17話 鏡越しの悪意
アッシェに変装したマロンは、主人の寝室の扉の前に立っていた。
今の彼女は、どこから見てもアッシェ・レベンケそのものだった。姿も、声も、仕草も、魔力の波長さえも寸分違わない。
確認する必要などない。
アッシェの立ち姿も、目を伏せる角度も、声に含まれるわずかな温度さえ、マロンは正確に再現していた。
けれど、その完璧な仮面の内側で脈打っているのは、間違いなくマロン自身の心臓だった。
小さく息を整え、マロンは控えめに扉を叩く。
こつ、こつ、こつ――。
磨き込まれた重厚な扉に吸い込まれるように、音が消えていった。
しばらく待つ。
だが、中から返事はない。
「ディクト様、失礼します」
そう声をかけてから、マロンは静かにドアノブへ手をかけた。
冷たい金具が掌に触れる。
わずかな軋みとともに、扉が開いた。
部屋の中には、朝の淡い光が満ちていた。
分厚いカーテンの隙間から差し込む陽光が、床や壁、天蓋付きの寝台の縁を薄く照らしている。
夜の名残を残した静かな空気の中に、かすかに香の匂いが漂っていた。
「やあ、おはよう」
声は、すぐに返ってきた。
マロンは一瞬、足を止める。
天蓋付きのベッドは、すでにもぬけの殻だった。
主人であるディクト・ベネグ・エットルムは、姿見の前に立ち、さらりとしたシャツに袖を通しながら身支度を整えているところだった。
寝起きらしい気だるさは、まるでない。
それどころか、まるで最初から彼女が入ってくることを分かっていたかのように、声音は落ち着き払っていた。
「おはようございます。お早い目覚めですね」
マロンは一歩中へ入り、淀みなく礼をする。
背筋を折る角度。
指先の揃え方。
視線の落とし方。
そのひとつひとつが、アッシェの所作そのものだった。
まさか、主人がもう起きているとは思わなかった。
だが、その程度の動揺を顔に出すわけにはいかない。
今日の自分は、敬愛するアッシェ・レベンケの代役だ。
少しの乱れも許されない。
ディクトは鏡越しにマロンを見た。
直接振り返ってはいない。けれど、鏡の中の瞳だけが、こちらを静かに捉えている。
「ここにいるのは僕だけだ」
ディクトは口元だけを緩める。
「気楽にしなよ、マロン」
その名を呼ばれた瞬間、マロンの喉が小さく詰まった。
「いえ、しかし……」
言いかけて、ほんの一瞬だけ言葉が途切れる。
昨夜、ディクトからは今日一日、アッシェの代役として振る舞うよう命じられている。
それに、アッシェ本人からも城内の仕事を託されていた。
だからこそ、今日はアッシェ・レベンケとして、完璧に職務を全うしなければならないと思っていた。
何より、彼女からの期待に応えたかった。
けれど、目の前の主人がそう言うのなら、従うしかない。
マロンは小さく息を整えた。
そして、アッシェの声ではなく、本来の自分の声で答える。
「……かしこまりました」
そう言って、マロンは改めて頭を下げた。
姿はアッシェのまま。
その奇妙な状態に、ほんの少しだけ落ち着かなさを覚えながらも、マロンは従者としての礼を崩さなかった。
「ディクト様。昨日はお暇をいただき、ありがとうございました」
「いいよ、そんなの」
ディクトは袖口を整えながら、気負いのない調子で答えた。
鏡の中の彼は、穏やかに笑っている。
「それで、街はどうだった? 楽しかった?」
その問いかけに、マロンの表情はたちまち明るくなった。
隠そうとしても隠しきれない。
胸の奥からあふれてくる喜びが、そのまま声に滲んでしまう。
「はい! アッシェお姉さまと一緒に過ごせて、とっても幸せでした」
答えた途端、頬が熱を帯びていくのが自分でも分かった。
昨日のことを思い返すだけで、胸の奥が甘く疼く。
アッシェと並んで歩いた街並み。
優しく名前を呼んでくれた声。
そして、誰にも邪魔されず、密かに隣で過ごした甘い時間。
思い出すだけで、何もかもが眩しく感じられた。
「それはよかったね」
ディクトは鏡越しに、淡く笑った。
「それに……アッシェお姉さまが、ネックレスまで買ってくださって」
「へえ」
マロンは胸元にそっと手を当てた。
今は身につけていない。
けれど、あの小さな箱の重みも、首元に触れた冷たい宝石の感触も、まだはっきりと残っている。
「一生の宝物です」
その言葉を口にしただけで、また頬がゆるんだ。
アッシェが金色の髪をそっと避け、ネックレスを留めてくれた時の指先。鏡越しに「似合っているわ」と微笑んでくれた声。
その記憶だけで、マロンの胸は甘く満たされた。
けれど次の瞬間、ふっと我に返る。
ーーいけない。少し浮かれすぎた。
いくら主人が気楽にしていいと言ったとはいえ、自分は従者だ。
そして今は、アッシェ・レベンケの代役でもある。
敬愛する人の姿を借りている以上、あまりにも無邪気にはしゃぐわけにはいかない。
マロンは慌てて口元を引き締めた。
「……申し訳ありません。少し、はしゃぎすぎました」
「別に謝らなくてもいいのに」
「いえ……」
マロンは小さく視線を伏せる。
だが、ディクトは気に留めた様子もなかった。
袖口を整え、襟元を直し、鏡の中の自分を眺めながら、ふと思い出したように口を開く。
「そうだ」
その声は、あまりにも軽かった。
まるで、何でもない世間話を始めるような調子で、ディクトは口を開いた。
「あの薬、効き目はどうだった?」
「……え?」
マロンの唇から、かすかな息のような声が漏れる。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
だが次の瞬間、その言葉の意味が胸の奥へ落ちた途端、背筋を冷たいものが走り抜ける。
「あの……ディクト様」
マロンはどうにか声を絞り出した。
「薬、とは……何のことでしょうか」
平静を装ったつもりだった。
けれど、声はわずかに掠れていた。喉の奥が乾き、指先からゆっくりと体温が抜けていく。
ディクトは襟元を整え終えると、何事もないように袖口のカフスを留めながら続けた。
「何のことって、ほら」
鏡の中で、彼の目だけがこちらを見ていた。
「睡眠薬のことだよ」
その一言に、マロンの表情が凍りついた。
部屋の空気が、急に遠くなる。
心臓がどくりと大きく跳ね、次の瞬間には嫌な速さで脈打ち始めた。無意識のうちに、メイド服の裾を握る指先に力がこもる。
どうして。
どうして、それを知っているのだ。
睡眠薬のことは、自分とカヌレ姉様しか知らないはずだった。少なくとも、そう思っていた。
(まさか、カヌレ姉様が……?)
一瞬そんな考えが頭をよぎる。
だが、それを打ち消すように、ディクトの軽い声が重なった。
「ああ、大丈夫だよ。このことは、僕と君以外には誰も知らない」
そこで一拍置いて、彼はあくまで穏やかに続ける。
「君が、こっそり薬をアッシェに飲ませたこともね」
その瞬間、マロンの中の何かが音もなく崩れた。
胸の奥にかろうじて残っていた淡い希望は、跡形もなく消え失せる。
もう疑いようがなかった。
主人は、すべて知っている。
疑っているのではない。
探っているのでもない。
はっきりと確信したうえで、あの軽い口調で口にしているのだ。
心臓は激しく脈打ち、冷たい汗が一気に噴き出した。
うまく息が吸えない。
視界の端がぐらりと揺れる。
「アッシェが疲れているように見えて、心配だったんだよね?」
ディクトは振り返らない。
鏡の前で身支度を整えたまま、静かに言葉を重ねる。
「マロンも優しいな」
「……いえ、そ、んな……」
喉の奥はからからで、返した声はひどく掠れていた。
どうにか取り繕おうとしても、言葉はうまく形にならない。
まともな返事ひとつできないまま、自分の動揺だけがあまりにもはっきりと露わになっていた。
どこで知ったのか。
いつから気づかれていたのか。
考えようとするほど、答えのない闇に足を踏み入れていくようで、胸の奥が冷えていった。
ーー最初から、全部知られていたのではないか。
そのうえで何も言わず、自分を今日の代役に立てたのだとしたら。
その考えに至った瞬間、背筋にぞっとするものが走った。
気づけば、マロンは床に膝をついていた。
ほとんど崩れ落ちるような格好で、そのまま深く頭を垂れる。
「ディクト様……も、申し訳……ございません……」
震える唇から、どうにかそれだけを絞り出した。
何をどう言えばいいのか分からない。
ただ謝ることしかできなかった。
けれど、ディクトは着替えの手を止めない。
こちらを振り返ることもなく、鏡の中の自分を眺めたまま、のんびりと問いかける。
「急にどうしたの?」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「何か、謝るようなことでもした?」
マロンの肩が、小さく震えた。
責められる方が、まだましだった。
冷たく断罪される方が、まだ息ができた。
こんなふうに、何も知らないふりをした穏やかな声で、逃げ道だけを少しずつ塞がれていく方が、ずっと怖い。
「アッシェのことを思って、やったことなんだよね?」
鏡越しでは、ディクトの表情まではよく見えない。
けれど、何も語らないその背中が、かえって不気味だった。
すべてを知ったうえで、あとは自分が口を開くのを待っている。
そんなふうに思えてならなかった。
このまま黙っていてはいけない。
主人が待っているのは、きっと自分の言葉だ。
自分の欲のために、アッシェに薬を使ったこと。
醜い嫉妬のまま、あの兄妹に手をかけたこと。
何もかも打ち明けて、許しを請わなければならない。
喉の奥が震える。
胸の奥に押し込めていた罪が、ひとつずつ形を持ってせり上がってくる。
マロンは震える唇をゆっくりと開いた。
「あ、あの……ディクト様、わたし――」
けれど、その言葉は最後まで形にならなかった。
「よし。準備できた」
身支度を終えたディクトが、くるりと軽やかに振り返った。
つい先ほどまで背中越しに感じていた、あの得体の知れない圧は、もう跡形もない。
そこにあるのは、いつも通りの、飄々としてつかみどころのない笑みだけだった。
「何をしてるの?」
床に額がつくほど深く頭を下げたままのマロンを一瞥し、ディクトは本当に不思議そうに首を傾げた。
まるで、今までのやり取りなど最初から存在しなかったかのような口ぶりだった。
マロンの喉が、ひくりと震える。
「あ……その……」
どうにか声を出そうとしても、言葉がうまく形にならない。
さっきまで喉元までせり上がっていた告白は、ディクトの何でもない顔を見た瞬間、また奥へ押し戻されてしまった。
ディクトは、そんな彼女の狼狽を眺めるように目を細める。
それから、ふっとおかしそうに笑った。
「アッシェは、そんなことしないよ」
その一言でマロンの呼吸が止まった。
どんな叱責よりもずっと深く、その言葉はマロンの胸に沈んだ。
言い訳も、否定もできないまま、肩先だけが小さく強張る。
「ほら、立って。もう行くよ」
それだけ言い残して、ディクトは何事もなかったように扉の方へ歩き出した。
引き止める暇も、言い訳する余地も与えない。
話そのものを、そこで打ち切るような足取りだった。
今なら、まだ言えるかもしれない。
ここで呼び止めて、すべて打ち明けてしまえばいい。
その思いは、たしかに喉元までせり上がった。
けれど、震える唇はかすかに開いただけで、最後まで声にはならなかった。
今ここで口にしてしまえば、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
もう、アッシェの隣にはいられない。
あの愛しい声も、優しい微笑みも、今までと同じようには受け取れなくなる。
そのことが、何よりも怖かった。
マロンは小さく息を吸い、ゆっくりと吐く。
強張った頬を緩める。
揺れた目元を静める。
口元を、きつく引き結ぶ。
乱れた呼吸を押し込みながら、ひとつずつ表情を作り直していく。
恐れも動揺も押し殺す。
今の自分は、マロンではない。
アッシェ・レベンケとして、何事もなかった顔で立たなければならない。
そう言い聞かせるようにして、マロンは震える足でなんとか立ち上がった。
「――はい。ディクト様」
澄んだ声でそう答える。
その声は、もう乱れていなかった。
マロンはアッシェと寸分違わぬ角度で、音もなく深く一礼した。
背筋を伸ばし、指先を揃え、視線を静かに伏せる。
内側のマロンを押し隠すように。
罪に震える自分を、誰にも見せないように。
彼女は、完璧な従者の仮面を被り直した。
そして、主人の後ろに従い、部屋を出る。
廊下へ差し込む朝の光は明るく、王城の空気はどこまでも穏やかだった。
何事もなかった朝のように、白い壁も、磨かれた床も、静かに光を返している。
けれど、胸の奥に落ちた冷たいものは、いつまでも消えなかった。
それでもマロンは、アッシェの顔で微笑んだ。




