5話 アンナ・エルドレッド
翌朝。
王城の正門前に、一台の馬車が停まっていた。
「このたびは、大変お世話になりました」
コーネル伯爵は晴れやかな笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「まさか王城へ泊めていただけるとは。ディクト殿下のご厚意には、感謝の言葉もございません」
その正面で、アッシェもまた優雅に一礼する。
「ご満足いただけたのでしたら、何よりでございます」
「ええ。実に有意義な滞在でした」
コーネルは上機嫌だった。
昨日と変わらぬ柔和な笑み。
整えられた髪。
品の良い衣服。
声も、仕草も、立ち居振る舞いも――何ひとつ変わっていない。
護衛の二人も、当然のようにその傍らへ控えていた。
「では、ディクト殿下にもよろしくお伝えください」
「承知いたしました」
「また近いうちに、良いご報告を持って参りましょう」
「お待ちしております」
コーネルは満足そうに頷き、馬車へ乗り込んだ。
護衛たちもそれに続く。
やがて御者が手綱を振るい、車輪がゆっくりと回り始めた。
馬車は城門を抜け、そのまま王都の大通りへ消えていく。
アッシェは、その姿が完全に見えなくなるまで、静かに頭を下げていた。
その顔には最後まで、完璧なメイド長の微笑みが浮かんでいた。
◇◇◇
午前の執務を一通り終えた頃。
アッシェはディクトの私室を訪れた。
「失礼いたします、王子」
丁寧に扉をノックし、主人の部屋へ入る。
窓から差し込む陽光は柔らかく、室内は穏やかな光に包まれていた。
その奥で、ディクトが一人、静かに待っている。
「待っていたよ、アンナ」
その名を呼ばれた瞬間。
アッシェ・レベンケの仮面が、音もなく剥がれ落ちた。
先ほどまでの優雅な足取りが消える。
彼女は無遠慮に室内を進むと、ディクトの正面にある椅子へ乱暴に腰を下ろした。
「はあ……疲れたわ」
アッシェ――いや。
アンナは深く息を吐き、背もたれへ身体を預ける。
その態度には、王子に対する敬意など欠片もない。
あまりにも不敬な振る舞い。
だが、ディクトがそれを咎めることはなかった。
「見送り、ご苦労さま」
「とんだ茶番だったわ」
アンナは、忌々しげに眉をひそめる。
「誰も、コーネルが別人に入れ替わってるなんて気づいていない」
「上出来だ」
「本当に上手くいったわ」
アンナは深く背もたれに沈みながら、あの人造人間を作り出した同僚の顔を思い浮かべた。
本物のコーネルは、昨夜すでに始末している。
今朝、王城を出ていった男は別人だ。
代わりに用意されたのは、人造人間に変装魔法を施し、コーネルそっくりに仕立てた影武者だった。
「これで領地も、今よりはまともになるだろう。必要な援助もこちらから回す。少なくとも、今年の冬は越せるはずだ」
「人間より人造人間の方がまともだなんて、とんだ皮肉ね」
アンナは呆れたように息を吐いた。
それから、昨夜のことを思い出したように続ける。
「護衛の二人も、気持ちよさそうに眠っていたわ」
アンナの脳裏に、昨日の光景が蘇る。
護衛たちに差し出した水には、あらかじめ遅効性の睡眠薬が仕込まれていた。
数時間かけて身体へ回り、夜が更けた頃に強烈な眠気が訪れる。
昨夜、二人が客室の前で意識を失っていたのは、そのためだ。
「それにしても、あの男……ずいぶん用心深かったわね」
コーネルは、最後まで二人を自分のそばから離そうとしなかった。
王城という、この国でもっとも安全であるはずの場所にいてさえ。
「相当、恨みを買っている自覚はあったらしい」
数ヶ月前。
ある人物を介して、ディクトのもとへ一通の密告が届いていた。
差出人は、コーネルの領地と取引をしていた商人。
書かれていたのは、領内で行われている異常な徴税についてだった。
来年のために蓄えるべき種籾まで徴収している。
このままでは、多くの領民が冬を越せない。
そんな悲痛な訴えだった。
「商人から王城に助けを求める声が届くなんて、相当よね」
「このままじゃ自分たちの取引にも影響が出ると思ったんだろう」
「ホント、貴族って最悪ね。外面だけ取り繕って、中身は腐りきってる」
アンナは、反吐が出そうな思いで吐き捨てた。
怒りというより、芯から冷えた嫌悪が言葉になった。
「宰相は期待していたけど、新領地の開拓はどうだったの?」
「ああ。それか」
ディクトは興味を失ったような声で答えた。
「コーネルは『小さな芽が育ち始めた』なんて言ってたけど、全部嘘さ。じいやも知らなかったみたいだけど、あの土地では魔力欠乏が起きていて、植物が育つような環境じゃない」
「へえ。最初から結果を出すこと自体、不可能だったのね」
アンナは、納得したように声を漏らした。
「一年もあれば、何か方法が見つかると思ったんだろうね。それまでは適当な成果をでっち上げて、時間を稼ぐつもりだった」
ディクトの冷たい声が、静まり返った室内に響いた。
アンナは、しばらく黙っていた。
コーネルは死んだ。
領民を苦しめ、私腹を肥やし、国すら欺こうとした悪徳貴族は、もういない。
その代わりに、彼の姿をした別の存在が領地へ戻った。
これからは少なくとも、これまでよりマシな統治が行われるだろう。
それで、終わったはずだった。
けれど、アンナの胸の奥は、何ひとつ晴れていない。
「それで――あいつは違うのよね。私が探してる“本命”と」
「ああ。あれは欲に取り憑かれただけの、ただの小物さ」
「そう……で、次は?」
「目星はつけてる」
「またそれ?」
アンナは露骨に顔をしかめた。
「あなた、いつも肝心なことは教えてくれないわね」
「必要になったら教えるよ」
「そういうところが腹立つのよ」
それ以上、ディクトは答えない。
この男は、いつも最低限のことしか口にしない。
まるで自分だけが盤面全体を見下ろし、アンナはその上で動かされている駒の一つにすぎない。
そんな感覚さえ覚えることがある。
アンナはわざとらしく溜息をつき、視線を逸らす。
「……そうだ、ディクト」
「なに?」
「毎朝あれをやるの、そろそろやめてくれる?」
「どれ?」
本気で分からないような顔をする。
その演技が腹立たしい。
「……分からないふりはいいわ。触るでしょう。わざと」
「ああ」
思い出したように、ディクトは笑った。
「どうして?」
「嫌だからに決まってるでしょ。次やったら――刺すわ」
冗談ではない。
低い声には、刃のような冷たさが宿っていた。
「それは怖いね。……やめないけど」
「最低ね」
「褒めてるの?」
アンナが鋭く睨みつける。
だが、ディクトはそこで静かに言った。
「――これも『契約』のうちだろ」
その一言で、室内の空気がすっと冷えた。
アンナは、言い返そうとしていた言葉を呑み込む。
怒りも、嫌悪も、反発する気持ちも――その言葉の前では押し殺すしかなかった。
契約。
それは、アンナが自ら望んで差し出した鎖だった。
「アンナ。君との約束は、必ず果たす」
ディクトは、嫌らしいほど穏やかに笑った。
アンナ・エルドレッド。
それが、アッシェの本当の名である。
ディクトがその名を呼ぶときだけ、アンナは、本来の自分に戻ることを許されている。
彼女がその名を捨て、アッシェ・レベンケとして生きることになった理由。
それは、エルドレッド家の終焉に深く関わっていた。
アンナは契約したのだ。
目の前に座る、冷酷な悪魔と。
家族を殺した者たちを、突き止めるために。
エルドレッド家を陥れた真実を暴くために。
そして何より――。
自分からすべてを奪った者たちに、復讐を果たすために。




