なかなか縮まらない。
やがて少年は通りの脇へと飛び込み、狭い路地へ滑り込んだ。
(路地裏に逃げ込むつもりね)
石壁に挟まれた細い通路。
曲がり角が多く、迷路のように入り組んでいる。
土地勘のない者を振り切るには、十分な場所だった。
(そうはさせない)
アッシェは走りながら、そっと指先を持ち上げた。
空中に細い魔力の線を走らせる。
淡い白銀の光が一瞬だけ揺れ、術式が完成した。
「――『追跡の刻印』」
細い光が、少年の右腕へ吸い込まれるように消えた。
相手の身体に魔力の紋章を刻み、位置を辿る魔法。
一度刻めば、どれだけ距離が離れようとも、その存在を追うことができる。
これで、見失うことはない。
少年の背は、さらに路地の奥へと消えていく。
アッシェは速度を落とさず、その後を追った。
追いかけるうちに、周囲の景色が少しずつ変わり始める。
整っていた石畳にはひびが入り、道端には壊れた荷車の車輪や古びた布が転がっていた。
建物はどれも古く、傾いた壁の隙間からは、湿った空気と淀んだ臭いが流れ出している。
通りに人影はほとんどない。
それでも、閉じかけた扉の奥や細い路地の暗がりから、こちらを窺う視線だけが静かに向けられていた。
――スラム街だった。
先ほどまでの明るい表通りとは、まるで別世界だ。
少年は迷うことなく路地を駆け抜け、次の曲がり角へ飛び込む。
アッシェもすぐ後を追った。
だが、曲がった先に少年の姿はなかった。
細い路地には、風に揺れる洗濯物だけが残されていた。




