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ヘンゼ・クリケット②

そこは、スラム街の奥にある袋小路だった。


崩れかけた石壁に囲まれ、昼過ぎだというのに薄暗い。

石畳には乾ききらない雨水の跡が残り、湿った土と錆びた鉄の匂いが重く漂っている。


周囲に人影がないことを確かめると、少年――ヘンゼは壁に背を預け、大きく息を吐いた。


「はぁ……はぁ……」


荒い呼吸が、静まり返った路地に響く。

胸が激しく上下し、額には汗が滲んでいた。


それでも、ヘンゼの顔にはわずかな安堵が浮かんでいた。


この辺りの路地は、住み慣れた者でなければすぐに迷う。

ここまで逃げ込めば、もう追ってこられないはずだ。


そう思い込むように、ヘンゼは震える手で盗んだポーチを取り出した。

念のため、もう一度だけ周囲を見回す。


誰もいない。


ようやく、ポーチの口を開ける。


中には銀貨と銅貨が詰まっていた。

薄暗い路地の中でも、それははっきりと分かった。


「……すげぇ」


思わず息が漏れる。

指先で硬貨をかき分けると、金属の触れ合う小さな音が鳴った。


「これだけあれば……」


ポーチをぎゅっと握りしめる。


「久しぶりに、うまい飯を食わせてやれるな……」


その瞬間、脳裏に妹の顔が浮かんだ。


薄い布団の中で、妹のグレーテは小さく咳き込んでいた。

熱で頬を赤くしながら、それでもヘンゼを見ると、いつも笑ってみせる。


『お兄ちゃん、大丈夫だよ』


大丈夫なはずがない。

それでもグレーテは、兄を安心させるために嘘をつく。

その笑顔を思い出すたび、ヘンゼの胸は締めつけられた。


「待ってろよ、グレーテ……」


そのときだった。


「見つけたわ」


静かな声が、袋小路に落ちた。


ヘンゼの背筋が凍りつく。

はっと振り返った瞬間、頭上から影が差した。


次の瞬間、銀髪の少女が音もなく地面へ降り立つ。


追いかけてきたはずなのに、アッシェの姿には一切の乱れがなかった。

乱れた髪も、荒い呼吸もない。

ただ静かに、最初からそこにいたかのように立っている。


アッシェは冷たい瞳で、ヘンゼを見下ろした。


「どうして……ここが!」


ヘンゼは思わず叫ぶ。

それに対して、アッシェは静かに答える。


「見失う前に、マーキングさせてもらったわ」

「マーキング……?」


ヘンゼは慌てて自分の身体を見回した。


足元や胸元を探るように視線を走らせる。

そして右腕に、淡い白銀の刻印が浮かんでいるのを見つけた。


小さな星のような紋章だった。


「ちっ……お前ら、魔女だったのか」


ヘンゼは悔しげに舌打ちする。


「そうよ」


アッシェは否定しなかった。


「だから、どこに逃げても無駄よ」


そう言って、ゆっくりと少年へ歩み寄る。


ヘンゼは反射的に身を引いた。

だが、背中はすぐに石壁へぶつかる。

袋小路。

もう逃げ場はない。


アッシェは彼の前で足を止めた。


「マロンから盗んだものを返しなさい」


ヘンゼはポーチを握りしめたまま、動かなかった。


返したくない。

けれど、逃げ場もない。


怯えと悔しさが入り混じった目でアッシェを睨む。

だが、アッシェはただ静かに見下ろしていた。


しばらくの沈黙のあと、ヘンゼは歯を食いしばる。


「……くそ」


小さく吐き捨て、観念したようにポーチを差し出した。


アッシェはそれを受け取り、中身を確認する。

銀貨も銅貨も、すべて残っていた。


そのとき――


「お姉さま……!」


路地の入口から声が響いた。


「やっと、追いつきました……」


マロンが駆け込んでくる。

急いで走ってきたのだろう。

肩で息をし、金色の髪がわずかに乱れていた。


だが、アッシェの姿を見つけると、ほっとしたように表情を緩める。


「大丈夫ですか?」

「ええ。問題ないわ」


アッシェは短く答え、手にしていたポーチをマロンへと返した。


「あ、ありがとうございます」


マロンはそれを受け取ると、今度こそなくさないように腰元へしまった。


そのまま視線を上げる。

壁にもたれかかり、悔しそうに唇を噛んでいるヘンゼの姿が目に入った。


擦り切れた服。

何度も繕った跡のある粗末な上着。

泥に汚れた袖口と、つま先が覗くほど破れた靴。


体つきも細く、腕も痩せている。

頬はわずかにこけ、背丈もまだ低い。


年は、十にも満たないだろう。


盗みを働いた少年。

けれど、その姿はあまりにも幼く、あまりにも貧しかった。


マロンは思わず、声を漏らす。


「どうして、こんなことを……?」


その言葉に、ヘンゼの顔が歪んだ。


「うるせえな」


吐き捨てるような声だった。


「返したんだから。もういいだろ」


それ以上は何も話す気がない。

そう言うように、ヘンゼは唇を固く結ぶ。


だが、アッシェは静かに口を開いた。


「さっき、言っていたわね」

「……?」


ヘンゼは警戒するように目を細める。


「『待ってろよ、グレーテ』って」

「……っ!?」 


ヘンゼの肩が、ぴくりと跳ねた。

驚いたように目を見開き、それから鋭くアッシェを睨みつける。


「聞いてたのか……」


悔しそうに歯を食いしばる。

けれど、その反応だけで十分だった。


アッシェは静かに問いかける。


「グレーテという子のために、お金が必要だったのね」

「……妹だよ」


しばらく黙ったあと、ヘンゼは観念したように呟いた。


「グレーテは、俺の妹だ」


その声は、先ほどまでの荒々しさとは違っていた。

小さく、今にも消えそうだった。


「病気なんだ。最近、ずっと寝込んでる」


アッシェは表情を変えないまま、さらに尋ねた。


「両親は?」

「……いねえよ」


ヘンゼは短く答えた。


それだけで済ませようとしたのか、視線を逸らす。

だが、少しの沈黙のあと、諦めたように唇を開いた。


「父さんも、母さんも……もういない」


路地に、重い沈黙が落ちる。


遠くで、錆びた扉が風に揺れて鳴った。


「父さんは商人だったんだ」


ヘンゼは壁にもたれたまま、ぽつりと続ける。


「村とか街を回って、荷物を運んでた。母さんも、それを手伝ってた」


その声には、ほんの少しだけ懐かしさが混じっていた。

けれど、すぐに表情が暗く沈む。


「でも、ある日、二人とも帰ってこなかった」


ヘンゼは拳を握りしめる。


「あとから聞いたよ。野盗に襲われたんだって。荷物も、馬車も、全部奪われたって」


アッシェは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


しばらく、誰も口を開けなかった。

やがてヘンゼは、かすれた声で続ける。


「それで、残ったのは俺と妹だけだ」


妹のことを口にした瞬間だけ、声が少し柔らかくなる。

だが、すぐにその表情が曇った。


「でも、そのグレーテまで病気になった」


小さな拳が震える。


「頼れる身内なんていないし、薬だって高くて買えねえ。食べるものだって、ろくに用意できない」


ヘンゼはそこで顔を上げた。


その目には、悔しさと諦めが混じっている。


「それが、盗みを働いた理由ね」


アッシェが静かに言う。


ヘンゼは唇を噛んだ。


「そうだよ」


絞り出すような声だった。


「金がないってだけで、守りたいものも守れない気持ちなんて……あんたらには分かんねえだろ」

「そうね」


アッシェは淡々と答えた。


「だからといって、人のものを奪っていい理由にはならないわ」

「……分かってるよ」


ヘンゼの声が震えた。


「盗みが悪いことだって、俺だって分かってる」


強がるように言いながらも、目元はもう揺れていた。


「でも……このままじゃ、グレーテが死ぬかもしれないんだ」


唇を強く噛む。

それでも、堪えきれなかったように言葉がこぼれた。


「だったら、俺は……何だってするしかねえだろ……」


最後の言葉は、叫びではなかった。

怒りというより、助けを求める声に近かった。


ヘンゼはうつむき、肩を小さく震わせる。


「……どうすりゃよかったんだよ」


その姿を、アッシェは黙って見つめていた。


妹を救いたい。

ただそれだけの願いで、盗みに手を伸ばした少年。


その必死な姿に、アッシェはかつての自分を重ねていた。


守れなかった妹。

伸ばした手は、最後まで届かなかった。

あのとき、自分には何もできなかった。

守るだけの力が、足りなかった。


胸の奥に沈めたはずの記憶が、静かに揺れる。

忘れたはずの痛みが、今になって蘇るようだった。


その様子を見ていたマロンが、そっと声をかけた。


「お姉さま……」


小さな声だった。


アッシェは振り返らない。

ただ、ヘンゼを見つめたままだった。


その横顔を見て、マロンは気づく。


――お姉さまは、この子を助けようとしている。


マロンは小さく息をつく。

そして、言葉を選ぶように口を開いた。


「お姉さまは、優しいので……この子のことを放っておけないのは……分かります」


視線を落とし、指先でそっと袖をつまむ。


「でも……私たちはディクト様からの任務でここに来ています。これ以上関わるのは……良くないのではないですか?」


アッシェは何も言わなかった。


マロンの言葉は正しい。

自分たちはディクトの命でリオネルに来ている。

優先すべきは任務であり、寄り道をしている場合ではない。


それでも――


守れなかった妹の姿が、胸の奥に浮かんだ。


アッシェはゆっくりと目を閉じる。

そして、小さく呟いた。


「……放っておけないわ」


迷いのない声だった。

マロンが、ぱっと目を見開く。


「お姉さま……」


アッシェはヘンゼへ視線を戻した。


しばらくの沈黙のあと、静かに告げる。


「妹のところへ案内しなさい」

「えっ?」


ヘンゼが思わず顔を上げる。

驚きと戸惑いが、その表情に浮かんでいた。


「私なら、あなたの妹を少しは楽にしてあげられるかもしれない」

「……どういうことだよ」


ヘンゼは警戒するように眉をひそめる。


アッシェは一歩だけ近づき、視線を逸らさずに答えた。


「私は魔法士よ。治癒系の魔法も使えるわ」

「それって……グレーテの病気を治せるってことか?」


ヘンゼの瞳に、縋るような光が灯る。

だが、アッシェはすぐに首を横に振った。


「残念だけど、病気そのものを治せるわけじゃないわ」


その言葉に、ヘンゼの表情が曇る。


けれど、アッシェはそのまま続けた。


「でも、弱った身体を支えることはできる。苦しさも、今よりは和らげられるはずよ」


魔力のないヘンゼにとって、魔法は遠い世界の話だった。

何ができて、何ができないのかも分からない。


それでも、アッシェが嘘をついているようには見えなかった。


だからこそ、分からなかった。


なぜ、この人は自分たちを助けようとしてくれるのか。


「……なんでだよ」


戸惑いを隠せない声で、ヘンゼは尋ねる。


「なんで、赤の他人の俺たちを助けようとするんだ?」


盗みを働いたのは自分だ。

殴られても、詰所に突き出されても、文句は言えないはずだった。


それなのに、目の前の女は事情を聞き、手を差し伸べようとしている。

そんな人間に、ヘンゼはこれまで一度も会ったことがなかった。


アッシェは少しだけ困ったように目を細める。


「さあ。私にも、よく分からないわ」


そこで一度、言葉を切った。


「ただ、あなたを見ていると……放っておけないと思ったの」


それだけよ、と静かに告げる。


その眼差しを見た瞬間、マロンの胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。


アッシェの視線は、あまりにも優しかった。

それがなぜか、マロンには少しだけ苦しかった。


「妹を助けたいんでしょう?」


アッシェの問いに、ヘンゼは唇を震わせた。


「ああ……っ」


たったそれだけで、張りつめていたものが崩れた。


妹が、助かるかもしれない。

苦しそうに息をするグレーテが、少しでも楽になるかもしれない。


その小さな希望が、胸の奥を締めつけていた苦しさをほどいていく。


「俺は……何もできなかった」


震える声で、ぽつりとこぼす。


「グレーテのために、何一つ」


ヘンゼは袖で乱暴に目元をこすった。


薬を買うこともできない。

ろくに食べるものも用意してやれなかった。

苦しむグレーテを前にして、自分にできたのは盗みで日銭を稼ぐことだけだった。

つらそうに息をしながら、それでも「大丈夫」と笑う妹に、何もしてやれなかった。


それが悔しくて、情けなくて、胸の奥が焼けるように苦しかった。


「でも……もし、グレーテが助かるなら」


ヘンゼは顔を上げた。

滲んだ目のまま、それでもアッシェを見る。


「俺は、何だってする」


喉が詰まり、次の言葉がすぐには出てこない。

それでも、どうにか絞り出した。


「だから……グレーテを助けてくれ!」


震える声だった。


アッシェは静かに頷く。


「ええ」


その声は穏やかで、それでいて強かった。


「手は尽くすわ」


ヘンゼはしばらく何も言えなかった。

やがて袖で目元を拭い、強く息を吸う。


「……ありがとう」


ぼそりと呟く。

その瞳には、さっきまでとは違う光が宿っていた。


「グレーテのところへ案内する。ついてきて――いや……来てください」


そう言って、ヘンゼは歩き出した。

アッシェは、その後を追う。


マロンも少しだけ複雑そうな表情を浮かべながら、数歩遅れてついていった。


薄暗い路地の奥へ、三人の影が静かに消えていった。

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