アンナ・エルドレッド
日が完全に暮れ、王城が静まり返った頃。
「失礼します。王子」
すべての職務を終えたアッシェは、丁寧に扉をノックし、主人の部屋へ入った。
窓から差し込む月光は弱く、室内は重苦しいほどの闇に包まれている。
その闇の奥で、ディクトが一人、静かに待っていた。
「待っていたよ、アンナ」
その名を呼ばれた瞬間、アッシェ・レベンケの仮面が音もなく剥がれ落ちた。
彼女は、一礼もせず、無遠慮な足取りで室内を進む。
そして、ディクトの正面にある椅子へ、乱暴に腰を落とした。
「はあ……疲れたわ」
アッシェ――いや、アンナは深く息を吐き出した。
その態度には、王子に対する敬意など欠片もない。
あまりにも不敬な振る舞い。
だが、ディクトがそれを咎めることはなかった。
「さっき、知らせがきた。コーネルを乗せた馬車が崖から転落したそうだ」
「……そう、うまくいったのね」
アンナは深く背もたれに沈んだ。
指先には、あの車輪の金具に触れた感触が、まだ薄く残っている。
「崖下に落ちたのなら、さすがに助からないでしょうね」
「そうだね」
ディクトは静かに頷いた。
「万が一生きていたとしても、護衛たちは動けない」
「遅効性の毒が効き始めているでしょうね」
アンナは昼間のことを思い出す。
護衛たちに差し出した水にも、すでに仕込みは済ませてあった。
「コーネルが助かる可能性はない」
「完璧ね。さすがだわ」
アンナは、冷たい闇の中に座る主を射抜くように見つめた。
「それにしても、あの男……異常ね。馬車にまで見張りを置いておくなんて」
それだけは、予想外だった。
コーネルは用心深すぎた。
王城にいるというのに、護衛をそばに置き、馬車にも人を近づけない。
見張りが離れないとき、アンナは少し焦った。
だが、ディクトはそんなことすら、最初から予見していた。
「護衛を説得できなくて、焦ったでしょ?」
「……見てたの? いいえ、あなたのことだもの。最初からすべて分かっていたんでしょうね」
アンナは忌々しげな顔をする。
「伯爵に扮したあの子が、来てくれて助かったわ。あれがなければ、細工する隙なんてなかった。相手の性格まで読み切っているなんて、あなたって本当に恐ろしいわね」
「後ろめたさがある人間ほど、行動は単純で読みやすい」
ディクトの言葉に、アンナは感服を通り越し、背筋に薄寒いものを感じた。
相手の性格、行動を完璧に予測し、確実に死へと誘う。
この男と出会ったあの日の、凍てつくような感覚が、鮮明に蘇った。
「で――あいつは違うのよね。私が探してる“本命”と」
「ああ。あれは欲に魂を売ったただの小物さ」
数ヶ月前。
ある人物を介して、ディクトの元へ商人から密告の手紙が届いていた。
コーネルが領内から吸い上げる税が、常識の範囲を逸脱しているという話だ。
来年のために蓄えるべき種籾まで徴収している。
このままでは、領民の多くが冬を越せない――そんな内容だった。
「商人からも救いを求める声が届くなんて、相当ね」
「だから、恨みを買っている自覚はあったんだろ」
「ホント、貴族って最悪だわ。外面だけ良くしていて、中身は腐りきってる」
アンナは反吐が出そうな思いで吐き捨てた。
怒りというより、芯から冷えた嫌悪が言葉になった。
「カドラス宰相は期待していたけど、領地の開拓はどうだったの?」
「コーネルは『新芽が出た』と言っていたが、つまらない嘘だった。じいやも知らなかったみたいだけど、あの領地は魔力欠乏が起きていて、植物が育つような環境じゃない」
「へえ、最初から結果を出すことは不可能だったのね」
アンナは、感心したように声を漏らした。
「一年あれば何とかなると思ったんだろうな。のし上がるチャンスに目が眩み、自分で墓穴を掘った。……つまらない小物だった」
ディクトの冷たい一言が、静まり返った室内に響いた。
アンナは、しばらく黙っていた。
民を蔑ろにし、私欲を貪った悪徳貴族は片付けた。
けれど胸の奥は、何ひとつ晴れていない。
「……次の相手は?」
「目星はつけてる」
それだけで会話が途切れる。
この男は、最低限のことしか口にしない。
まるでディクトだけが盤面を見下ろし、アンナはその外側に置かれているみたいだった。
アンナはわざとらしく溜息をつき、視線を逸らす。
「……そうだ、ディクト。毎朝あれをやるの、そろそろやめてくれる?」
「どれ?」
ディクトは本気で分からない顔をする。
その演技が腹立たしい。
「……分からないふりはいいわ。触るでしょう。わざと」
「ああ」
思い出したように、ディクトは笑った。
「どうして?」
「嫌だからに決まってるでしょ。次やったら――刺すわ」
冗談ではない。
アンナの声は低く、刃のように乾いていた。
「それは怖いね。……やめないけど」
「最低ね」
「褒めてるの?」
アンナが鋭く睨みつける。
だがディクトは、そこで静かに言った。
「――これも『契約』のうちだろ」
その一言で、室内の空気がすっと冷えた。
アンナは、言い返そうとしていた言葉を呑み込んだ。
言い返せない。
怒りも、嫌悪も、殺意さえも、その言葉の前では意味を失う。
契約。
それは、アンナが自ら望んで差し出した鎖だった。
ディクトは、嫌らしいほど穏やかに笑った。
「アンナ。君との約束は、必ず果たす」
アンナ・エルドレッド。
それが、アッシェの本当の名である。
そして、ディクトがその名を呼んだ時こそ、アンナは本来の自分に戻ることを許されている。
彼女がその名を捨て、アッシェ・レベンケとして生きることになった理由。
それは、エルドレッド家の終焉に深く関わっている。
アンナは契約したのだ。
目の前に座る、冷酷な悪魔と。
家族を殺した者たちを突き止めるために。
エルドレッド家を陥れた真実を暴くために。
そして何より――。
自分からすべてを奪った者たちに、復讐を果たすために。




