8話 バルド商会
それからしばらく歩くと、通りの先にひときわ目を引く建物が現れた。
石造りの二階建て。
通りに面した広い間口の上には、金箔で縁取られた大きな看板が掲げられている。
――バルド商会。
周囲の店よりひと回り大きく、街の中心にどっしりと根を張るような存在感を放っていた。
店の前には何台もの荷馬車が並んでいる。
街へ入った時から何度も見かけたものと同じ荷馬車だ。
積み上げられた木箱が、従業員たちの手によって次々と店の奥へ運び込まれていく。
客の出入りも絶えない。
「……すごいですね」
マロンが建物を見上げた。
「ここだけ、別の街みたいです」
「ええ」
アッシェも、静かに商会を見上げる。
ここまで歩いてきた通りとは、あまりにも様子が違っていた。
空きの目立つ店先。
品物もろくに並んでいない露店。
借金取りに殴られていた店主。
街には人も荷もあるというのに、どこか沈んだ空気が漂っている。
それなのに、目の前のバルド商会だけは、そんな街の様子が嘘であるかのように賑わっていた。
客が絶えず行き交い。荷物が次々と運び込まれ。従業員たちも忙しなく働いている。
まるで、この街から失われた商いの活気が、すべてここへ集められているかのようだった。
(……偶然で片づけるには、少し出来すぎているわね)
アッシェは、わずかに目を細める。
何かある。
そう感じはしたものの、外から眺めているだけでは確かめようがない。
「入ってみましょう」
「はい、お姉さま」
二人は連れ立って、商会の入口へ向かった。
◇◇◇
重厚な木扉を開く。
その瞬間、甘く上品な香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。
熟した果実に香木を混ぜたような、どこか贅沢な香り。
「いい匂い……」
マロンが思わず小さく呟く。
店内は、外から見た以上に広い。
高い天井の下に商品棚が整然と並び、磨き上げられた床が灯りを柔らかく反射していた。
並んでいる商品も実に多彩だった。
洋服、香料、宝飾品。
さらには、東の帝国から運ばれてきたと思われる魔道具まで揃っている。
一つの店というより、小さな市場を、そのまま建物の中へ押し込んだようだった。
「見たこともないものが、たくさんありますね!」
マロンが弾んだ声を上げる。
瞳をきらきらと輝かせ、店内を見回している。
アッシェは、そんなマロンに微笑みながら、同時に店内を観察していた。
客の数、従業員の配置、商品の並び、出入口、奥へ続く通路。
表向きは、何の変哲もない商会だ。
客が商品棚の前で足を止めれば、すぐに従業員が寄ってくる。
けれど、必要以上に話しかけることはない。
商品の補充も早い。
従業員同士が大声で指示を出し合うこともなく、それぞれが自分の役割を理解して動いている。
よく統率されている。
そんな印象を受けた。
「お姉さま?」
「何でもないわ」
アッシェは微笑む。
「せっかくだもの。少し見て回りましょう」
「はいっ!」
マロンの顔がぱっと明るくなった。
表向きは、ただ買い物を楽しむ姉妹のように。
二人は店内を歩き始めた。
◇◇◇
しばらく店内を見て回っていると、色とりどりの衣装が並ぶ一角へと差しかかった。
「わあ……!」
マロンが、不意に足を止める。
その視線の先には、一着のドレスが飾られていた。
淡い色の布地に、鮮やかな刺繍。
胸元から裾へ流れるように施された模様は繊細で、この国ではあまり見かけない意匠だった。
「これ、とっても可愛いです!」
目を輝かせるマロンの隣で、アッシェは傍らに添えられた札へ視線を落とす。
「帝国製のようね」
マロンはしばらく、夢中になってドレスを眺めていた。
そして、少しだけ遠慮がちにアッシェを見上げる。
「お姉さま……これ、着てみてもいいですか?」
その表情に、アッシェはふっと目元を和らげた。
「もちろんよ」
「ありがとうございます!」
ぱっと顔を明るくすると、マロンは近くの従業員へ声をかけ、そのまま嬉しそうに試着室へ向かっていった。
布の擦れる音とともに、カーテンが閉じる。
一人になったアッシェは、衣装を眺めるふりをしながら、改めて店内へ視線を巡らせた。
軽やかな布地のドレスから、落ち着いた色合いの外套まで、扱っている品の種類は幅広い。
高価な仕立てのものがある一方で、比較的手に取りやすい値段の商品まで揃っていた。
どうやら、裕福な客だけを相手にしているわけではないらしい。
その時だった。
ふと、アッシェの視線が店の奥で止まる。
従業員しか立ち入らないであろう通路の脇に、いくつもの木箱が積み上げられていた。
おそらく、まだ店頭に並べられていない商品の在庫だろう。
大きさも形も異なる木箱が、壁際に整然と並べられている。
アッシェは衣装を手に取りながら、さけげなくそちらへ視線を向けた。
「…………」
その中の一つ。
木箱の側面に、小さな焼き印が押されている。
細長く、くねるような意匠。
よく見れば、一匹の蛇を象ったような印だった。
(……ここにも蛇?)
先ほど、マロンから聞いた話が脳裏をよぎる。
借金取りの肩にあったという、蛇の刺青。
「…………」
少なくとも、表に掲げられているバルド商会の看板の紋章とは違う。
借金取りの男が入れていた刺青と、木箱に押された焼き印。
今の段階では、二つを結びつける証拠など何もない。
ただの偶然という可能性もある。
それでも、胸の奥に引っかかっていた違和感がほんの少しだけ形を持ち始めていた。
その時。
「お姉さま!」
明るい声が響いた。
アッシェはすぐに思考を切り上げ、試着室へ視線を戻す。
カーテンが開いていた。
「どうでしょうか?」
そこには、先ほどのドレスに身を包んだマロンが立っていた。
柔らかな布地が華奢な身体に自然と馴染み、淡い色合いが金色の髪によく映えている。
まだ幼さの残る顔立ちも相まって、春の花を思わせるような柔らかな印象だった。
「その……似合っていますか?」
マロンが少し不安そうに尋ねる。
アッシェはしばらくその姿を眺めてから、柔らかく微笑んだ。
「ええ。とてもよく似合っているわ」
「本当ですか!?」
その瞬間、マロンの表情が、花が咲いたように明るくなる。
鏡の前でくるりと一回転すると、ドレスの裾がふわりと広がった。
「えへへ……」
照れくさそうに笑いながら、鏡に映る自分の姿を眺める。
少し角度を変えてみたり、裾をつまんでみたり、その姿はどこにでもいる年相応の少女そのものだった。
アッシェは、そんなマロンを静かに見つめる。
以前の彼女なら、自分が何を好きなのか、何を可愛いと思うのかさえ、うまく言葉にできなかった。
それが今では、自分の目で気に入ったものを見つけて、自分から「可愛い」と口にして、「着てみたい」と素直に言えるようになった。
そんな小さな変化が、アッシェには微笑ましかった。
しばらく、鏡の前で自分の姿を眺めたあと、マロンは名残惜しそうにドレスの裾を整えた。
「もういいの?」
「はい!」
満足そうに頷く。
「こういうドレス、一度着てみたかったんです」
それから、もう一度だけ鏡の中の自分を見つめた。
「着られただけで、満足です!」
「そう」
アッシェも小さく微笑む。
「まだまだ色々あるわ。他にも見て回りましょう」
「はいっ!」
マロンは嬉しそうに頷いた。
元の服へ着替えたあと、二人は再び店内を歩き始めた。
衣装の並ぶ一角を抜けると、今度は宝飾品が並ぶ場所へ差しかかる。
ガラスケースの中には、様々なアクセサリーが整然と並べられていた。
金細工の指輪。
宝石を散りばめた耳飾り。
細やかな彫刻の施されたブレスレット。
どれも丁寧に磨き上げられ、店内の灯りを受けて静かに輝いている。
その中で、ふと、アッシェの視線が一つの品に留まった。
繊細な銀細工のネックレス。
蔓を思わせる細い装飾が絡み合い、その中央には小さなルビーが嵌め込まれている。
深く澄んだ赤い光。
その輝きを目にした瞬間――。
――どくん。
心臓が、嫌な音を立てた。
「…………」
無意識に、足が止まる。
呼吸が浅くなった。
先ほどまで聞こえていた店内のざわめきが、少しずつ遠ざかっていく。
行き交う客の声も、従業員の足音も、すぐ隣にいるはずのマロンの気配さえも。
すべてが、薄れていく。
アッシェの瞳には、ただ一つ。
赤い宝石だけが映っていた。
その真紅の輝きが、記憶の奥底に沈めていた、遠い日の光景を呼び起こす。
◇◇◇
陽の光が差し込む部屋。
純白のドレスに身を包んだ、小さな少女が楽しそうに笑っていた。
『見てください、お姉さま!』
少女は嬉しそうに、首元のネックレスをつまんでいる。
その中央で、深紅のルビーが揺れていた。
『似合っていますか?』
誇らしげに笑う顔。
無邪気な声。
赤い髪。
陽光にきらめく、赤い宝石。
――ノエル。
それは、もう二度と戻らない日の記憶だった。
◇◇◇
「……お姉さま?」
呼びかけられ、アッシェははっと我に返った。
顔を上げると、マロンが心配そうにこちらを見ている。
「どうかしましたか?」
「……いいえ」
アッシェは小さく首を振った。
「ちょっと、見入っていただけよ」
そう答えて、ガラスケースから目を逸らす。
ゆっくりと息を整えても、胸の奥にはまだ、懐かしい記憶の余韻が残っていた。
道中で、昔の夢を見てしまったせいだろうか。
普段なら心の奥深くに沈めているはずの思い出が、今日はやけに鮮明に蘇ってくる。
ふと隣を見ると、マロンが何か言いたげにこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
「その……」
マロンはためらうように俯き、指先で自分の袖をつまむ。
「さっき、とても……懐かしそうなお顔をされていたので」
アッシェは、わずかに目を瞬かせた。
「そんな顔してた?」
「……はい」
マロンは小さく頷く。
少し間を置いてから、ぽつりと続けた。
「でも……どこか、寂しそうにも見えました」
「…………」
アッシェは一瞬だけ黙り込む。
それから、困ったように微笑んだ。
「昔のことを思い出していただけよ」
なるべく何でもないことのように答える。
けれど、マロンはまだ、何かを気にしているようだった。
何度か口を開きかけては、言葉を飲み込んでいる。
やがて、意を決したようにそっと尋ねた。
「それって……お姉さまにとって、大切な方のことですか?」
アッシェは目を伏せた。
炎の中へ消えていった、小さな少女の姿が脳裏をよぎる。
胸の奥が、わずかに締めつけられた。
「ええ」
静かに頷いた。
「とても大切な人よ」
「…………」
マロンの表情が、ほんの少しだけ曇った。
そのまま何かを考えるように黙り込む。
そして、躊躇いがちに、もう一度口を開いた。
「今でも……ですか?」
「え?」
「今でも、その方は……お姉さまにとって大切な人なんですか?」
アッシェは、その問いに迷うことなく頷いた。
「ええ。今でも、とても大切よ」
「……そう、なんですね」
マロンは小さく答えた。
袖をつまんでいた指先に、わずかに力がこもる。
アッシェは、その変化を見逃さなかった。
「どうしたの?」
「い、いえ。何でもありません」
慌てて首を振る。
けれど、いつもの明るさは戻らなかった。
「マロン?」
呼びかけると、マロンは少し迷ってから、ゆっくりと顔を上げた。
「……なんだか」
「?」
「さっきのお姉さまを見ていたら……」
そこで一度、言葉を止める。
自分でも、うまく説明できないのだろう。
しばらく迷った末に、ぽつりと呟いた。
「私の知らない場所にいるみたいに見えて……それで、怖くなったんです」
「…………」
マロンは、アッシェを真っ直ぐに見上げる。
その瞳には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「お姉さまが……どこか遠くへ行ってしまいそうな気がして」
思いもよらない言葉に、アッシェはしばし目を瞬かせた。
けれど、すぐにその表情を和らげる。
「マロン」
そっと、少女の頭へ手を置く。
柔らかな金髪が、指の間をさらりと滑った。
「大丈夫よ」
安心させるように、優しく微笑む。
「私は、どこにも行かないわ」
「…………」
マロンの瞳が、大きく見開かれた。
まるで、その言葉を確かめるように。
しばらく、アッシェの顔をじっと見つめる。
やがて、張りつめていたものがほどけるように、表情がわずかに緩んだ。
「……ずるいです」
「え?」
「な、何でもありません」
慌てるように俯く。
けれど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
そんなふうに優しくされたら。
もっと、離れられなくなる。
それでも今は、その言葉が何よりも嬉しかった。
しばらく、二人の間に穏やかな沈黙が流れた。
やがて、アッシェがふと、ガラスケースの中へ目を向ける。
「ねえ、マロン」
「はい?」
アッシェが指し示した先には、一つのネックレスが置かれていた。
繊細な銀の鎖。
その中央には、小さなサファイアが嵌め込まれている。
派手な装飾はない。
けれど、澄んだ青の宝石は、灯りを受けて静かに輝いている。
深い青の宝石は、まるで澄んだ空を閉じ込めたようだった。
「これ、マロンに似合いそうね」
「私に、ですか?」
驚いたように聞き返すマロンに、アッシェは軽く頷いた。
近くにいた店員を呼び、ケースからネックレスを取り出してもらう。
「少し、じっとしていて」
そう言って、アッシェはマロンの後ろへ回った。
金色の髪を指先ですくい上げ、細い首元にネックレスを回す。
かちり、小さな留め具が閉じた。
「ほら」
促されて、マロンは近くの鏡へ目を向ける。
金色の髪の下、胸元で、淡い青の宝石が静かに揺れていた。
「わあ……!」
思わず声が漏れる。
マロンは鏡へ近づき、自分の姿と首元のサファイアを何度も見比べた。
そっと指先で宝石に触れる。
「これ……すごく可愛いです」
その横顔は、宝物を見つけた子どものように輝いていた。
アッシェも鏡越しにマロンを見つめる。
金色の髪に、澄んだ青。
思った通り、よく似合っている。
「ええ。とても似合っているわ」
そう言って微笑んだあと。
「それ、私から贈らせて」
「えっ……?」
マロンが勢いよく振り返った。
「いいんですか?」
「もちろんよ」
「でも……」
嬉しい。
けれど、遠慮もあるのだろう。
マロンは困ったようにサファイアへ触れている。
アッシェは、そんな彼女へ穏やかに笑いかけた。
「私に遠慮しなくていいのよ」
「…………」
「マロンに似合うと思ったから、贈りたいの」
その言葉に、マロンの瞳が大きく揺れた。
しばらく何も言えずにいたが、やがて、胸元の青い宝石を大切そうに両手で包み込む。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
けれど、胸の奥からそのままこぼれ落ちたような響きだった。
「大切にします」
一度、言葉を切る。
そして、アッシェを真っ直ぐ見上げた。
「一生、大切にします」
「大袈裟ね」
アッシェは思わず笑みをこぼした。
けれど、マロンの表情はどこまでも真剣だった。
会計を済ませると、ネックレスは丁寧に箱へ収められた。
店員から受け取った箱を、マロンは宝物でも扱うように両手で抱えている。
「そんなに気に入った?」
「はい!」
勢いよく頷いた。
「すっごく気に入りました!」
そう言って、箱をぎゅっと胸元へ抱き寄せた。
時折、確かめるように箱の表面を指先で撫でては、くすぐったそうに頬を緩めている。
その様子を眺めながら、アッシェも静かに目を細める。
嬉しそうなマロンを見ていると、それだけで、胸の奥に残っていた苦い痛みも、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
やがて、二人はバルド商会を後にした。
扉を抜けると、店内に満ちていた甘い香りが遠ざかり、代わりに少し冷たい街の空気が頬を撫でる。
それでも、マロンの足取りは、商会へ入る前よりもずっと軽かった。
大切そうに箱を抱えるその横顔には、隠しきれないほどの幸福が滲んでいた。




