28話 セルペンス掃討戦④
アッシェは、アジトの最深部へ辿り着いた。
最奥にある扉だけは、これまで通ってきた無骨なものとは明らかに違っていた。
重厚な木製の扉には金の装飾が施され、蛇を模した取っ手には大粒の宝石まで埋め込まれている。
アッシェが扉を押し開けた瞬間、鼻につくほど濃い香の匂いが流れ出した。
その先に広がっていたのは、これまでの薄暗く湿った通路とは、まるで別世界のような空間だった。
床一面に敷かれた深紅の絨毯。
壁を飾る高価そうな絵画。
天井には、無数の魔石を埋め込んだ豪奢なシャンデリアが吊るされている。
棚には酒瓶や宝飾品、異国の壺が並び、部屋の奥には巨大な金庫が鎮座している。
持ち主の富を見せつけるためだけに作られたような、悪趣味極まりない部屋だった。
アッシェは室内を静かに見渡した。
だが、その豪華さに心を動かされることはなかった。
この部屋を満たす富が、どのようにして築かれたものなのかを知っているからだ。
リオネルの通りで借金取りに殴られていた店主。
商売を奪われ、スラムへ追いやられた人々。
そして、病の妹を守るために必死に生きていた少年。
彼らのような人々から奪い取った金が、こうして贅沢品へと姿を変えている。
そう思うと、目の前の豪奢な空間は、ただの悪趣味な墓場にしか見えなかった。
その中央に、一人の男が座っていた。
スキンヘッドの中年男だった。
顎には綺麗に整えられた髭をたくわえ、口元には傲慢な笑みが浮かんでいる。
太い指には宝石を嵌め込んだ指輪がいくつも光り、腕には金のブレスレット。首元には、品の悪いほど太い金鎖が巻きついていた。
着ている服も上等なものなのだろう。
だが、どれだけ高価な品で身を飾ろうとも、男の下品さを隠すことはできていなかった。
セルペンスの首領――ジムグリ。
リオネルの街を裏から蝕み、商人たちを食い物にしてきた男だった。
「あなたが、ジムグリね?」
アッシェの声が、静かな室内に響いた。
ジムグリは椅子にふんぞり返ったまま、ゆっくりと顔を向ける。
その目に警戒の色はない。
ただ、見知らぬ小娘が突然現れたことを、少し不思議に思っている程度だった。
「なんだ、嬢ちゃん」
ジムグリはにたりと笑った。
「返済の相談か? それとも、支払いを待ってほしいって泣きつきに来たのか?」
指輪だらけの指で、肘掛けをとん、と叩く。
「わざわざこんなところまで来るたあ、よっぽど切羽詰まってんだな」
「残念だけど、違うわ」
アッシェは淡々と答えた。
「ここには、あなたを始末しに来たの」
「…………」
一瞬、沈黙が落ちた。
それから。
「くっ、くくく……」
ジムグリの肩が震え始める。
「はははははっ!」
下品な笑い声が、豪奢な部屋に響き渡った。
「俺を始末だぁ? メイドの嬢ちゃんが?」
ジムグリは腹を抱えて笑う。
「おいおい、こいつは傑作だ! ずいぶん物騒なことを言うじゃねえか!」
ひとしきり笑ったあと、ジムグリは椅子から身を乗り出した。
「それで? 俺に何の恨みがあるってんだ?」
「あなたを恨んでいる人間なら、そこら中にいるでしょう?」
「はっ、違いねえな」
ジムグリは愉快そうに口元を歪めた。
「もしかして、店を潰された商人の娘か?」
それから、思いついたように手を打つ。
「ああ、それとも借金を返せなくて、身内でも売られちまったか?」
にたり、と笑う。
「悪いな。心当たりが多すぎて、いちいち覚えてねえんだ」
アッシェは、その言葉を黙って聞いていた。
「自分が小悪党だという自覚はあるのね」
「小悪党とはひでえな」
ジムグリは大げさに肩をすくめる。
「これはビジネスだぜ?」
さも当然のように言い放った。
「俺だって慈善事業で金を貸してるわけじゃねえんだ。借りたものは返す。当たり前のことだろ? 返せねえなら、何を取られたって文句は言えねえよな」
悪びれる様子はまるでなかった。
ジムグリは宝石だらけの指をひらひらと動かし、得意げに笑った。
「そもそも、金を借りなきゃいいだけの話じゃねえか」
アッシェは冷ややかな視線を向けた。
「……それだけじゃないでしょう?」
「あ?」
「交易路を通る商人を、野盗に扮して手下に襲わせているわね?」
ジムグリの笑みが、一瞬だけ止まった。
だが、それも束の間だった。
「へえ」
愉快そうに口角を吊り上げる。
「よく知ってるじゃねえか」
否定する素振りすらない。
「だが、それだって同じことだ。荷を奪われるのは、そいつらが弱えからだ。奪われたくなきゃ、護衛でも雇えばいい」
「…………」
「弱え奴は奪われる。強え奴が奪う。ただそれだけの話だろ?」
そう言って、ジムグリは愉快そうに笑った。
その態度からは、罪悪感など微塵も感じられない。
どれほど多くの人間の人生を踏みにじろうとも、目の前の男にとっては些細なことなのだろう。
アッシェは静かに息を吐いた。
これ以上、言葉を重ねる必要はない。
「そう」
短く答え、一歩前へ出る。
「だったら、私に奪われても文句は言えないわね」
ジムグリの笑みが、ぴたりと止まった。
「……なに?」
「弱い者が奪われる。それがあなたの理屈なのでしょう?」
アッシェはすっと右手を掲げた。
その手のひらに、白銀の紋章が浮かび上がる。
「なら、遠慮はいらないわね」
紋章が眩い光を放った。
ジムグリが怪訝そうに眉をひそめる。
「なんだ、その光――」
「――『炎の刻印』」
次の瞬間、アッシェの右手から灼熱の炎が噴き出した。
轟ッ――!!
炎は深紅の絨毯を焼き裂きながら、一直線にジムグリへ襲いかかる。
突然の攻撃に反応する暇もなく、その巨体は炎に呑み込まれた。
凄まじい熱風が室内を駆け抜け、シャンデリアが激しく揺れる。
紅蓮の炎はジムグリを椅子ごと包み込み、周囲の絨毯を黒く焦がしていった。
やがて炎が収まり、濃い煙が天井へと立ち昇る。
間違いなく、直撃していた。
だが、アッシェは妙な違和感を覚えた。
苦痛に悶える声も、椅子から転げ落ちる音も聞こえてこない。
煙の向こうに見える人影は、先ほどと同じ姿勢のまま動いていなかった。
やがて、白煙が薄れていく。
「……おいおい」
聞こえてきたのは、苦痛の声ではなく、呆れたような声だった。
ジムグリは、何事もなかったかのように椅子に腰かけていた。
上着は黒く焦げ、椅子の肘掛けも焼け落ちている。
周囲の絨毯には大きな焦げ跡が広がっていた。
だが、ジムグリ本人には火傷ひとつない。
「いきなり何しやがる」
ジムグリは焦げた袖をつまみ上げ、不機嫌そうに顔をしかめた。
「これ、特注品なんだぞ。仕上げるのに、いくらかかったと思ってんだ?」
命を狙われたことよりも、服を燃やされたことに腹を立てているらしい。
アッシェは、そんなジムグリをよそに、先ほどの攻撃を振り返っていた。
(無傷……)
炎は確実に命中していた。
防御結界に阻まれた様子もない。
衣服や椅子が焼けている以上、炎そのものを無効化したわけでもなさそうだ。
にもかかわらず、ジムグリの身体には火傷ひとつない。
(炎への耐性……それとも、回復魔法?)
他にもいくつか可能性は考えられるが、今の一撃だけでは判断できない。
ならば、もう一度試せばいい。
アッシェの右手に、再び白銀の紋章が浮かび上がった。
「おい、聞いてんのか? 服だけじゃねえ、椅子も絨毯も焦げてるじゃねえか! これ、全部――」
轟ッ!
ジムグリの言葉を遮り、灼熱の炎が放たれた。
一発目が巨体を呑み込む。
続けざまに二発、三発と炎が襲いかかり、ジムグリの姿をたちまち覆い隠した。
「てめえ、いい加減に――!」
その怒鳴り声も、四発目の炎に掻き消される。
轟音とともに炎が膨れ上がり、室内が紅蓮の光に染まった。
だが、アッシェは闇雲に攻撃しているわけではない。
その目は、炎に包まれたジムグリの魔力を注意深く追っていた。
攻撃が命中した瞬間、魔力にどのような変化が生じるのか。
そして、その魔力はどこへ流れていくのか。
アッシェは炎を放ちながら、何が起きているのか見極めようとしていた。
そして――。
ぴきり。
炎の爆ぜる音に紛れて、小さな破砕音が聞こえた。
(……今のは)
アッシェの瞳が細くなる。
同時に、ジムグリの魔力が一瞬だけ膨れ上がった。
やがて炎が収まり、煙が薄れていく。
ジムグリは、やはり無傷だった。
ただし、先ほどとは違う点がある。
「あー……くそっ!」
ジムグリが右手を持ち上げた。
その指に嵌められていた指輪の一つが、砕けていたのだ。
大粒の宝石には無数の亀裂が走り、細かな破片が指の隙間から零れ落ちている。
「ああ、ちくしょう……! やりやがったな、このイカれた小娘が!」
ジムグリは砕けた指輪に目を落とし、忌々しげに舌打ちした。
だが、すぐに右手を握り込み、指輪を隠すようにして顔を上げる。
アッシェは、その不自然な仕草を見逃さなかった。
(砕けた指輪を隠した……?)
アッシェは先ほどの攻撃を思い返す。
炎が命中した瞬間、ジムグリの魔力に変化が生じていた。そして、その直後に指輪が砕けた。
攻撃を防ぐ魔道具の一種か?
それとも固有魔法か?
アッシェが思考を巡らせていると、ジムグリが不意に口を開いた。
「ったく、最悪だぜ。お前、一体誰に雇われたんだ?」
「答えると思う?」
「まあ、そう言うなって。提示された依頼料の倍は出す。それでどうだ?」
ジムグリは、取り繕うように笑みを浮かべた。
「こっちとしても、これ以上暴れられるのはごめんなんだよ」
「無駄な相談ね」
アッシェは冷たく答えた。
「あなたたちは、ここで潰す」
「……ちっ、仕方ねえな」
交渉の余地がないと悟ったのか、ジムグリは深いため息を吐いた。
「こうなりゃ、多少の出費は覚悟するしかねえか」
そう言って、右手に嵌めていた別の指輪を外す。
大粒の茶色い宝石が嵌め込まれた、重厚な金の指輪だった。
ジムグリはそれをしばらく眺め、名残惜しそうに眉を寄せる。
「こいつも、結構気に入ってたんだがな……」
未練を断ち切るように小さく息を吐くと、指輪を握り込んだ。
「――供犠」
その瞬間、握り締めた拳の隙間から淡い光が漏れ出した。
ぴしり、と何かが砕ける音がする。
ジムグリがゆっくりと手を開くと、そこには指輪の姿はなかった。
残されていたのは、無数の光の粒だけ。
それもすぐに、空気へ溶けるように消えていく。
同時に、ジムグリの魔力が急激に膨れ上がった。
(……指輪を砕いた?)
アッシェは目を細める。
先ほどは攻撃を受けた直後に指輪が砕けた。
しかし今回は、自ら魔法を発動させ、指輪を消滅させている。
そして、その直後に魔力が急激に増大した。
どうやら、この男の魔法は、指に嵌めた指輪を力の源にしているようだ。
「これ以上の被害を抑えるための必要経費だ。こいつは高くつくぞ、嬢ちゃん」
ジムグリは忌々しげに吐き捨てると、右手を突き出した。
その手のひらに、濁った茶色の魔力が集まり始める。
粘つく泥のような魔力が渦を巻き、次第に一つの塊へと凝縮されていく。
密度が増すにつれて周囲の空気が軋み、やがて巨大な砲弾のような形を成した。
「受け取れ!」
次の瞬間、魔力弾が放たれた。
凄まじい勢いで床を抉り、焦げた絨毯を吹き飛ばしながら、濁った砲弾が一直線にアッシェへ迫る。
アッシェは即座に右手を掲げた。
「――『守りの刻印』」
手のひらに白銀の紋章が浮かび上がる。
そこから幾重もの光の紋様が広がり、アッシェの前方に防御結界を形成した。
直後、魔力弾が激突する。
ドォンッ――!!
凄まじい衝撃が、部屋全体を震わせた。
天井のシャンデリアが大きく揺れ、棚に並んでいた酒瓶や骨董品が次々と落下する。
絨毯がめくれ上がり、砕けた硝子片が床一面に散らばった。
「……っ!」
アッシェの身体が、わずかに後方へ押し込まれる。
予想以上の威力だった。
それも、ただの魔力弾ではない。
巨大な岩塊を押しつけられているかのような圧力が、防御結界へ容赦なく食い込んでくる。
(重い……!)
アッシェは右手に魔力を集中させ、結界の強度を引き上げた。
白銀の紋様が輝きを増す。
しかし、魔力弾の勢いは衰えない。
ぴきり。
結界の表面に亀裂が走った。
アッシェがさらに魔力を注ぎ込むが、亀裂は瞬く間に枝分かれし、結界全体へ広がっていく。
そして――。
パァンッ!!
防御結界が砕け散った。
白銀の光と濁った魔力が入り混じり、凄まじい爆発が巻き起こる。
衝撃が部屋中に広がり、壁に飾られていた絵画が次々と床へ落ちていく。
やがて轟音が収まり、室内は濃い煙に包まれた。
「はっ、どうだ!」
ジムグリが勝ち誇ったように笑う。
「これだけの魔力をぶち込んだんだ! ひとたまりもねえだろ!」
しかし、煙が薄れるにつれ、その笑みは徐々に消えていった。
「……マジかよ」
煙の向こうに、アッシェが立っていた。
爆風で髪や衣服はわずかに乱れているものの、大きな負傷は見当たらない。
ただ、頬にだけ細い傷が走っていた。
そこから流れた赤い血が、白い肌を伝って落ちる。
アッシェは指先で血を拭うと、何事もなかったかのようにジムグリを見据えた。
「……今のを食らって、立ってやがるのか?」
ジムグリの声には、隠しきれない驚きが滲んでいた。
それなりの価値がある指輪を犠牲にしたのだ。
並の魔法士でも、跡形もなく吹き飛んでいてもおかしくない。
それなのに、目の前の少女は平然と立っている。
アッシェが静かに口を開く。
「あなたの魔法。その指輪が関係していたのね」
ジムグリの眉が、ぴくりと動く。
「私の攻撃を受けても、あなた自身は無傷だった。けれど、その直後に指輪が砕けていた」
アッシェは、ジムグリの右手へ視線を向ける。
「そして今度は、自ら指輪を消費して魔力を増幅させた」
「…………」
「つまり、指輪を代償に、受けるダメージを無効化したり、攻撃に利用したりできる。そんなところかしら?」
ジムグリの顔から、笑みが消えた。
「……ちっ」
忌々しげに舌打ちする。
「めんどくせえ相手だぜ」
その反応から、アッシェは自分の推測が的を得ていることを確信した。
だが、まだ分からないこともある。
代償にできるのは指輪だけなのか。
それとも、ほかの装飾品でも構わないのか。
そして、品物の価値によって魔法の効果はどこまで変わるのか。
アッシェは一瞬だけ、ジムグリの背後にある巨大な金庫へ視線を向けた。
もし、この部屋にある財宝まで魔法の代償にできるのだとしたら、相当厄介な相手になるだろう。
「……おい」
ジムグリの低い声が、思考を遮った。
「お前、本当に何者だ? なんで、そんな戦い慣れしてやがる?」
その目には、先ほどまでの侮りはなかった。
アッシェは静かに答える。
「私はメイドよ」
「……は?」
「ただ――あなたのようなゴミを掃除するのも、私の仕事なの」
「はっははは!」
ジムグリは声を上げて笑った。
「ふざけた女だ。どこの世界に、そんな物騒なメイドがいるってんだよ」
ひとしきり笑うと、ふと何かを思いついたように、アッシェを頭から足元まで眺めた。
「……待てよ。これだけ腕が立つうえに、その顔だ。売り飛ばせば、相当な値がつくんじゃねえか?」
ジムグリの口元に、下卑た笑みが浮かぶ。
「そうすりゃ、失った指輪の代金も、この部屋の修繕費も十分に取り戻せる。はっ、悪くねえ話だ」
アッシェは、そんな男を冷ややかに見据えた。
どこまでいっても、この男の頭にあるのは金のことばかりらしい。
「残念だけど、あなたが手に入れられるものは何もないわ」
アッシェは静かに右手を掲げた。
その手のひらに、再び白銀の紋章が浮かび上がる。
「あなたが奪ってきたものも、積み上げてきたものも、すべてここで終わりよ」
紋章が、強い輝きを放ち始めた。
そして、アッシェは最後の宣告を下す。
「ここに残るのは、あなたの屍だけよ」




