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リオネルの街へ

世界は、柔らかな光に包まれていた。


白いレースのカーテンが、午後の風にふわりと揺れる。

陽射しはあたたかく、磨き上げられた大理石の床に、金糸の刺繍めいた模様を落としていた。

遠くでは、庭園の噴水が静かに音を立てている。


穏やかで、静かで、何一つ欠けていない時間。


――もう二度と戻らない、奪われたはずの光景。


「アンナお姉さま」


鈴を転がすような、どこか懐かしい声が背後から聞こえた。

吸い寄せられるように振り返る。

そこには、記憶の奥底に仕舞い込んでいた、あの日のままの妹が立っていた。


純白のドレス。

陽光を受けて輝く赤い髪。

花が咲いたような無邪気な笑顔。


「私も、アンナお姉さまみたいになりたいの」


小さな手を胸の前で握り、期待に満ちた目で見上げてくる。

アンナは何か言おうとした。


けれど、声が出ない。


喉が凍りついたように動かない。

どれほど口を開いても、伝えたい想いは音にならず、虚空に消えていく。


ふいに、空気が凍りついた。


頬を撫でていた柔らかな風がぴたりと止み、庭園の色がゆっくりと褪せていく。

白紙に墨を垂らしたように、黒い影が庭園を染めていく。

白百合は黒く焼け焦げ、甘い花の香りは、鼻を刺す生臭い血の匂いへと変わる。


(ノエル、逃げて――)


叫ぼうとするのに、体は動かない。

眼前で、妹の白いドレスに一滴の紅が滲んだ。

ぽたり。

それは意志を持つ生き物のように、みるみるうちに広がり、可憐な少女の胸元を染め上げていく。


「お姉さま……」


声が変わる。

無邪気さは消え、どこか恨むような響きが混ざっていた。


「どうして、助けてくれなかったの?」


その問いは、刃のようにアンナの胸に突き刺さった。


その瞬間だった。


妹の姿が、ふっと揺らぐ。

蜃気楼のように輪郭が歪み、霧のように薄れていく。


アンナは、思わず手を伸ばす。

だが――その手は届かない。

妹の姿は、跡形もなく消え去った。


(待って……!)


世界が崩れた。

黒く侵食されていた景色に、音もなく亀裂が走る。

すべてが硝子細工のように砕け散り、闇の底へと崩れ落ちていった。


視界が激しく揺れる。


次の瞬間――


赤い光が流れ込んできた。

ぱちり、と火が弾ける音。

アンナの目の前には、燃え上がる屋敷が広がっていた。

黒煙が天井を覆い、炎が柱を舐めるように這い上がっている。


「……ノエル!」


さっきまで出なかった声が、枯れた叫びとなって喉から溢れた。

アンナは咄嗟に、燃える屋敷の中に駆け出していた。


自分たちが育った屋敷は、紅蓮の炎に呑み込まれ、地獄の炉の中のように燃え盛っていた。

柱が悲鳴を上げて崩れ落ち、天井からは火の粉が豪雨のように降り注ぐ。

視界は黒煙に遮られ、爆ぜる炎の音が、耳の奥で激しく響く。

アンナは、燃え盛る廊下を狂ったように駆け出した。


「ノエル! どこ!?」


喉が裂けるほど叫ぶ。

だが、返事はない。

かつて愛した調度品が、思い出の品が、目の前で黒い炭へと変わり崩れ落ちていく。


それでもアンナは止まらない。


崩れかけた梁を飛び越え、炎の壁をくぐり抜け、妹の寝室がある二階へと駆け上がる。


「ノエル!! 返事をして!!」


妹の部屋の扉は、すでに焼け落ちていた。


中へ飛び込む。

そこは、火の海だった。


「ノエル!!」


煙の向こうを必死に探す。

だが、どこにも妹の姿はない。

絶望が全身を支配した、そのとき。

床が轟音と共に崩れ落ちた。


屋敷が崩れていく。

それに合わせるように、アンナの視界も赤く歪んでいった。


落下していくアンナの視界に、最後の光景が焼きついた。

燃え上がる炎の向こう。


そこに――


こちらを嘲笑うような、邪悪な笑みがあった。


「……お姉さま? アッシェお姉さま?」


意識の外側から、誰かの声が聞こえた。

その声は、夢の世界に小さな亀裂を入れていく。

ひびはゆっくりと広がり、やがて――世界そのものが、音もなく砕け散った。


「――っ!」


アッシェは弾かれたように目を見開いた。

目に映ったのは、血に濡れた妹でも、燃え盛る屋敷でもない。

規則正しく揺れる、優美な馬車の車内だった。


(……夢?私は今――)


現実がゆっくりと輪郭を取り戻していく。

呼吸が荒い。

胸の鼓動も、まだ早いままだった。

向かいの席から、金髪の少女が心配そうに覗き込んでいる。


「よかった……」


少女はほっとしたように胸を撫で下ろした。


「ひどくうなされていましたよ。何か、怖い夢でも見られたのですか?」


そう問いかけてきたのは、同じメイド服の上から旅用のケープを羽織った少女――マロンだった。

彼女もまた、ディクト王子に直接仕える特別なメイドの一人だった。


アッシェより二つ年下で、まだ幼さの残る顔立ちをしているが、その実力は折り紙付きである。


マロンは、心配そうに眉を寄せ、アッシェの額の冷や汗をハンカチでそっと拭う。

陽光を受けてきらきらと輝く金髪のショートヘアが、馬車の揺れに合わせて軽やかに跳ねた。


「……大丈夫よ、マロン。少し、ぼうっとしていただけ」


アッシェは呼吸を整えながら、手のひらを軽く向けて「心配ない」と合図を送る。


(嫌な夢を見たわ……)


忘れるように窓の外へ視線を逃がす。

身じろぎした拍子に、ふわりと甘い香りが鼻先をかすめる。


揺れる景色の向こうには、どこまでも続く一本の街道。

馬車はすでに、かなり遠くまで進んでいた。


「あと十分ほどで街に着きますよ」


マロンが明るい声で告げる。

どうやら、小一時間ほど眠っていたらしい。


「ごめんなさい。だいぶ寝てしまったみたいね」

「気にしないでください! 昨日あれだけ動かれていたんですから、お疲れだったのだと思います」

「そうね……マロンにも助けられたわ。おかげで、あの悪徳貴族を処理することができたもの」

「い、いえ! そ、そんな……! お姉さまのお役に立てて、私……嬉しいです……」


マロンは慌てたように首を振った。


彼女は『変装』の魔法士。

変装魔法によって、対象の姿形だけでなく、声や仕草、さらには魔力の波長までも模倣できる。


昨日、馬車の護衛を引きつけるために、マロンはコーネル伯爵に変装した。

そのおかげでアッシェは、馬車の車輪に細工を施す時間を稼ぐことができた。


「お姉さまと二人きりで任務に行けるなんて、私、夢みたいです!」

「大げさよ」

「そんなことありません! アッシェお姉さまは全メイドの憧れなんですから!」


勢いよく顔を上げる。


「王立魔法学園を次席で卒業された秀才!戦闘も魔法も完璧で! しかも美しくて!」


拳を握りしめ、マロンが熱弁する。


(たまに熱が入るのよね……)


アッシェは思わず苦笑した。

マロンは、自分のことを実の姉のように慕ってくれている。

こうして彼女の声を聞いていると、胸の奥に残る夢の引っ掛かりも、少しずつ薄れていく気がした。


その穏やかな空気の中で、アッシェはふと今回の任務を思い返した。


――昨夜。


執務室で、ディクトが一枚の書類を机に置いた。


「バルド商会」


その名前を見て、アンナは眉をひそめる。


「聞いたことないわ」

「コーネルが貴族として頭角を現し始めた頃から、急に名前が出てきた」


アンナは目を細めた。


「それに、農民から搾取した作物の大半をここで取引していた」

「なるほど。きな臭いわね」


ディクトはあっさり頷いた。


「でも証拠がない」

「それで?」


アンナが続きを促す。


「商会の闇を暴き出す。それが次の仕事だよ」

「商会はどこにあるの?」

「北東の街――リオネルだ」


ディクトは答えた。


「そこに本拠地がある」


アンナは小さく息をつく。


「……つまり、そこに行け、と?」

「ああ」

「……はあ、分かったわ。調べてくる」


納得したように頷くアンナを見て、ディクトは思い出したように付け加えた。


「そうだ。マロンも連れて行くといいよ」


アンナは、変装魔法が得意な同僚の顔を思い浮かべる。


「潜入捜査でもするの?」


顎に手を当てながら、アンナは尋ねた。

マロンの能力を考えれば、それが一番自然な使い方だった。

だが、ディクトは首を横に振る。


「いいや、二人で買い物でも楽しんできなよ」


一瞬、沈黙が落ちる。


アンナはゆっくりと目を細めた。


「……どういう風の吹き回し?」

「今回は目立たないことが重要だ。コーネルが突然消えたことで、向こうも警戒しているかもしれないだろ」


それに、とディクトは続ける。


「同僚との親睦も大事だろ?」


アンナは呆れたように息を吐いた。


どうにも腑に落ちない。

嫌な予感が胸に残るが、アンナは黙って頷いた。


――そして現在。


「お姉さま? どうかしましたか?」


マロンが首を傾げる。


「何でもないわ。マロンといると、なんだか落ち着くなと思っただけ」

「……! お、お姉さま! 大好きです!」


ぱっと花が咲いたような笑顔。

マロンは嬉しそうに、アッシェの胸に顔を埋めるように抱きついてきた。

短く切り揃えられた金色の毛先が頬に触れ、少しくすぐったい。

アッシェは、マロンの頭を優しく撫でた。


こうしていると、胸の奥に押し込めていた妹のことまで、思い出しそうになる。


ふわりと、甘い香りが漂った。


その香りに、胸の奥がわずかに引っかかった。


だが――


「街に着いたみたいですね!」


ふいにマロンが身を離し、外の景色を指差した。

遠くの地平線に、灰色の城壁がゆっくりと姿を現した。


幾重にも積み上げられた石の外壁が、街全体を囲うように広がっている。

等間隔に並ぶ見張り塔。

その上では旗が風を受け、はためいていた。

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