1話 白銀のメイドと悪魔の王子
「お掃除の時間です」
囁くような声が、暗闇に落ちた。
王城の客室。
月明かりの差し込む薄暗い部屋で、白銀の髪が静かに揺れる。
アッシェ・レベンケは微笑んでいた。
メイド服の裾を汚さぬよう優雅に腰を落とし、床に転がる男の顔を覗き込む。
「――っ、な、なん……!」
男は後ずさろうとした。
だが、身体は動かない。
全身に刻まれた白い刻印が鈍く光り、指一本動かすことさえ許してくれなかった。
「これは、どういうことです! あなたは王子の――」
「お静かに」
アッシェは人差し指を唇に当てた。
「あまり騒がれると、主人が起きてしまいます」
男の顔から血の気が引く。
この女を知らないわけではない。
王城のメイド長。昼間、自分を客人として丁重にもてなしていた女だ。
「ど、どういうことだ……! 私は、この国のために――」
「ええ。存じ上げております」
アッシェは微笑んだ。
「コーネル伯爵様」
男の表情が凍りつく。
「領民から不当に税を取り立て、私腹を肥やす。来年のための種籾にまで手をつけたそうですね」
「ご、誤解だ……!」
「領民は飢え、このままでは冬を越せるかどうかも分からない」
「ま、待ってくれ……! 私はまだ役に立てる! 人脈もある! 殿下にだって――」
「時間です」
アッシェはゆっくりと立ち上がった。
その微笑みは、最後まで崩れない。
「王国のゴミは、私が掃除いたします」
喉元の刻印が、ぐっ、と脈打つ。
「い、嫌だっ――」
白い光が、一瞬だけ部屋を照らした。
男の悲鳴は――誰にも届かなかった。
◇◇◇
――十数時間前。
王城の朝は、静寂に包まれていた。
磨き上げられた大理石の床へ、窓から淡い朝日が差し込んでいる。
長い廊下にはまだ人影も少なく、飾られた花々の甘い香りだけが、かすかに漂っていた。
穏やかな朝。
その静けさの中を、一人のメイドが歩いていた。
アッシェ・レベンケ。
王城に仕えるメイドたちを束ねる、メイド長である。
白銀の髪は一筋の乱れもなく結い上げられ、黒を基調としたメイド服には皺ひとつない。背筋は真っ直ぐに伸び、伏せた瞳には余計な感情が浮かんでいなかった。
やがて彼女は、一枚の扉の前で足を止めた。
金細工の施された、重厚な扉。
王族の寝室にふさわしく、磨かれた木目にはわずかな曇りもない。
この扉を叩くことから、アッシェの一日は始まる。
トン、トン、トン――。
三度の音が、静かな廊下に規則正しく響いた。
「おはようございます、ディクト王子」
返事を待つ。
だが――。
「…………」
扉の向こうから、声は返ってこない。
アッシェはしばらく待った後、周囲に人の気配がないことを確かめた。
そして、ほんのわずかに息を吐く。
「……はあ」
疲労ではない。
これから始まる面倒なやり取りを思っての、小さな諦めだった。
だが、表情が緩んだのは一瞬だけ。
すぐに背筋を伸ばし、誰もが知る完璧なメイド長の顔へ戻る。
本来、王族の寝室へ許可なく踏み入ることなど許されない。
いかにメイド長であろうとも、不敬として咎められて当然の行為だ。
だが、アッシェだけは違う。
彼女だけは、返事がなくとも部屋へ入ることを許されていた。
アッシェは扉へ手をかける。
ぎい、と重い音を立てて扉が開いた。
「失礼いたします、王子」
返事を待たず、薄暗い室内へ足を踏み入れる。
部屋には、まだ夜の名残が残っていた。
分厚いカーテンが朝日を遮り、香炉の甘い香りだけが重く空気に溶けている。
天蓋付きの寝台。
幾重にも重ねられた絹の寝具。
足元に敷かれた異国製の絨毯。
どこを見ても、王族の寝室にふさわしい豪奢さだった。
ただし――。
その中心にいる主の性根だけは、この部屋に置かれたどの調度品よりも歪んでいる。
アッシェは寝台へ視線を向けた。
大きく膨らんだ布団が、わずかに動いている。
眠っているふりだ。
見ればすぐに分かった。
アッシェは何も言わず窓辺へ向かい、カーテンを一気に引いた。
バサッ!
眩い朝日が、部屋いっぱいに流れ込む。
「おはようございます。本日もよい朝でございますよ」
「……ん……まだ早いよ、アッシェ」
寝台の中から、毒気のない声が返ってきた。
この国の王子――ディクト・ベネグ・エットルムは、最高級の羽毛布団を頭まで被り、亀のように丸まっている。
アッシェは無表情のまま、その塊を見下ろした。
やはり起きていた。
「王子、起きてください。せっかくの朝食が冷めてしまいます」
「そうだね」
返事だけは素直だった。
だが、布団から出てくる様子はない。
アッシェは小さく息を吐くと、布団の端を掴んだ。
この男に余計な時間を与えてはいけない。
「失礼いたします」
言葉と同時に、布団を一気に剥ぎ取る。
「――っ!」
ディクトがようやく顔を出した。
寝起きだというのに、その容姿は腹立たしいほど整っている。
乱れた黒髪は朝日を受けて艶やかに輝き、白い肌に長い睫毛が淡い影を落としていた。
その姿だけを見れば、絵画から抜け出した貴公子そのものだ。
――外見だけは、無駄に良い。
それが余計に、アッシェを苛立たせる。
「ああ、分かったから。そんなに怖い顔をしないでよ」
ディクトは諦めたのか、ゆっくりと上体を起こした。
珍しく素直だ。
そう思った、その直後。
彼の唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。
アッシェが最も嫌悪し、最も警戒している笑みだった。
「分かった。こうしよう」
ディクトが、たった今思いついたように口を開く。
嫌な予感しかしない。
「アッシェが僕の言うことをひとつ聞いてくれたら、朝の支度を始めようかな」
――始まった。
アッシェは、ずきりと痛むこめかみを指先で押さえた。
こうなれば、もう主人の気まぐれに付き合うしかない。
「……本日は、何がお望みですか?」
感情を削ぎ落とした声で尋ねる。
ディクトは、そんな彼女を楽しげに眺めていた。
まるで玩具の反応を観察する子どものような目。
無邪気で――だからこそ、残酷だ。
やがて何かを思いついたように、ディクトは口元を歪めた。
「そうだね。胸を触らせてもらおうかな」
「……畏まりました」
短く答える。
声に感情はなかった。
あまりにも下俗で、悪趣味な戯れ。
それでもアッシェは、深い溜息をひとつ吐くだけに留めた。
寝台の傍らへ歩み寄り、淑女のような所作で一礼する。
そして命じられた通り、静かに腰を下ろした。
抵抗の意思は見せない。
アッシェはゆっくりと呼吸を整えた。
胸の奥で波立とうとする感情を、深く沈めていく。
魔法学園で叩き込まれた精神統制術。
本体は、術式を乱さぬために心を鎮める技術だった。
だが今のアッシェにとっては、別の意味を持っている。
ディクトの手が伸びた。
服越しに触れられる。
その事実だけを、淡々と受け止める。
視線を一点へ固定する。
呼吸を乱さない。
瞬きさえ、いつも通り。
何も感じていないかのように、表情を消す。
ディクトは、そんな彼女をじっと見ていた。
その瞳に欲望の熱はない。
愛情など、なおさらない。
あるのは――純粋な悪意。
そして、ほんの少しの好奇心だけだった。
怒りに顔を歪めるのか。
屈辱に視線を伏せるのか。
それとも、最後まで何も感じていないふりを貫くのか。
ディクトはただ、アッシェの仮面に亀裂が入る瞬間を待っている。
だからこそ、たちが悪い。
「……王子」
「ん? どうしたの、アッシェ」
アッシェは、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
何がそんなに楽しいのか。
そう問いかけたところで、まともな答えなど返ってこない。
返ってくるのはきっと、人を食った冗談か、核心をわざと逸らした嘲笑だけだ。
「……いえ。何でもございません」
かつては屈辱もあった。怒りもあった。羞恥も、抵抗も、確かにあった。
だが、それらを表に出すことは、もうやめた。
何より――これもまた、彼女が自ら選んだ道なのだから。
アッシェ・レベンケ。
今はそう名乗っている彼女も、かつては歴史ある名門貴族の令嬢だった。
幼い頃から英才教育を受け、洗練された作法を身につけ、いずれは社交界の華として生きていくはずだった。
今でもその気になれば、どんな夜会でも名家の令嬢として振る舞える。
だが、ある日、すべてを失った。
家も、地位も、家族も。輝かしい未来も、帰る場所も、愛していた者たちも。
何もかも奪われた。
そして今、彼女に残されているものは――ただひとつ。
「よし。目が覚めた」
不意に、ディクトの声が思考を断ち切った。
彼は何事もなかったかのように身を起こし、朝日を浴びながら悠然と伸びをする。
その姿だけを見れば、爽やかな朝を迎えた王子そのものだった。
アッシェは乱れかけた呼吸を整え、静かに立ち上がった。
そして、塵ひとつ付いていないような無機質な表情で頭を下げる。
「それは何よりでございます」
ディクトは寝台から降りると、部屋の奥にある鏡の前へ立った。
先ほどまでの悪趣味な戯れなど、最初から存在しなかったかのように。
寝間着を脱ぎ、シャツへ袖を通す。
襟を整え、カフスを留めていく所作には、一切の淀みがない。
そこだけ見れば、王族として高い教育を受けてきたことがよく分かる。
「今日の予定は?」
背中を向けたまま、ディクトが尋ねた。
「本日は、コーネル伯爵がお見えになります」
「そうだったね」
ディクトは、今思い出したかのように薄く笑った。
白々しい響きだった。
「素敵な手紙ももらったところだしね」
アッシェは、ほんのわずかに目を伏せる。
ディクトは支度を終えると、鏡越しに彼女を見た。
「アッシェ」
名を呼ばれ、アッシェは静かに顔を上げた。
ディクトは意味ありげに口角を上げる。
「手厚い歓迎をお願いするよ」
その言葉に、アッシェは静かに膝を折った。
完璧なメイドとして。誰よりも従順な従者として。
「承知いたしました。抜かりなく」
伏せられた瞳の奥で、一瞬だけ氷のような光が揺れる。
それを、ディクトは見逃さない。
「楽しみだな」
満足そうに笑い、ディクトは扉へ向かう。
その背中を見送りながら、アッシェは静かに息を吐いた。
数時間後。
この王城を訪れる男が、自分の人生最後の日を迎えることなど――。
まだ、誰も知らない。
こうして、メイド長アッシェ・レベンケの長い一日が始まった。




