30話 セルペンス掃討戦⑥
ルクサと聖霊の激しい攻防が、会合室の中で繰り広げられていた。
ルクサが床を蹴る。
身体強化魔法によって引き上げられた脚力が、その巨躯を凄まじい速度で押し出した。
一瞬にして間合いを詰めると、腰の刀を真横に薙ぎ払う。
鋭い一閃。
並の相手ならば、斬られたことにすら気づかず、その生涯を終えていただろう。
だが――刃は空を切った。
聖霊は、すでにそこにはいなかった。
――かちり。
時計の音が響く。
次の瞬間、異形の姿がルクサの背後に現れた。
移動したのではない。
まるで、その過程だけが最初から存在しなかったかのように、忽然と姿を現したのだ。
細く長い腕が振るわれ、無防備な背中へ拳が迫る。
しかし――。
ルクサの身体が、人間離れした速度で翻った。
身体強化魔法によって極限まで高められた反応速度が、不意の一撃への対応を可能にしたのだ。
ギィンッ――!
振り向きざまに繰り出した刀が、聖霊の拳を受け止めた。
凄まじい衝撃が走り、足元の石畳に亀裂が入る。
ルクサは受け止めた衝撃を利用して身体を回転させ、すかさず刀を斬り返した。
だが、聖霊の姿は再び消える。
――かちり。
背後。
ルクサが振り向くよりも早く、次の一撃が迫っていた。
それでも、身体を強引に捻りながら刀を引き戻し、背後から迫る拳の軌道へ刃を滑り込ませる。
ギィンッ――!
再び激しい衝突音が響いた。
「……変ですね」
二人の攻防を見つめていたクロイスは、わずかに眉をひそめた。
ルクサの実力は、よく理解している。
元傭兵として幾多の戦場を渡り歩いてきた経験。
身体強化魔法を駆使した神速の抜刀術。
そして、死線を越えることで磨き上げられた反応速度。
どれを取っても一流だ。
だが、それでもクロイスには解せなかった。
いくら身体強化魔法で反応速度を高めようと、限界はある。
対して、自分が使役する聖霊は違う。
移動に必要な時間も、攻撃に至るまでの過程も、すべてを省略する。
速い、遅いという次元の話ではないのだ。
攻撃の予兆すらない一撃に、いくらルクサといえど、そう何度も対応できるはずがない。
「お気づきになったようですね」
不意に、涼やかな声が響いた。
クロイスが視線を向けると、シトラスは変わらず優雅に微笑んでいた。
「私の魔法は、ただ相手を操るだけではありません。使役した者の魔力を高めることもできるんです。おかげで彼の身体強化魔法も、普段以上の力を発揮しているんですよ」
「……なるほど。道理で、あれほどの動きができるわけですか」
クロイスは眼鏡を押し上げ、静かに息を吐いた。
その間にも、ルクサと聖霊の激しい攻防は続いていた。
ルクサの刀が閃く。
その刃が届くよりも早く、聖霊の姿が消える。
次の瞬間には背後へ現れ、鋭い拳を繰り出す。
ルクサは身体強化魔法によって高められた反応速度を駆使し、辛うじてその猛攻を捌いていた。
「ですが――」
クロイスが静かに口を開く。
「いくら身体能力を高めたところで、勝敗は変わりませんよ」
「まあ。それは随分な自信ですね」
「ええ。どれほど強力な身体強化魔法を使おうと、ルクサさんは人間です。体力には限りがありますし、これだけ激しい戦闘を続けていれば、肉体への負担も相当なものでしょう」
クロイスは眼鏡を押し上げ、淡々と言葉を続けた。
「対して、僕の聖霊にそのような制約はありません」
そして、わずかに肩をすくめる。
「貴重な部下を失うのは、実に非効率的ですが……仕方ありませんね」
そう言って、指先をわずかに動かした。
かちり、かちり、かちり――。
それまで一定の間隔で進んでいた針が、突如として速度を上げた。
時計盤の針が目まぐるしく回転し始める。
次の瞬間、聖霊の姿が消えた。
「――ッ!」
ルクサの刀が閃く。
ギィンッ――!
鋭い金属音が響き渡った。
正面から迫った拳を、寸前で受け止める。
だが、反撃に移るよりも早く、聖霊の姿が再び消えていた。
――かちり。
右側。
咄嗟に刀を振るう。
ギィンッ!
――かちり。
今度は背後。
ルクサは身体を捻り、振り向きざまに刃を滑り込ませた。
ギィンッ――!
立て続けに衝突音が響く。
しかし、それで終わりではなかった。
右。
左。
背後。
正面。
聖霊は絶え間なく位置を変え、四方八方から容赦なく拳を繰り出してくる。
ルクサも刀を振るい、次々と襲いかかる攻撃を捌いていく。
しかし、いくら身体能力を強化しているとはいえ、休む間もなく続く猛攻に、次第に反応が追いつかなくなっていった。
そして、ついに――。
ドゴッ!
わずかに生じた隙を突かれ、漆黒の拳がルクサの胸元へ突き刺さった。
凄まじい衝撃に巨躯が仰け反る。
それでも踏みとどまり、反撃のために刀を振り上げた。
だが、その刃が届くよりも早く、聖霊の姿が消える。
――かちり。
次の瞬間には、ルクサの脇腹へ拳がめり込んでいた。
さらに背後から強烈な一撃が叩き込まれ、身体が前方へつんのめる。
そこからは、一方的だった。
聖霊は姿を消しては現れ、そのたびにルクサの身体へ容赦なく拳を叩き込んでいく。
反撃する暇も、防御を立て直す余裕もない。
それまで辛うじて拮抗していた戦況が、瞬く間に崩れていった。
そして――。
聖霊がルクサの正面へ現れた。
――かちり。
時計の音が響いた直後。
ドォンッ――!!
強烈な一撃が、ルクサの身体をまともに捉えた。
巨躯が宙を舞い、そのまま長机へ激突する。
厚い天板が真っ二つに割れ、椅子や木片を巻き込みながら、ルクサは石畳の上を転がっていった。
轟音が会合室に響き渡る。
やがて、辺りが静まり返った。
もうもうと立ち込める埃の向こう。
砕けた机の残骸に埋もれるように、ルクサがうつ伏せに倒れていた。
手から離れた刀が、乾いた音を立てて石畳を滑る。
その身体は、ぴくりとも動かなかった。
「本当に……」
クロイスは深いため息を吐いた。
「実に、無駄な損失です」
その声に、勝利を喜ぶ響きはない。
ただ、貴重な戦力を失ったことを嘆いているようだった。
クロイスはゆっくりとシトラスへ向き直る。
それに合わせるように、聖霊もまた、時計盤の顔を彼女へ向けた。
「さて。どうやら、あなたの奇策も失敗に終わったようですね」
クロイスは余裕の笑みを浮かべる。
「部下を操って戦わせるという発想は、なかなか面白いものでした。ですが、僕の聖霊とは相性が悪かったようですね」
「……そのようですね」
シトラスは、倒れ伏したルクサへ視線を向けた。
しばらくその姿を見つめたあと、小さく息を吐く。
「困りましたね。まさか、ここまで一方的にやられてしまうとは……」
先ほどまで浮かべていた余裕のある笑みが、わずかに薄れる。
その反応に、クロイスは満足げに目を細めた。
「ようやく、ご自分の置かれた状況を理解されたようですね。ですが、今さら命乞いをされても遅いですよ。あなた方のおかげで、こちらは随分と大きな損害を受けましたからね」
そこで、口元を歪めた。
「その代償は、きっちり支払っていただかなければ」
「…………」
シトラスは何も答えなかった。
ただ静かに目を伏せたまま、動こうともしない。
(……どうやら、万策尽きて心が折れてしまったようですね)
その様子を見て、クロイスは勝利を確信した。
もはや、これ以上の会話は必要ないだろう。
クロイスは軽く片手を掲げ、聖霊へ命令を下す。
「これで終わりです」
その言葉と同時に、聖霊の姿が消えた。
音はない。
ただ、結果だけが現れる。
次の瞬間、聖霊はすでにシトラスの眼前にいた。
細く長い腕が振るわれ、漆黒の拳が彼女の胸元へ迫る。
だが――。
「…………?」
その拳は、シトラスに触れる寸前で止まっていた。
ぴたり、と。
まるで見えない壁に阻まれたかのように、聖霊の動きが完全に停止していた。
「……おや?」
クロイスは眉をひそめた。
命令は確かに下したはずだ。
すぐさま自身の魔力を確認する。
先ほどルクサを戦闘不能に追い込むため、かなりの魔力を消耗していた。
しかし、魔力切れを起こしたわけではない。
その証拠に、召喚自体も問題なく維持できている。
(……ならば、なぜ止まった?)
「攻撃を続行してください」
改めて命令を送る。
だが、聖霊は動かない。
拳も、腕も、首も。わずかに揺れることすらなかった。
「……なぜ動かない?」
クロイスの表情から、徐々に笑みが消えていく。
(……おかしい)
こんなことは、これまで一度もなかった。
そもそも、契約を交わした聖霊が術者の命令に従わないなど、あってはならないことだ。
「……戻りなさい」
今度は、自分の元へ戻るよう指示を送った。
それでも、結果は同じだった。
聖霊はシトラスの前で静止したまま、ぴくりとも動かない。
「無駄ですよ」
不意に、柔らかな声が響いた。
クロイスが視線を向けると、シトラスは穏やかに微笑んでいた。
先ほどまでの困り果てた様子は、どこにもない。
まるで、こうなることを最初から知っていたかのような余裕すらあった。
「いくら命令しても、この子があなたの命令通りに動くことはありませんよ」
「……それは、どういうことですか?」
「だって――」
シトラスは、聖霊へそっと視線を向けた。
「あなたの聖霊は、もう私の配下にありますもの」「…………何?」
クロイスは、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
「一体、何をおっしゃっているのですか?」
「そのままの意味ですよ」
「馬鹿な……! 契約済みの聖霊を、他者が使役するなど聞いたことがありません!」
思わず声を荒らげるクロイスとは対照的に、シトラスはどこまでも穏やかだった。
「まあ、理解できないのも無理ありません。特別に教えて差し上げますね」
そう言って、にっこりと微笑む。
「私の固有魔法は、少々特殊でして。使役できるのは、人間だけではないんです」
「……まさか」
クロイスの目が見開かれた。
その反応を見て、シトラスは嬉しそうに微笑む。
「ふふっ。お気づきになりました?」
そして、まるで何でもないことのように告げた。
「人も、獣も、魔物も、聖霊も……意思を持つ存在であれば、すべて私の支配下に置くことができます」
そう言って、まるで愛玩動物を撫でるように、聖霊の腕を優しく撫でた。
「もちろん、召喚魔法で呼び出された聖霊であっても、例外ではありませんよ」
「……嘘だ」
クロイスは呆然と呟いた。
そんな魔法が存在するなら、召喚士にとって天敵どころの話ではない。自らが召喚した戦力を奪われるなど、召喚魔法の根幹そのものを否定するようなものだ。
しかも、支配権を奪われたというのに、聖霊は今も顕現し続けている。
でたらめな魔法だった。
「……ですが、おかしい」
クロイスは息を整え、どうにか冷静さを取り戻した。
「本当に最初から僕の聖霊を支配できたのなら、なぜ今までそうしなかったのです? 最初から支配していれば、それで終わっていたはずです」
「ふふっ」
シトラスが小さく笑った。
「なるほど。何か特別な発動条件があると思われたのですね?」
「…………」
「残念ですが、そんなものはありませんよ」
あまりにもあっさりとした答えだった。
クロイスは唖然とする。
「……では、なぜ……?」
最初から支配できたというのなら、わざわざルクサと聖霊を戦わせる必要などなかったはずだ。
それこそ、まったくの無駄ではないか。
理解できずにいるクロイスを前に、シトラスは頬へ人差し指を添えた。
少し考えるように首を傾げる。
そして――。
「だって、その方が面白いではありませんか」
にっこりと微笑んだ。
「…………!?」
「せっかくの遊戯を、すぐに終わらせてしまうなんて、もったいない」
その笑みには、先ほどまでの優雅さとは異なる、どこか邪悪なものが滲んでいた。
「それに、聖霊が命令を聞かなくなって動揺するあなたのお顔……」
そこで、くすりと笑った。
「とても傑作でしたよ」
ぞわり。
クロイスの背筋に、冷たいものが走った。
その瞬間、ようやく理解した。
最初から、弄ばれていたのだ。
ルクサを聖霊と戦わせていたことも。
こちらが優位に立っていると思わせていたことも。
そして、勝利を確信させたことさえも。
すべては、目の前の少女が楽しむために仕組んだ茶番だった。
自分はただ、彼女の手のひらの上で踊らされていたのだ。
「……イカれていますね」
思わず、言葉が漏れた。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
クロイスは必死に思考を巡らせた。
聖霊の支配権は、すでに奪われた。
他に召喚できる精霊はいない。
そして、自分自身にはまともな戦闘能力がない。
もはや、打つ手など残されていなかった。
(……逃げるしかない)
そう結論づけ、後ずさろうとした、その瞬間だった。
――かちり。
時計の音が響いた。
「――っ!?」
次の瞬間、右脚に凄まじい衝撃が走った。
バキッ!
骨の砕ける嫌な音が、会合室に響き渡る。
「ぐああああああっ!!」
絶叫とともに、クロイスはその場に崩れ落ちた。右脚は不自然な方向へ曲がっている。
「がっ……ああ……!」
激痛に顔を歪め、必死に身体を起こそうとする。
だが、脚に力が入らない。
額からは、冷や汗が止めどなく流れ落ちていた。
「どちらへ行かれるおつもりですか?」
シトラスの声が、優しく響いた。
「くっ……!」
クロイスは荒い息を吐きながら、床を這い始めた。
向かう先は、部屋の奥にある扉。
その先の階段を上れば、首領ジムグリがいる。
(……ボスなら!)
あの男なら、きっとこの女をどうにかしてくれるはずだ。
クロイスは、その一縷の望みに縋るように腕を伸ばした。
あと少し。
もう少しで、扉に――。
コツン。
目の前に、黒い靴先が現れた。
「…………」
クロイスの動きが止まる。
ゆっくりと顔を上げると、そこには金髪の少女が立っていた。
優雅な佇まい。
柔らかな微笑。
まるで、迷子になった子どもを迎えに来たかのような、穏やかな表情だった。
「駄目ですよ。アッシェの邪魔をしては」
「…………!」
クロイスの顔が引きつった。
完全に逃げ道を塞がれてしまった。
聖霊は奪われ、脚は折れ、自分には抵抗する手段すら残されていない。
もはや、どうすることもできなかった。
何もかもが、目の前の少女の思い通りだったのだ。
「この……悪魔め……!」
クロイスは憎悪を込めて吐き捨てた。
シトラスが、ぱちりと目を瞬かせる。
それから、ひどく心外そうに頬へ手を添えた。
「あらあら。失礼なことをおっしゃいますね」
その声は、どこまでも柔らかかった。
彼女の隣には、時計盤の顔を持つ聖霊が佇んでいる。
先ほどまでクロイスが誇っていた、絶対的な力。
それが今では、少女に従う忠実な僕となっていた。
シトラスは、そんな聖霊の腕をそっと撫でた。
そして、床に這いつくばるクロイスを見下ろす。
「私が悪魔だなんて……そんなわけないじゃありませんか」
にっこりと。
どこまでも愛らしく、無邪気に微笑んだ。
「私は、ただのメイドですよ」




