↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

30/31

30話 セルペンス掃討戦⑥

ルクサと聖霊《スピリット》の激しい攻防が、会合室の中で繰り広げられていた。


ルクサが床を蹴る。


身体強化魔法によって引き上げられた脚力が、その巨躯を凄まじい速度で押し出した。


一瞬にして間合いを詰めると、腰の刀を真横に薙ぎ払う。


鋭い一閃。


並の相手ならば、斬られたことにすら気づかず、その生涯を終えていただろう。


だが――刃は空を切った。


聖霊は、すでにそこにはいなかった。


――かちり。


時計の音が響く。


次の瞬間、異形の姿がルクサの背後に現れた。


移動したのではない。


まるで、その過程だけが最初から存在しなかったかのように、忽然と姿を現したのだ。


細く長い腕が振るわれ、無防備な背中へ拳が迫る。


しかし――。


ルクサの身体が、人間離れした速度で翻った。

身体強化魔法によって極限まで高められた反応速度が、不意の一撃への対応を可能にしたのだ。


ギィンッ――!


振り向きざまに繰り出した刀が、聖霊の拳を受け止めた。


凄まじい衝撃が走り、足元の石畳に亀裂が入る。


ルクサは受け止めた衝撃を利用して身体を回転させ、すかさず刀を斬り返した。


だが、聖霊の姿は再び消える。


――かちり。


背後。


ルクサが振り向くよりも早く、次の一撃が迫っていた。


それでも、身体を強引に捻りながら刀を引き戻し、背後から迫る拳の軌道へ刃を滑り込ませる。


ギィンッ――!


再び激しい衝突音が響いた。


「……変ですね」


二人の攻防を見つめていたクロイスは、わずかに眉をひそめた。


ルクサの実力は、よく理解している。


元傭兵として幾多の戦場を渡り歩いてきた経験。

身体強化魔法を駆使した神速の抜刀術。

そして、死線を越えることで磨き上げられた反応速度。


どれを取っても一流だ。


だが、それでもクロイスには解せなかった。


いくら身体強化魔法で反応速度を高めようと、限界はある。


対して、自分が使役する聖霊は違う。

移動に必要な時間も、攻撃に至るまでの過程も、すべてを省略する。

速い、遅いという次元の話ではないのだ。


攻撃の予兆すらない一撃に、いくらルクサといえど、そう何度も対応できるはずがない。


「お気づきになったようですね」


不意に、涼やかな声が響いた。


クロイスが視線を向けると、シトラスは変わらず優雅に微笑んでいた。


「私の魔法は、ただ相手を操るだけではありません。使役した者の魔力を高めることもできるんです。おかげで彼の身体強化魔法も、普段以上の力を発揮しているんですよ」

「……なるほど。道理で、あれほどの動きができるわけですか」


クロイスは眼鏡を押し上げ、静かに息を吐いた。


その間にも、ルクサと聖霊の激しい攻防は続いていた。


ルクサの刀が閃く。

その刃が届くよりも早く、聖霊の姿が消える。


次の瞬間には背後へ現れ、鋭い拳を繰り出す。


ルクサは身体強化魔法によって高められた反応速度を駆使し、辛うじてその猛攻を捌いていた。


「ですが――」


クロイスが静かに口を開く。


「いくら身体能力を高めたところで、勝敗は変わりませんよ」

「まあ。それは随分な自信ですね」

「ええ。どれほど強力な身体強化魔法を使おうと、ルクサさんは人間です。体力には限りがありますし、これだけ激しい戦闘を続けていれば、肉体への負担も相当なものでしょう」


クロイスは眼鏡を押し上げ、淡々と言葉を続けた。


「対して、僕の聖霊にそのような制約はありません」


そして、わずかに肩をすくめる。


「貴重な部下を失うのは、実に非効率的ですが……仕方ありませんね」


そう言って、指先をわずかに動かした。


かちり、かちり、かちり――。


それまで一定の間隔で進んでいた針が、突如として速度を上げた。


時計盤の針が目まぐるしく回転し始める。


次の瞬間、聖霊の姿が消えた。


「――ッ!」


ルクサの刀が閃く。


ギィンッ――!


鋭い金属音が響き渡った。


正面から迫った拳を、寸前で受け止める。


だが、反撃に移るよりも早く、聖霊の姿が再び消えていた。


――かちり。


右側。

咄嗟に刀を振るう。


ギィンッ!


――かちり。


今度は背後。


ルクサは身体を捻り、振り向きざまに刃を滑り込ませた。


ギィンッ――!


立て続けに衝突音が響く。


しかし、それで終わりではなかった。


右。

左。

背後。

正面。


聖霊は絶え間なく位置を変え、四方八方から容赦なく拳を繰り出してくる。


ルクサも刀を振るい、次々と襲いかかる攻撃を捌いていく。


しかし、いくら身体能力を強化しているとはいえ、休む間もなく続く猛攻に、次第に反応が追いつかなくなっていった。


そして、ついに――。


ドゴッ!


わずかに生じた隙を突かれ、漆黒の拳がルクサの胸元へ突き刺さった。


凄まじい衝撃に巨躯が仰け反る。


それでも踏みとどまり、反撃のために刀を振り上げた。


だが、その刃が届くよりも早く、聖霊の姿が消える。


――かちり。


次の瞬間には、ルクサの脇腹へ拳がめり込んでいた。


さらに背後から強烈な一撃が叩き込まれ、身体が前方へつんのめる。


そこからは、一方的だった。


聖霊は姿を消しては現れ、そのたびにルクサの身体へ容赦なく拳を叩き込んでいく。

反撃する暇も、防御を立て直す余裕もない。


それまで辛うじて拮抗していた戦況が、瞬く間に崩れていった。


そして――。


聖霊がルクサの正面へ現れた。


――かちり。


時計の音が響いた直後。


ドォンッ――!!


強烈な一撃が、ルクサの身体をまともに捉えた。


巨躯が宙を舞い、そのまま長机へ激突する。

厚い天板が真っ二つに割れ、椅子や木片を巻き込みながら、ルクサは石畳の上を転がっていった。


轟音が会合室に響き渡る。


やがて、辺りが静まり返った。


もうもうと立ち込める埃の向こう。


砕けた机の残骸に埋もれるように、ルクサがうつ伏せに倒れていた。

手から離れた刀が、乾いた音を立てて石畳を滑る。


その身体は、ぴくりとも動かなかった。


「本当に……」


クロイスは深いため息を吐いた。


「実に、無駄な損失です」


その声に、勝利を喜ぶ響きはない。


ただ、貴重な戦力を失ったことを嘆いているようだった。


クロイスはゆっくりとシトラスへ向き直る。


それに合わせるように、聖霊もまた、時計盤の顔を彼女へ向けた。


「さて。どうやら、あなたの奇策も失敗に終わったようですね」


クロイスは余裕の笑みを浮かべる。


「部下を操って戦わせるという発想は、なかなか面白いものでした。ですが、僕の聖霊とは相性が悪かったようですね」

「……そのようですね」


シトラスは、倒れ伏したルクサへ視線を向けた。


しばらくその姿を見つめたあと、小さく息を吐く。


「困りましたね。まさか、ここまで一方的にやられてしまうとは……」


先ほどまで浮かべていた余裕のある笑みが、わずかに薄れる。


その反応に、クロイスは満足げに目を細めた。


「ようやく、ご自分の置かれた状況を理解されたようですね。ですが、今さら命乞いをされても遅いですよ。あなた方のおかげで、こちらは随分と大きな損害を受けましたからね」


そこで、口元を歪めた。


「その代償は、きっちり支払っていただかなければ」

「…………」


シトラスは何も答えなかった。


ただ静かに目を伏せたまま、動こうともしない。


(……どうやら、万策尽きて心が折れてしまったようですね)


その様子を見て、クロイスは勝利を確信した。


もはや、これ以上の会話は必要ないだろう。


クロイスは軽く片手を掲げ、聖霊へ命令を下す。


「これで終わりです」


その言葉と同時に、聖霊の姿が消えた。


音はない。


ただ、結果だけが現れる。


次の瞬間、聖霊はすでにシトラスの眼前にいた。


細く長い腕が振るわれ、漆黒の拳が彼女の胸元へ迫る。


だが――。


「…………?」


その拳は、シトラスに触れる寸前で止まっていた。


ぴたり、と。


まるで見えない壁に阻まれたかのように、聖霊の動きが完全に停止していた。


「……おや?」


クロイスは眉をひそめた。


命令は確かに下したはずだ。


すぐさま自身の魔力を確認する。


先ほどルクサを戦闘不能に追い込むため、かなりの魔力を消耗していた。


しかし、魔力切れを起こしたわけではない。

その証拠に、召喚自体も問題なく維持できている。


(……ならば、なぜ止まった?)


「攻撃を続行してください」


改めて命令を送る。


だが、聖霊は動かない。


拳も、腕も、首も。わずかに揺れることすらなかった。


「……なぜ動かない?」


クロイスの表情から、徐々に笑みが消えていく。


(……おかしい)


こんなことは、これまで一度もなかった。


そもそも、契約を交わした聖霊が術者の命令に従わないなど、あってはならないことだ。


「……戻りなさい」


今度は、自分の元へ戻るよう指示を送った。


それでも、結果は同じだった。


聖霊はシトラスの前で静止したまま、ぴくりとも動かない。


「無駄ですよ」


不意に、柔らかな声が響いた。


クロイスが視線を向けると、シトラスは穏やかに微笑んでいた。


先ほどまでの困り果てた様子は、どこにもない。


まるで、こうなることを最初から知っていたかのような余裕すらあった。


「いくら命令しても、この子があなたの命令通りに動くことはありませんよ」

「……それは、どういうことですか?」

「だって――」


シトラスは、聖霊へそっと視線を向けた。


「あなたの聖霊は、もう私の配下にありますもの」「…………何?」


クロイスは、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。


「一体、何をおっしゃっているのですか?」

「そのままの意味ですよ」

「馬鹿な……! 契約済みの聖霊を、他者が使役するなど聞いたことがありません!」


思わず声を荒らげるクロイスとは対照的に、シトラスはどこまでも穏やかだった。


「まあ、理解できないのも無理ありません。特別に教えて差し上げますね」


そう言って、にっこりと微笑む。


「私の固有魔法は、少々特殊でして。使役できるのは、人間だけではないんです」

「……まさか」


クロイスの目が見開かれた。


その反応を見て、シトラスは嬉しそうに微笑む。


「ふふっ。お気づきになりました?」


そして、まるで何でもないことのように告げた。


「人も、獣も、魔物も、聖霊も……意思を持つ存在であれば、すべて私の支配下に置くことができます」


そう言って、まるで愛玩動物を撫でるように、聖霊の腕を優しく撫でた。


「もちろん、召喚魔法で呼び出された聖霊であっても、例外ではありませんよ」

「……嘘だ」


クロイスは呆然と呟いた。


そんな魔法が存在するなら、召喚士にとって天敵どころの話ではない。自らが召喚した戦力を奪われるなど、召喚魔法の根幹そのものを否定するようなものだ。


しかも、支配権を奪われたというのに、聖霊は今も顕現し続けている。


でたらめな魔法だった。


「……ですが、おかしい」


クロイスは息を整え、どうにか冷静さを取り戻した。


「本当に最初から僕の聖霊を支配できたのなら、なぜ今までそうしなかったのです? 最初から支配していれば、それで終わっていたはずです」

「ふふっ」


シトラスが小さく笑った。


「なるほど。何か特別な発動条件があると思われたのですね?」

「…………」

「残念ですが、そんなものはありませんよ」


あまりにもあっさりとした答えだった。


クロイスは唖然とする。


「……では、なぜ……?」


最初から支配できたというのなら、わざわざルクサと聖霊を戦わせる必要などなかったはずだ。

それこそ、まったくの無駄ではないか。


理解できずにいるクロイスを前に、シトラスは頬へ人差し指を添えた。


少し考えるように首を傾げる。


そして――。


「だって、その方が面白いではありませんか」


にっこりと微笑んだ。


「…………!?」

「せっかくの遊戯を、すぐに終わらせてしまうなんて、もったいない」


その笑みには、先ほどまでの優雅さとは異なる、どこか邪悪なものが滲んでいた。


「それに、聖霊が命令を聞かなくなって動揺するあなたのお顔……」


そこで、くすりと笑った。


「とても傑作でしたよ」


ぞわり。


クロイスの背筋に、冷たいものが走った。


その瞬間、ようやく理解した。


最初から、弄ばれていたのだ。


ルクサを聖霊と戦わせていたことも。

こちらが優位に立っていると思わせていたことも。

そして、勝利を確信させたことさえも。


すべては、目の前の少女が楽しむために仕組んだ茶番だった。


自分はただ、彼女の手のひらの上で踊らされていたのだ。


「……イカれていますね」


思わず、言葉が漏れた。


だが、今はそんなことを考えている場合ではない。

クロイスは必死に思考を巡らせた。


聖霊の支配権は、すでに奪われた。

他に召喚できる精霊はいない。

そして、自分自身にはまともな戦闘能力がない。


もはや、打つ手など残されていなかった。


(……逃げるしかない)


そう結論づけ、後ずさろうとした、その瞬間だった。


――かちり。


時計の音が響いた。


「――っ!?」


次の瞬間、右脚に凄まじい衝撃が走った。


バキッ!


骨の砕ける嫌な音が、会合室に響き渡る。


「ぐああああああっ!!」


絶叫とともに、クロイスはその場に崩れ落ちた。右脚は不自然な方向へ曲がっている。


「がっ……ああ……!」


激痛に顔を歪め、必死に身体を起こそうとする。


だが、脚に力が入らない。


額からは、冷や汗が止めどなく流れ落ちていた。


「どちらへ行かれるおつもりですか?」


シトラスの声が、優しく響いた。


「くっ……!」


クロイスは荒い息を吐きながら、床を這い始めた。


向かう先は、部屋の奥にある扉。


その先の階段を上れば、首領ジムグリがいる。


(……ボスなら!)


あの男なら、きっとこの女をどうにかしてくれるはずだ。


クロイスは、その一縷の望みに縋るように腕を伸ばした。


あと少し。


もう少しで、扉に――。


コツン。


目の前に、黒い靴先が現れた。


「…………」


クロイスの動きが止まる。


ゆっくりと顔を上げると、そこには金髪の少女が立っていた。


優雅な佇まい。


柔らかな微笑。


まるで、迷子になった子どもを迎えに来たかのような、穏やかな表情だった。


「駄目ですよ。アッシェの邪魔をしては」

「…………!」


クロイスの顔が引きつった。


完全に逃げ道を塞がれてしまった。

聖霊は奪われ、脚は折れ、自分には抵抗する手段すら残されていない。


もはや、どうすることもできなかった。


何もかもが、目の前の少女の思い通りだったのだ。


「この……悪魔め……!」


クロイスは憎悪を込めて吐き捨てた。


シトラスが、ぱちりと目を瞬かせる。

それから、ひどく心外そうに頬へ手を添えた。


「あらあら。失礼なことをおっしゃいますね」


その声は、どこまでも柔らかかった。


彼女の隣には、時計盤の顔を持つ聖霊が佇んでいる。


先ほどまでクロイスが誇っていた、絶対的な力。

それが今では、少女に従う忠実な僕となっていた。


シトラスは、そんな聖霊の腕をそっと撫でた。


そして、床に這いつくばるクロイスを見下ろす。


「私が悪魔だなんて……そんなわけないじゃありませんか」


にっこりと。


どこまでも愛らしく、無邪気に微笑んだ。


「私は、ただのメイドですよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。