7話 交易都市リオネル
北東の交易都市――リオネル。
東の帝国とも交易を行う、王国第三の都市だ。
街門へ続く街道には、すでに長い列ができていた。
荷を満載した商人の馬車。
巡礼者らしき旅人。
農産物を積んだ荷車。
その列に紛れるように、一台の馬車がゆっくりと進んでいく。
やがて――。
馬車は街門をくぐった。
車輪が石畳を叩く音が、土の街道とは違う硬質な音を響かせる。
その瞬間、アッシェの脳裏に朧げな記憶が蘇った。
この街には、幼い頃に訪れたことがある。
だが、目の前に広がる光景は、記憶の中のリオネルとはどこか違っていた。
通りには、多くの商人が行き交っている。
荷馬車は絶えず石畳を進み、旅装の行商人たちも忙しなく歩いている。
人の流れは、確かにある。
それなのに――。
街には、どこか活気がなかった。
広く舗装された通りの両側には、本来なら露店や商店が所狭しと並んでいたはずだった。
だが今は、店と店の間にぽっかりと空いた場所が目立つ。
かつて露店がひしめいていたであろう場所も、がらんとしていた。
客の姿はまばら。
棚に並ぶ商品も少なく、空になった木箱ばかりが目につく。
呼び込みの声にも、かつての勢いはなかった。
(……おかしいわね)
アッシェの知るリオネルは、こんな街ではなかった。
通りの両側には露店がずらりと並び、客同士が肩をぶつけるほどの人で溢れていた。
香辛料の刺激的な匂いと、焼き菓子の甘い香り。
威勢のいい商人たちの声が、あちらこちらから飛び交っていた。
――市場の街。
それが、アッシェの記憶にあるリオネルだった。
だが今、街を行き交う商人たちは、通りの店にはほとんど目を向けない。
荷馬車も、行商人も、まるで決められた道でもあるかのように、街の中心へと吸い込まれていく。
人はいる。
荷も動いている。
それなのに、通りからは商いの熱だけが抜け落ちていた。
やがて馬車が止まり、二人は通りへと降り立った。
「まずは、商会へ向かいましょう」
胸の奥に残る違和感を抱えたまま、アッシェは人の流れに紛れるように歩き出した。
だが、いくらも進まないうちに――。
「もう期限は過ぎてるだろうが!」
通りに響いた怒号が、アッシェの足を止めた。
声の主は、がっしりとした体格の大男だった。
日に焼けた肌に、伸びた無精髭。
片目の上には、古い傷跡が走っている。
汚れた革の上着を羽織り、腰には使い込まれた短剣。
その男が、痩せ細った中年の店主を壁際へ追い詰めていた。
「今月の分、まだ払ってねえよな?」
低い声で問い詰める。
「ま、待ってください!」
店主は震える声で訴えた。
服はところどころ擦り切れ、頬もひどく痩せこけている。
「近頃は野盗が多くて……商品の仕入れも、まともにできないんです。どうか、もう少しだけ待っていただけませんか……」
「知らねえよ」
男は鼻で笑った。
「借りた金は返す。当たり前のことだろうが」
「お願いします! もう少しだけ……!」
店主は石畳に膝をつき、必死に頭を下げた。
だが、男は聞く耳を持たない。
「約束も守れねえなら、店ごと売り払うしかねえな」
「そ、それだけは……!」
店主の顔から血の気が引く。
男はその懇願を無視し、店先の商品へ乱暴に手を伸ばした。
「や、やめてください!」
店主が慌てて腕を掴もうとする。
「邪魔だ」
男は、羽虫でも払うように店主を突き飛ばした。
「うっ……!」
店主の身体が石畳へ転がる。
それでも、すぐに身体を起こし、よろめきながら男の足へしがみついた。
「それを持っていかれたら……本当に、もう……!」
「鬱陶しい野郎だな」
男の顔が、不快そうに歪む。
ごきり、と指の関節を鳴らした。
「痛い目を見ねえと分からねえか」
ゆっくりと拳を振り上げる。
(……まずいわね)
アッシェは小さく息を吐いた。
周囲には大勢の人がいる。
けれど、誰一人として助けようとはしない。
惨状を横目で見ながらも、関わり合いなることを恐れるように視線を逸らし、足早に通り過ぎていく。
このまま放っておけば、店主はただでは済まない。
とはいえ、ここでアッシェ自身が割って入れば、必要以上に目立つ。
調査に来た身として、騒ぎを大きくするのは避けたかった。
「マロン」
隣に立つ少女へ、小さく囁く。
「大事になる前に止めたいわ。できる?」
「もちろんです、アッシェお姉さま」
返事は早かった。
頼られたことが嬉しかったのか、マロンの瞳がぱっと明るくなる。
けれど、その表情はすぐに仕事のものへ切り替わった。
「任せてください」
小さく頷く。
そして、周囲の視線が騒ぎへ集中していることを確かめると、静かに魔力を巡らせた。
マロンの姿が、陽炎のように揺らぐ。
小柄な少女の輪郭がぼやけ――。
次の瞬間。
そこには、鎧を纏った大柄な衛兵が立っていた。
その僅かな間にも、男の拳は店主へ振り下ろされていた。
鈍い音。
「ぐっ……!」
店主の身体が、再び石畳へ叩きつきられる。
唇が切れ、頬には赤黒い痣が浮かんでいた。
「ゆ、許してくれ……」
掠れた声を漏らす。
だが、男は気にも留めない。
「しぶとい野郎だ」
再び拳を振り上げる。
その腕が振り下ろされる――寸前。
背後から伸びた大きな手が、男の肩を掴んだ。
「そこまでにしておけ」
重く、低い声だった。
男が振り返る。
「……ちっ。衛兵か」
「街中で騒ぎを起こすな」
衛兵に扮したマロンが、冷徹な双眸で男を見据える。
「これ以上暴れるなら、詰所でじっくり話を聞くことになる」
淡々とした口調。
だが、そこには有無を言わせぬ威圧感があった。
「…………」
男は一瞬だけ、忌々しそうに顔を歪めた。
それから、ぐったりと倒れ込んだ店主を睨みつける。
「……ふん。今日は引いてやるよ」
吐き捨てるように言い残し、男は人混みの向こうへと消えていった。
通りは何事もなかったかのように元の流れを取り戻す。
誰もが一度だけこちらを振り返り、すぐに目を逸らしていった。
マロンは、倒れた店主へ向き直る。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとうございます……」
店主は何とか身体を起こしながら、弱々しく頭を下げた。
けれど、その顔に浮かんでいるのは、安堵ではなかった。
むしろ、未だ消えない怯えの色。
マロンが眉を寄せる。
「何があった?」
「それは……」
店主が何かを言いかけた。
だが、ふと通りの向こうへ視線を走らせた瞬間、びくりと、肩を震わせた。
「……いえ」
顔色を変え、すぐに俯く。
「大したことじゃありません」
「大したことって……アンタ、こんなに怪我してるじゃないか。店だって――」
マロンが食い下がろうとする。
だが、店主は慌てたように首を振った。
「本当に、何でもないんです。もう、大丈夫ですから……」
そう言うと、散らばった商品を、震える手で拾い集め始めた。
それ以上話すつもりはないらしい。
少し離れた場所から様子を窺っていたアッシェは、マロンへ小さく合図を送った。
これ以上聞いても、何も出てこないだろう。
「……そうか。なら私はこれで」
マロンは短く答え、その場を離れた。
通りから一本外れた路地へ入り、アッシェと合流した。
「マロン、ご苦労さま」
「なんだか……妙な街ですね」
マロンが、小さく息を吐き出す。
その瞬間、衛兵の姿が陽炎のように揺らぐ。
鎧も兜も大柄な身体も輪郭を失い、淡い魔力の光となってほどけていく。
やがて、その下から見慣れた少女の姿が現れた。
短く切り揃えられた金髪が、ふわりと揺れる。
「それにしても、案外あっさり引いたわね」
「そうですね」
マロンは頷きながら、男が消えていった通りの方へ、ちらりと視線を向けた。
「ただ……少し気になることがありました」
「何か見つけたの?」
「はい」
マロンの表情が、わずかに引き締まる。
「腕を掴んだ時に、服の隙間から見えたんです。肩に、蛇の刺青のようなものが」
「蛇の刺青……」
アッシェは、わずかに眉を寄せる。
刺青そのものは、さほど珍しくない。
けれど、先ほどの店主の怯え方が、妙に引っかかった。
助けが入ったあとでさえ、安心した様子はなかった。
それどころか、何かを話そうとした途端、まるで誰かの目を恐れるように口を閉ざした。
「気になるわね」
「はい」
「でも、今はまだ何とも言えないわ。覚えておきましょう」
アッシェは、路地の先へ視線を向ける。
大通りには、今も多くの商人が行き交っている。
「……まずは、バルド商会を目指しましょう」
「はい、お姉さま」
二人は再び、大通りの人波へ戻っていった。
その先では、街の中心へ向かう荷馬車の多くが、同じ方向へと進んでいた。




