2話 不穏な朝食
身支度を終えたディクトを伴い、アッシェは食堂へ向かった。
朝の廊下はひんやりと冷え、窓から差し込む光だけが、やけに澄んで見える。
広い食堂の中央には、長いテーブルが据えられていた。
その一角には、すでに一人分の朝食が整えられている。
焼きたてのパンの香り。
白い湯気を立てるスープ。
艶やかな果実に、整然と並べられた銀のカトラリー。
王族の食卓としては、何ひとつ不足のない支度だった。
「おはようございます、ディクト王子」
ディクトを出迎えたのは、白髪を端正に整えた長身の老人だった。
老いを感じさせない、ぴんと伸びた背筋。
穏やかな笑みの奥には、国を支える鋼のような芯が覗いている。
宰相、カドラス・スタイン。
古くから王家に仕え、先王亡き後は、事実上の国政を一身に担ってきた人物だ。
王城の者は皆、彼を敬い、その言葉を重く受け止めている。
この国の「脳」と呼ばれる所以だった。
「ああ、じいや。おはよう」
ディクトは気軽に返し、そのまま椅子へ腰を下ろした。
所作だけを見れば、どこまでも優雅で、王子らしい。
アッシェがその背後に控え、銀のポットを傾ける。
琥珀色の紅茶が、波紋ひとつ立てずにカップを満たしていった。
カドラスは一歩進み、恭しく頭を下げる。
「王子。本日ですが――昼過ぎに、コーネル伯爵がお見えになります」
「コーネル伯爵……。最近、よく名前を耳にするよ」
「はい。非常に有望な男です。近頃は多額の税を納めており、わが国に大いに貢献しております」
カドラスの声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
その表情にあるのは、権力者に取り入ろうとする者の打算ではない。
国に利益をもたらす者が現れたことを、心から喜んでいるのだ。
「その功績を認め、現在は“不毛”と呼ばれていた新領地の運営も一任しております。本日はその中間報告にいらっしゃいます」
ディクトはスープを一口含み、穏やかに頷いた。
「へえ。良い報告が聞けるといいね」
「きっと聞けましょう。彼のような有能な者が増えれば、この国の未来も明るくなります」
カドラスは、力強く頷いた。
民の暮らしを案じ、王家を支え、国の未来を信じている。
その想いに、曇りはない。
だからこそ、その真っ直ぐさが、どこか痛々しく見えた。
「ああ、そうだ」
ディクトは、ふと思いついたようにスープを匙で掬った。
「伯爵は、遠方から来るんでしょ。今夜は、城に泊まってもらおうよ」
「おお……」
カドラスの目元が、感嘆に緩む。
「なんと行き届いたお心遣いでしょう。伯爵も、感激いたしましょう。では、すぐに手配を――」
「客室の準備は、アッシェに任せるよ」
名を呼ばれ、アッシェは静かに一礼した。
「承知いたしました」
「あとの細かいことは、じいやに任せる。僕もしっかり挨拶するよ」
「もちろんです、ディクト王子。この宰相カドラスにお任せください」
カドラスは胸に手を当て、満足げに頷いた。
それから、伯爵を迎える支度のために、足取りも軽く食堂を後にする。
扉が閉まり、食堂には二人だけが残された。
焼きたてのパンの香り。紅茶から立ち昇る、細い湯気。
つい先ほどまで国の明るい未来が語られていた場所とは思えないほど、食堂は静まり返っていた。
ディクトは閉ざされた扉をしばらく眺めたあと、ふっと息を吐いた。
「ホント、じいやって真面目だよね」
「王国のために、長年尽力されてきたお方ですから」
「真面目で、善良で――人を疑うことを知らない」
ディクトは紅茶を一口飲む。
その声音に、カドラスを嘲るような響きはなかった。むしろ、ほんのわずかに呆れているようにも聞こえる。
「だけど」
カップ越しに、ディクトの視線がアッシェへ向けられる。
「人を信じすぎると、どこかで足を掬われる」
一拍置いて、口元に淡い笑みを浮かべた。
「君だって、そう思うだろ?」
かちゃり、とカップが皿に置かれる。
アッシェは何も答えない。ただ銀のポットを手に取り、冷めかけた紅茶を静かに注ぎ足す。
そして、今日の仕事が滞りなく進むことを、頭の中で静かに確認していた。




