完璧なメイドと悪魔な王子
王城の一角、豪奢な扉の前。
メイド長アッシェ・レベンケは静かに立っていた。
静寂を破るのは、規則正しい三度の音。
トン、トン、トン――。
その指先に迷いはない。
礼儀も、力加減も、寸分の狂いもない。
「失礼いたします。王子」
返事はない。
それもまた、いつものことだった。
「……はあ」
周囲に人の気配がないことを確認すると、アッシェはほんのわずかに肩の力を抜いた。
それも一瞬のこと。
すぐに表情を整え、重厚な扉へと手をかける。
本来、いかにメイド長とはいえ、王族の寝室に無断で踏み入るなど許されない。
首が飛んでも文句は言えぬ不敬だ。
だが――アッシェだけは違った。
重い扉が、低く軋んだ。
「おはようございます。ディクト王子。本日も素晴らしい天気ですよ」
返事を待たず、アッシェは室内へ踏み入る。
淀みのない足取りで部屋を横切り、まっすぐ窓辺へと向かう。
その足取りは静かで、絨毯の上を影のように進む。
やがて窓辺に立つと、金糸で縁取られた厚手のカーテンを左右に引き絞った。
バサリ。
溢れ出した陽光が、薄暗かった部屋を一気に照らし出す。
天蓋付きのベッド。
絹布を幾重にも重ねた寝具。
香炉から漂う甘い香り。
王族の寝室にふさわしい豪奢さだった。
ーーただし、その中心にいる人間の品性だけはひどく歪んでいた。
「うん……でも、まだ眠いよ、アッシェ」
ベッドの主から、毒気のない、どこか間の抜けた声が返ってきた。
この国の王子であるディクト・ベネグ・エットルムは、最高級の羽毛布団を頭まで被り、まるで亀のように丸まっている。
(やっぱり、起きてる……)
アッシェは、これから始まる朝の一幕を思い、ほんのわずかに目を伏せた。
だが、それも一瞬。
次に顔を上げたときには、すでに隙のないメイド長の表情を取り戻している。
彼女はベッドの傍らへと歩み寄り、あえて事務的に声をかけた。
「王子、起きてください。せっかくの朝食が冷めてしまいますよ」
返事を待つ時間すら、彼女は惜しまない。
アッシェは容赦なく布団の端を掴み、一気に剥ぎ取った。
「――っ!」
ディクトが顔を出す。
乱れた黒髪が陽光を受け、その容姿だけを見れば絵画から抜け出してきた貴公子のようだ。
目鼻立ちは整い、肌は白く、睫毛は長い。
まるで、神が戯れに作った彫刻だ。
――外見だけは無駄に良い。
「ああ、分かったから、そんなに怖い顔をしないでよ」
珍しく素直に起きたかと思えば、ディクトの唇の端には、いつもの悪趣味な笑みが浮かんでいた。
アッシェが最も嫌悪し、そして最も警戒している表情だった。
「そんなに起きてほしいなら、相応の対価が必要でしょ?」
アッシェは、ずきりと痛むこめかみを指で押さえた。
また始まった。
ディクトは、感情を削ぎ落としたようなアッシェの顔をじっと見つめていた。
その視線は、愛玩具を眺める子どものようでいて、獲物の反応を確かめる捕食者のようでもあった。
やがて、何かを思いついたように口元を歪める。
「そうだ。胸をもんだら、完全に目が覚める気がする」
「……はあ、畏まりました。王子」
あまりに下俗で、悪趣味な戯れ。
アッシェは心の底から深いため息を吐き出すと、ベッドの傍らへ歩み寄った。
淑女のそれよりも美しい所作で一礼し、抵抗の意思を見せぬまま、ただ淡々と腰を下ろす。
そこに、恥じらいはない。
アッシェは感情を静かに沈め、呼吸を整える。
それは魔法学園で最初に叩き込まれた精神統制だった。
魔法を扱う者にとって、感情の乱れは術式の乱れに直結する。
だが今のアッシェにとって、その技術は別の意味を持っていた。
波立つ感情を均し、心を凪へ戻していく。
ディクトの手が伸びる。
アッシェは目を伏せない。
ただ視線を一点に固定し、何も感じていないかのように表情を消した。
触れられているという事実だけが、服越しに残る。
だが、そこに男の熱はなかった。
欲望の荒さも、愛情の欠片もない。
ディクトの瞳は、ひどく冷めていた。
まるで人形の反応を確かめる子どものように、ただアッシェの表情を観察している。
だからこそ、たちが悪い。
これは欲望ではない。
彼女を女として求めているわけでもない。
ただ、彼女がどこまで表情を崩さずにいられるのかを眺めている。
明白な悪意だった。
(……本当に、何が楽しいのかしら)
胸の奥に湧いたのは、怒りというより、底の見えない疑問だった。
この男は、何を見ているのか。
何を確かめているのか。
「……王子。よろしいですか」
「ん? どうしたの、アッシェ。もっと強くしてほしいの?」
揶揄するような声音。
軽い口調。
けれど、その奥にはこちらの反応を逃すまいとする冷たい視線があった。
アッシェは喉元まで出かかった言葉を、静かに飲み下す。
「いえ。……何でもございません」
問いかけたところで、まともな答えなど返ってこない。
返ってくるのはきっと、人を食ったような冗談か、核心をわざと逸らした嘲笑だけだ。
最初は、屈辱もあった。
怒りもあった。
羞恥も、抵抗も、確かにあった。
けれど、それらは何度も踏みにじられるうちに、少しずつ形を失っていった。
そして何より――。
この屈辱すら、彼女が交わした契約の一部だった。
アッシェは、歴史ある名門貴族の生まれだった。
英才教育を受け、洗練された作法を身につけ、社交界の華として輝くはずだった。今でもその気になれば、名家の令嬢として、いかなる場も卒なく振る舞える自信がある。
だが彼女は、ある日すべてを失った。
家も地位も家族も。
愛されるはずだった未来さえも。
今の彼女に残されているのはーー
「よし。目が覚めた」
不意に、ディクトの声が思考を断ち切った。
彼は何事もなかったかのように身を起こし、陽光を浴びながら悠然と伸びをする。
その仕草だけを見れば、清々しい朝を迎えた王子そのものだった。
アッシェはわずかに乱れた呼気を整え、塵ひとつない無機質な表情で頭を下げる。
「……それは何よりです、王子」
ディクトは、先ほどの戯れなどなかったかのように鏡の前へ立つ。
カフスを留め、襟を整える手つきは美しく、王族としての教育を感じさせた。
だからこそ、余計に不気味だった。
彼にとって、アッシェの屈辱など、朝の光に溶けて消える些細な余興でしかないのだろう。
「今日の予定は?」
背を向けたまま、ディクトが軽い声で尋ねる。
数秒前までの卑俗な余韻を、ひと撫でで真っ白に塗り潰してしまうような、無慈悲な平熱だった。
「はい。本日は、コーネル伯爵がお見えになります」
「そうだったね」
まるで今思い出したかのような、白々しい響き。
「素敵な手紙ももらったところだしね」
そして、ディクトは鏡越しにアッシェを見やり、意味ありげに口角を上げた。
「手厚い歓迎をお願いするよ」
「承知いたしました。抜かりなく」
アッシェは努めてにこやかに、淑女のそれよりも隙のない一礼をした。
その伏せられた瞳の奥で、氷のように冷たい光が一瞬だけ揺らめいたのを、ディクトは見逃さなかった。
「楽しみだな」
その一言だけを部屋に残し、彼は優雅な足取りで扉へと向かった。




