22話 黒雷のルクサ②
鞘走る刃が、アッシェの白い喉元へ一直線に迫った。
だが――届かない。
ガキンッ!
硬質な音が、森の中に鋭く響いた。
「なっ……!」
ルクサの目が見開かれる。
手に返ってきたのは、肉を裂く感触ではなかった。
硬い壁を斬りつけたような、鈍い衝撃。
刃は、アッシェの首筋に触れる寸前で止まっていた。
見えない何かに、完全に阻まれている。
ルクサは即座に後方へ跳んだ。
その場に留まらず距離を取り、近くの木の陰へ半身を隠す。
防御魔法か。
いや、違う。
詠唱も、魔力を放つ動きも見えなかった。
少なくとも、自分が斬り込んだ瞬間には、すでに防御が完成していた。
常時展開型か。
それとも、攻撃に反応して自動で発動する類か。
思考を巡らせながらも、ルクサは再び構えた。考えているだけでは、状況は悪くなる一方だ。
正面が駄目なら、背後。
見えない壁であろうと、全方位を完璧に防げるとは限らない。
どこかに隙があるはずだ。
ルクサは再び地を蹴る。
今度は真っ向からは向かわない。
木の幹を蹴り、横へ跳び、アッシェの視界から外れるように回り込む。
一瞬で背後へ滑り込むと、腰の剣を引き抜いた。
背後からの一閃。
ガキンッ!
再び、硬質な音が響いた。
「くそっ……!」
刃が弾かれ、手首に痺れが走る。
まただ。
だが、今回ははっきりと見えた。
刃が届く直前、アッシェの周囲に薄い紋様が一瞬だけ浮かんだ。淡い白銀の線が、彼女を囲む膜のように走り、ルクサの一撃を受け止めていた。
目に見えない何かが、彼女を守っている。
それも、正面だけではない。背後からの攻撃すら、当然のように弾いた。
「満足した?」
アッシェは、振り返りもせずに言った。
その声は静かだった。
だが、そこには、「何をしても無駄だ」と告げるような冷たさがあった。
「あなたの剣では、私には届かないわ」
見下すような言葉だった。
けれど、挑発には聞こえなかった。
ただ事実を告げているだけ。その響きが、ルクサの神経をさらに逆撫でする。
「……化け物が」
低く吐き捨てる。
屈辱的だった。
だが、それ以上に、冷静な判断が告げていた。
どうやっても、この女には勝てない。
魔法の正体を見破らない限り、刃は届かない。
そのうえ、遠くには姿の見えない狙撃者がいる。
部下はすでに使い物にならない。
まともに動けるのは、自分だけ。
このまま戦えば、確実に死ぬ。
ならば、今選択すべきは一つ。
撤退だ。
ルクサは一瞬だけ、狙撃者がいるであろう崖の方角へ視線を走らせた。そして次に、背後の森へ意識を向ける。
狙撃の射線を外し、木々の影に紛れる。同時に、白銀の女の魔法の射程からも逃れる。
逃げ切れる保証はない。だが、ここに留まるよりはましだった。
そう判断した瞬間、ルクサは地を蹴った。
狙撃者とは逆の方角へ。木々が深く重なり、闇の濃い森の奥へ。
その瞬間だった。
「逃がさないわ」
背後から、アッシェの冷たい声が落ちた。
「――『重力の刻印』」
次の瞬間、ルクサの足元に白い紋章が走る。
「……っ!?」
踏み出した足が、地面に縫い止められた。
身体が急激に重くなる。
見えない重しを背負わされたように膝が沈み、前へ進むどころか、その場に押さえつけられる。
「くっ……!」
ルクサは歯を食いしばり、全身に力を込めた。
身体強化の魔力を脚へ流し込み、強引に踏み出そうとする。
だが、足は動かない。
まるで大地そのものに掴まれたかのように、重力が彼の身体を押さえ込んでいた。
何なんだ、この魔法は。
拘束。
防御。
重力。
性質の異なる魔法を、まるで当然のように使い分けている。
固有魔法が一つではないのか。
それとも、すべて同じ魔法体系の応用なのか。
考えても、答えは出ない。
アッシェが、静かに近づいてくる。
白銀の髪が、薄暗い森の中で淡く揺れていた。足元に転がる死体にも、広がる血溜まりにも、何の関心も払わない。
まるで、すでに終わった掃除の跡を踏み越えるような足取りだった。
その姿を見て、ルクサははっきりと悟る。
目の前の女は、自分の理解を超えた存在だ。
地面に縫い止められたまま、ルクサはどうにか重い口を開いた。
「俺を……どうするつもりだ」
「組織について知っていることを、話してもらうわ」
アッシェは足を止めずに答えた。
その声は、ただ決まっていることを告げているだけのようであった。
「無駄なことだ」
ルクサは、吐き捨てるように言った。
「悪いが、俺は殺されても口を割らんぞ」
「そう」
アッシェは興味なさそうに呟いた。
「だといいわね」
その一言に、ルクサの表情が強張る。
その時だった。
森の奥から、軽やかな足音が聞こえた。
血の匂いに満ちた森には似つかわしくない、気品ある歩調だった。
踏み荒らされた草の上を歩いているはずなのに、その足取りには乱れがない。
やがて、木々の影からもう一人の人物が姿を現した。
黒いフード付きのローブをまとった女だった。その立ち姿には、不思議なほど優雅な空気がある。
女はアッシェの傍らまで歩み寄ると、ゆっくりとフードを外した。
長く流れる金髪。毛先には、ゆるやかな巻きがかかっている。
整った顔立ちに、柔らかな微笑。
気品のある姿は、どこか貴族令嬢を思わせた。
だが、ルクサは本能的に息を呑む。
優しげな笑みの奥。
その瞳のさらに深い場所に、得体の知れない危うさが沈んでいる。
決して近づいてはいけないもの。
ルクサの本能は、そう告げていた。
「お疲れさまです、アッシェ」
金髪のメイドは、アッシェに向かって優雅に一礼した。
「こっちは終わりよ。あとの処理は任せるわ」
「ええ。お任せください」
シトラスは穏やかに答えると、ルクサへ視線を向けた。
その笑みは、どこまでも柔らかい。けれど、ルクサには分かった。
あれは、慈しみの目ではない。蜘蛛の巣にかかった獲物を、静かに見下ろすような目だった。
シトラスが、少しずつこちらに近づいてくる。
距離が近づくほど、甘い香りにも似た魔力が、空気の中へ静かに滲んでいく。
柔らかく、穏やかで、けれど底の方に危ういものを孕んだ気配だった。
ルクサの喉が、わずかに鳴る。
逃げなければならない。
そう思っても、身体は重力に縫い止められたまま動かない。
足を引こうとしても、膝が軋むだけだった。
そんな強張った彼を安心させるように、シトラスはやさしく目を細めた。
「ご安心ください」
その声は、ひどく穏やかだった。
「苦痛はありません。ただ、素敵な夢を見るだけです」
甘く、耳に絡みつくような声だった。
聞いているだけで、意識の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
ルクサは反射的に舌を噛もうとした。痛みで意識を繋ぎ止めるために。
だが、すべてが手遅れだった。
シトラスの身体が、淡い金色の光を帯びる。
その瞳の奥にも、同じ色の光が静かに灯った。
「――『使役する者』」
金色の光が、ルクサの視界を覆う。
咄嗟に抵抗を試みる。
歯を食いしばり、意識を繋ぎ止めようとする。
だが、抗えない。
思考が、ゆっくりと暗い闇の中へ沈んでいく。
「く……そ……」
最後に見えたのは、冷たく見下ろす白銀のメイドと、優しく微笑む金髪のメイドだった。
まるで死神と天使が、並んで自分を見下ろしているようだった。
ルクサの意識は、そこで途切れた。




