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功労者への褒美

コーネル伯爵を客間へ案内した後、アッシェは静かにその場を離れ、城門へ続く前庭へ向かった。

石畳を踏む靴音が、冷えた空気に吸い込まれていく。


昼の陽射しは穏やかだったが、風はまだ冷たい。

噴水の水音が、どこか遠くで淡々と響いていた。


前庭の一角に、立派な馬車が一台。

磨き上げられた黒塗りの車体に、伯爵家の家紋が鈍く光っている。


その傍らに、一人の男が立っていた。

御者か、あるいは護衛か。

いずれにせよ、男は馬車から視線を外さない。

腕を組み、車体から一歩も離れようとしないその姿は、忠実な番犬を思わせた。


アッシェは歩みを止め、丁寧に頭を下げる。


「ご機嫌よう。伯爵様の馬車を、清掃させていただきに参りました」

「……清掃?」


男は眉をひそめ、アッシェを上から下まで素早く見た。


「せっかくだが、この馬車は俺が管理している。必要ない」

「承知しております。ですが――」


無遠慮に拒絶されても、アッシェは淑やかな笑みを崩さない。


「客人へのもてなしが行き届かぬとなれば、王城の名折れ。先代陛下にも顔向けできません」

「そう言われてもな……」


男は視線を逸らし、曖昧に言葉を濁した。

主人からは厳命されているのだろう。

何人たりとも近づけるな、と。


(……頑なね)


強引に押せば、警戒を強めるだけ。

だが、悠長に構えている時間もない。


アッシェは一歩だけ距離を詰め、声の調子をほんの少し落とした。


「……実は、カドラス大臣より直々に命を受けております。伯爵様の馬車はこちらで清掃を行うように、と申しつけられております」


男の眉が、わずかに動く。


迷っている。

だが、退くほどではない。


アッシェは笑みを崩さないまま、男の動きを見極めた。


大柄な体格。

厚みのある腕。

一見すれば力はありそうだが、構えには隙が多い。

周囲への視線の配り方にも、どこか雑さがあった。


護衛というより、ただの見張り。

少なくとも、実戦の場で鍛え上げられた人間ではない。


周囲に人影はない。

噴水の水音だけが、遠くで淡々と響いている。


――この場で実力行使に出ても、大きな騒ぎにはならない。


右手の指先に、ほんのわずかだけ魔力を集める。


睡眠魔法で意識を落とすか。

あるいは短い幻覚魔法で、視線だけを逸らすか。


必要なのは、ほんの数分。

その間だけ、彼の意識が馬車から離れればいい。


アッシェが指先に込めた魔力を術式へ変えようとした――その時。


「どうかしましたか?」


背後から、穏やかな声がかかった。


その瞬間、アッシェの指先に集まっていた魔力が、音もなく霧散した。

胸の奥が、ほんのわずかに冷える。


聞き間違えるはずがない。

その声の主は、今まさに客間にいるはずの男だった。


アッシェは一拍置いて、何事もなかったかのように右手を下ろす。

そして、ゆっくりと振り返った。


そこに立っていたのは、コーネル伯爵だった。


柔和な笑みを浮かべ、穏やかな足取りでこちらへ近づいてくる。

その姿は、偶然通りかかっただけの客人そのものだった。


だがアッシェにとっては、あまりにも間の悪い登場だった。


「こ、これは……コーネル様!」


男は慌てたように姿勢を正す。

そして、困ったように眉を寄せ、伯爵とアッシェを交互に見た。


「いえ、その……このメイドが、伯爵様の馬車を清掃したいと申しておりまして……どうしたものかと」


コーネルは男を責めるでもなく、ゆっくりと馬車へ視線を向けた。

それから、感心したように目を細める。


「おお、それは素晴らしい!」


伯爵は、不思議なほど満足げに頷いた。


「なんと細やかな気遣いでしょう。王城のもてなしには、感服いたしますね。ぜひ、お願いしなさい」

「しかし……伯爵、よろしいのですか」

「いいのです。こういう心尽くしは、受け取るのが礼儀というものですよ」


その言葉に、アッシェは内心で小さく息を呑んだ。

まさか、あっさり許しを得られるとは思わなかった。


伯爵は男を促すように、静かに歩き出す。


「……さあ、我々は中で待つとしましょう」


去り際、伯爵はアッシェにだけ視線を向け――ほんの一瞬、口元を緩めた。

その表情には、どこか親しげな色があった。


「頼みましたよ、メイド殿」

「……かしこまりました」


アッシェは深く、静かに頭を下げた。

伏せた瞳の奥でだけ、彼女は状況を理解していた。


伯爵が男を連れて王城の奥へと消えていく。

その背中が完全に見えなくなってから、彼女は小さく息を吐いた。


前庭に、再び静寂が戻る。


アッシェは清掃道具を手に、何事もなかったかのように馬車へ歩み寄った。


まずは車体の側面に布を当て、黒塗りの表面を丁寧に拭っていく。

車体の艶を確かめ、わずかな汚れも見逃さないように、布を静かに滑らせた。


その手つきは、どこまでも自然だった。

誰が見ても、ただ馬車を清掃するメイドにしか見えない。


やがてアッシェは、流れるような動作で視線を下へ落とす。


前輪、車軸、後輪。


汚れを確かめるように身をかがめ、布を動かす。

その途中で、白くしなやかな指先が車輪を固定する金具へそっと触れた。


淡い魔力が、音もなく流れ込む。


金具の表面に白い刻印が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに鉄の色へ溶けるように消えた。

見た目には、何の変化もない。


アッシェは静かに指を離すと、何事もなかったかのように清掃を続けた。


◇◇◇


一通りの会話を終えると、コーネルは静かに席を立った。


「本日はありがとうございました、ディクト殿下。さらなる国の繁栄をお約束いたします」

「ああ、期待しているよ」


ディクトは柔らかく答えた。


その声は、どこまでも穏やかだった。

少なくともコーネルには、自分が王子の信頼を得られたように思えた。


コーネルは背筋を正し、胸に手を当てて深く一礼する。


礼は丁寧で、卑屈ではない。

敬意を示しながらも、功労者としての矜持は失わない。

その加減を心得た、実に貴族らしい所作だった。


それから、さも今思い出したように告げる。


「僭越ながら、カドラス宰相にもご挨拶をしたく存じます。どちらにいらっしゃいますか?」


やはり、そこが本命か。


ディクトは、男の狙いをとうに見抜いていた。

コーネルにとって、今日の登城はただの報告ではない。


王子に忠勤を示し、宰相には成果を売り込む。

次代の王と、現政権の中枢。

その両方に自分の価値を示すことこそ、今日の登城の本当の目的なのだろう。


だが、ディクトはそのことを顔には出さない。


「分かった。メイドに案内させるよ」

「お手を煩わせ、申し訳ございません」

「気にしないで。伯爵は大変な功労者だ」


その一言に、コーネルの表情がわずかに和らぐ。


ディクトはさらに、思い出したように続けた。


「――そうだ。今までの功績に見合う、ふさわしい『褒美』を用意しておくよ」

「なんと……ありがたきお言葉にございます、殿下」


コーネルの頬が、わずかに紅潮した。

歓喜を隠しきれず、声がかすかに震えている。


その表情には、まだ見ぬ褒美への期待が滲んでいた。


ディクトは客間を出ると、すれ違ったメイドに短く告げた。


「伯爵をカドラス宰相のもとへ」

「かしこまりました」


ディクトは、そのまま迷いのない足取りで別の廊下へ折れる。

その先は、王城の裏庭へと続いている。


城内の人の気配が少しずつ遠ざかり、穏やかな鳥のさえずりが聞こえてきた。

午後の柔らかな光に照らされた、手入れの行き届いた美しい庭園。


その静けさの中に、凛とした声が落ちた。


「ディクト様」


人影のない庭に、声だけが静かに響いた。


「いかがでしたか?」

「ああ。思った通りだったよ」


ディクトは足を止めた。

その顔には、先ほどまで伯爵に向けていた柔らかな笑みはない。

あるのは、何の感情も映さない静かな表情だけだった。


「掃除は?」

「はい。滞りなく」

「それじゃあ、予定通りに。見送りは、頼んだよ」

「お任せください」


植え込みの陰から、アッシェが姿を現す。

白銀の髪が午後の光を受け、淡く揺れた。


彼女はディクトの前まで進み出ると、深々と頭を下げる。


ディクトは何事もなかったかのように、ゆるやかに伸びをした。


「これで、今日やるべきことは終わったね」


庭園には、変わらず穏やかな光が満ちていた。

花は揺れ、水は流れ、鳥は何も知らずにさえずっている。


そして、その数時間後。


コーネル伯爵を乗せた馬車が、帰路の山道で崖下に転落したとの報が、王城にもたらされた。


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