10話 少年の願い
そこは、スラム街の奥にある袋小路だった。
崩れかけた石壁に囲まれ、昼過ぎだというのに薄暗い。
石畳には乾ききらない雨水の跡が残り、湿った土と錆びた鉄の匂いが重く漂っている。
周囲に人影がないことを確かめると、少年――ヘンゼは壁に背を預け、大きく息を吐いた。
「はぁ……はぁ……」
荒い呼吸が、静まり返った路地に響く。
胸が激しく上下し、額には汗が滲んでいた。
それでも、ヘンゼの顔にはわずかな安堵が浮かんでいた。
この辺りの路地は、住み慣れた者でなければすぐに迷う。
ここまで逃げ込めば、もう追ってこられないはずだ。
そう思い込むように、ヘンゼは震える手で盗んだポーチを取り出した。
念のため、もう一度だけ周囲を見回す。
誰もいない。
ようやく、ポーチの口を開ける。
中には銀貨と銅貨が詰まっていた。
薄暗い路地の中でも、それははっきりと分かった。
「……すげぇ」
思わず息が漏れる。
指先で硬貨をかき分けると、金属の触れ合う小さな音が鳴った。
「これだけあれば……」
ポーチをぎゅっと握りしめる。
「久しぶりに、うまい飯を食わせてやれるな……」
その瞬間、脳裏に妹の顔が浮かんだ。
薄い布団の中で、妹のグレーテは小さく咳き込んでいた。
熱で頬を赤くしながら、それでもヘンゼを見ると、いつも笑ってみせる。
『お兄ちゃん、大丈夫だよ』
大丈夫なはずがない。
それでもグレーテは、兄を安心させるために嘘をつく。
その笑顔を思い出すたび、ヘンゼの胸は締めつけられた。
「待ってろよ、グレーテ……」
そのときだった。
「見つけたわ」
静かな声が、袋小路に落ちた。
ヘンゼの背筋が凍りつく。
はっと振り返った瞬間、頭上から影が差した。
次の瞬間、銀髪の少女が音もなく地面へ降り立つ。
追いかけてきたはずなのに、アッシェの姿には一切の乱れがなかった。
乱れた髪も、荒い呼吸もない。
ただ静かに、最初からそこにいたかのように立っている。
アッシェは冷たい瞳で、ヘンゼを見下ろした。
「どうして……ここが!」
ヘンゼは思わず叫ぶ。
それに対して、アッシェは静かに答える。
「見失う前に、マーキングさせてもらったわ」
「マーキング……?」
ヘンゼは慌てて自分の身体を見回した。
足元や胸元を探るように視線を走らせる。
そして右腕に、淡い白銀の刻印が浮かんでいるのを見つけた。
小さな星のような紋章だった。
「ちっ……お前ら、魔女だったのか」
ヘンゼは悔しげに舌打ちする。
「そうよ」
アッシェは否定しなかった。
「だから、どこに逃げても無駄よ」
そう言って、ゆっくりと少年へ歩み寄る。
ヘンゼは反射的に身を引いた。
だが、背中はすぐに石壁へぶつかる。
袋小路。
もう逃げ場はない。
アッシェは彼の前で足を止めた。
「マロンから盗んだものを返しなさい」
ヘンゼはポーチを握りしめたまま、動かなかった。
返したくない。
けれど、逃げ場もない。
怯えと悔しさが入り混じった目でアッシェを睨む。
だが、アッシェはただ静かに見下ろしていた。
しばらくの沈黙のあと、ヘンゼは歯を食いしばる。
「……くそ」
小さく吐き捨て、観念したようにポーチを差し出した。
アッシェはそれを受け取り、中身を確認する。
銀貨も銅貨も、すべて残っていた。
そのとき――
「お姉さま……!」
路地の入口から声が響いた。
「やっと、追いつきました……」
マロンが駆け込んでくる。
急いで走ってきたのだろう。
肩で息をし、金色の髪がわずかに乱れていた。
だが、アッシェの姿を見つけると、ほっとしたように表情を緩める。
「大丈夫ですか?」
「ええ。問題ないわ」
アッシェは短く答え、手にしていたポーチをマロンへと返した。
「あ、ありがとうございます」
マロンはそれを受け取ると、今度こそなくさないように腰元へしまった。
そのまま視線を上げる。
壁にもたれかかり、悔しそうに唇を噛んでいるヘンゼの姿が目に入った。
擦り切れた服。
何度も繕った跡のある粗末な上着。
泥に汚れた袖口と、つま先が覗くほど破れた靴。
体つきも細く、腕も痩せている。
頬はわずかにこけ、背丈もまだ低い。
年は、十にも満たないだろう。
盗みを働いた少年。
けれど、その姿はあまりにも幼く、あまりにも貧しかった。
マロンは思わず、声を漏らす。
「どうして、こんなことを……?」
その言葉に、ヘンゼの顔が歪んだ。
「うるせえな」
吐き捨てるような声だった。
「返したんだから。もういいだろ」
それ以上は何も話す気がない。
そう言うように、ヘンゼは唇を固く結ぶ。
だが、アッシェは静かに口を開いた。
「さっき、言っていたわね」
「……?」
ヘンゼは警戒するように目を細める。
「『待ってろよ、グレーテ』って」
「……っ!?」
ヘンゼの肩が、ぴくりと跳ねた。
驚いたように目を見開き、それから鋭くアッシェを睨みつける。
「聞いてたのか……」
悔しそうに歯を食いしばる。
けれど、その反応だけで十分だった。
アッシェは静かに問いかける。
「グレーテという子のために、お金が必要だったのね」
「……妹だよ」
しばらく黙ったあと、ヘンゼは観念したように呟いた。
「グレーテは、俺の妹だ」
その声は、先ほどまでの荒々しさとは違っていた。
小さく、今にも消えそうだった。
「病気なんだ。最近、ずっと寝込んでる」
アッシェは表情を変えないまま、さらに尋ねた。
「両親は?」
「……いねえよ」
ヘンゼは短く答えた。
それだけで済ませようとしたのか、視線を逸らす。
だが、少しの沈黙のあと、諦めたように唇を開いた。
「父さんも、母さんも……もういない」
路地に、重い沈黙が落ちる。
遠くで、錆びた扉が風に揺れて鳴った。
「父さんは商人だったんだ」
ヘンゼは壁にもたれたまま、ぽつりと続ける。
「村とか街を回って、荷物を運んでた。母さんも、それを手伝ってた」
その声には、ほんの少しだけ懐かしさが混じっていた。
けれど、すぐに表情が暗く沈む。
「でも、ある日、二人とも帰ってこなかった」
ヘンゼは拳を握りしめる。
「あとから聞いたよ。野盗に襲われたんだって。荷物も、馬車も、全部奪われたって」
アッシェは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
しばらく、誰も口を開けなかった。
やがてヘンゼは、かすれた声で続ける。
「それで、残ったのは俺と妹だけだ」
妹のことを口にした瞬間だけ、声が少し柔らかくなる。
だが、すぐにその表情が曇った。
「でも、そのグレーテまで病気になった」
小さな拳が震える。
「頼れる身内なんていないし、薬だって高くて買えねえ。食べるものだって、ろくに用意できない」
ヘンゼはそこで顔を上げた。
その目には、悔しさと諦めが混じっている。
「それが、盗みを働いた理由ね」
アッシェが静かに言う。
ヘンゼは唇を噛んだ。
「そうだよ」
絞り出すような声だった。
「金がないってだけで、守りたいものも守れない気持ちなんて……あんたらには分かんねえだろ」
「そうね」
アッシェは淡々と答えた。
「だからといって、人のものを奪っていい理由にはならないわ」
「……分かってるよ」
ヘンゼの声が震えた。
「盗みが悪いことだって、俺だって分かってる」
強がるように言いながらも、目元はもう揺れていた。
「でも……このままじゃ、グレーテが死ぬかもしれないんだ」
唇を強く噛む。
それでも、堪えきれなかったように言葉がこぼれた。
「だったら、俺は……何だってするしかねえだろ……」
最後の言葉は、叫びではなかった。
怒りというより、助けを求める声に近かった。
ヘンゼはうつむき、肩を小さく震わせる。
「……どうすりゃよかったんだよ」
その姿を、アッシェは黙って見つめていた。
妹を救いたい。
ただそれだけの願いで、盗みに手を伸ばした少年。
その必死な姿に、アッシェはかつての自分を重ねていた。
守れなかった妹。
伸ばした手は、最後まで届かなかった。
あのとき、自分には何もできなかった。
守るだけの力が、足りなかった。
胸の奥に沈めたはずの記憶が、静かに揺れる。
忘れたはずの痛みが、今になって蘇るようだった。
その様子を見ていたマロンが、そっと声をかけた。
「お姉さま……」
小さな声だった。
アッシェは振り返らない。
ただ、ヘンゼを見つめたままだった。
その横顔を見て、マロンは気づく。
――お姉さまは、この子を助けようとしている。
マロンは小さく息をつく。
そして、言葉を選ぶように口を開いた。
「お姉さまは、優しいので……この子のことを放っておけないのは……分かります」
視線を落とし、指先でそっと袖をつまむ。
「でも……私たちはディクト様からの任務でここに来ています。これ以上関わるのは……良くないのではないですか?」
アッシェは何も言わなかった。
マロンの言葉は正しい。
自分たちはディクトの命でリオネルに来ている。
優先すべきは任務であり、寄り道をしている場合ではない。
それでも――
守れなかった妹の姿が、胸の奥に浮かんだ。
アッシェはゆっくりと目を閉じる。
そして、小さく呟いた。
「……放っておけないわ」
迷いのない声だった。
マロンが、ぱっと目を見開く。
「お姉さま……」
アッシェはヘンゼへ視線を戻した。
しばらくの沈黙のあと、静かに告げる。
「妹のところへ案内しなさい」
「えっ?」
ヘンゼが思わず顔を上げる。
驚きと戸惑いが、その表情に浮かんでいた。
「私なら、あなたの妹を少しは楽にしてあげられるかもしれない」
「……どういうことだよ」
ヘンゼは警戒するように眉をひそめる。
アッシェは一歩だけ近づき、視線を逸らさずに答えた。
「私は魔法士よ。治癒系の魔法も使えるわ」
「それって……グレーテの病気を治せるってことか?」
ヘンゼの瞳に、縋るような光が灯る。
だが、アッシェはすぐに首を横に振った。
「残念だけど、病気そのものを治せるわけじゃないわ」
その言葉に、ヘンゼの表情が曇る。
けれど、アッシェはそのまま続けた。
「でも、弱った身体を支えることはできる。苦しさも、今よりは和らげられるはずよ」
魔力のないヘンゼにとって、魔法は遠い世界の話だった。
何ができて、何ができないのかも分からない。
それでも、アッシェが嘘をついているようには見えなかった。
だからこそ、分からなかった。
なぜ、この人は自分たちを助けようとしてくれるのか。
「……なんでだよ」
戸惑いを隠せない声で、ヘンゼは尋ねる。
「なんで、赤の他人の俺たちを助けようとするんだ?」
盗みを働いたのは自分だ。
殴られても、詰所に突き出されても、文句は言えないはずだった。
それなのに、目の前の女は事情を聞き、手を差し伸べようとしている。
そんな人間に、ヘンゼはこれまで一度も会ったことがなかった。
アッシェは少しだけ困ったように目を細める。
「さあ。私にも、よく分からないわ」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ、あなたを見ていると……放っておけないと思ったの」
それだけよ、と静かに告げる。
その眼差しを見た瞬間、マロンの胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
アッシェの視線は、あまりにも優しかった。
それがなぜか、マロンには少しだけ苦しかった。
「妹を助けたいんでしょう?」
アッシェの問いに、ヘンゼは唇を震わせた。
「ああ……っ」
たったそれだけで、張りつめていたものが崩れた。
妹が、助かるかもしれない。
苦しそうに息をするグレーテが、少しでも楽になるかもしれない。
その小さな希望が、胸の奥を締めつけていた苦しさをほどいていく。
「俺は……何もできなかった」
震える声で、ぽつりとこぼす。
「グレーテのために、何一つ」
ヘンゼは袖で乱暴に目元をこすった。
薬を買うこともできない。
ろくに食べるものも用意してやれなかった。
苦しむグレーテを前にして、自分にできたのは盗みで日銭を稼ぐことだけだった。
つらそうに息をしながら、それでも「大丈夫」と笑う妹に、何もしてやれなかった。
それが悔しくて、情けなくて、胸の奥が焼けるように苦しかった。
「でも……もし、グレーテが助かるなら」
ヘンゼは顔を上げた。
滲んだ目のまま、それでもアッシェを見る。
「俺は、何だってする」
喉が詰まり、次の言葉がすぐには出てこない。
それでも、どうにか絞り出した。
「だから……グレーテを助けてくれ!」
震える声だった。
アッシェは静かに頷く。
「ええ」
その声は穏やかで、それでいて強かった。
「手は尽くすわ」
ヘンゼはしばらく何も言えなかった。
やがて袖で目元を拭い、強く息を吸う。
「……ありがとう」
ぼそりと呟く。
その瞳には、さっきまでとは違う光が宿っていた。
「グレーテのところへ案内する。ついてきて――いや……来てください」
そう言って、ヘンゼは歩き出した。
アッシェは、その後を追う。
マロンも少しだけ複雑そうな表情を浮かべながら、数歩遅れてついていった。
薄暗い路地の奥へ、三人の影が静かに消えていった。




