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14話 掴みかけた希望

雨の中、ヘンゼは息を切らしながら家路を急いでいた。


脇に抱えた袋の中には、街の薬屋でようやく手に入れた薬が入っている。

濡れた指先が袋を滑らせそうになるたび、落とすものかと何度も抱え直した。


一秒でも早く、この薬をグレーテに飲ませたい。

その一心で、ヘンゼは雨に濡れた路地を走る。


「待ってろよ、グレーテ」


雨音にかき消されそうな声で呟く。


今日の出来事は、すべて奇跡のようだった。


アッシェさんが手を差し伸べてくれなければ、今ごろ自分は盗みに失敗して捕まっていたかもしれない。

何より、グレーテを助ける道さえ見つけられなかっただろう。


けれど、今は違う。


グレーテが助かるかもしれない。

また元気に笑って、一緒に過ごせるかもしれない。

そう思えるだけで、雨に煙る景色まで、ほんの少し明るく見えた。


元気になったら、一緒に街へ出よう。

表通りを歩いて、甘いものだって食べさせてやりたい。

あの大きな商会を見せたら、きっとグレーテは目を丸くするだろう。


『お兄様、こんな大きい建物、初めて見ました!』


そんなふうに驚く妹の顔が目に浮かんで、ヘンゼは思わず笑みをこぼした。


もう、盗みなんかしない。


これからは読み書きも、計算も覚える。人のものを奪わなくても生きていけるように。いつか、自分の力でグレーテを守れる兄になるために。


そしていつか、二人で小さな店を開く。

それは、グレーテが前に口にしていた夢だった。

あのときは、そんな夢を本気で信じる余裕なんてなかった。けれど今なら、ほんの少しだけ信じられる気がした。


雨は少し勢いを弱めていたが、まだぽつりぽつりと降り続いている。

ヘンゼは水たまりを飛び越え、崩れた壁の脇をすり抜けた。


細い路地を抜けると、ようやく我が家へ辿り着いた。


「ただいま、グレーテ!」


扉を開けて飛び込んだヘンゼの声は、明るく弾んでいた。


濡れた髪から、ぽたぽたと雫が落ちる。

肩も袖もすっかり冷えきっていたが、そんなことはどうでもよかった。


入口のそばに置いてあった古びた布を掴み、ヘンゼは頭を乱暴に拭った。それから、薬の袋を抱え直し、靴を脱いで奥へ向かおうとする。


早く、グレーテに飲ませなければ。

その一心だった。


――だが、その足がふと止まった。


家の中が、妙に静かだった。


いつもなら、どれだけ具合が悪くても、奥の部屋から小さく声が返ってくる。


『おかえりなさい、お兄様』


弱々しくても、必ずそう言ってくれる。


けれど今は、その声がない。

薄い壁の向こうで、雨音だけが静かに鳴っていた。


「……グレーテ?」


眠っているのだろうか。

知らない人が来て、疲れてしまったのかもしれない。


そう思おうとした。

だが、廊下へ踏み出しかけたヘンゼは、足元を見て息を呑んだ。


(なんだ、これ……?)


床に、ぽつ、ぽつと水滴が落ちていた。


玄関から奥へ向かって続く、細い濡れ跡。

それは、自分が持ち込んだ雨の雫ではない。


自分の足跡は、まだ入口のあたりにしかない。

それなのに、その先へ――奥の部屋へ向かって、別の濡れた跡が続いている。


誰かが、雨に濡れたまま家の中を歩いた跡だった。


喉の奥が、ひやりと冷える。


グレーテが歩き回っていたとは思えない。

少し楽になったとはいえ、まだ布団から起き上がれるような様子ではなかったはずだ。


胸の奥で、嫌な予感がざわりと膨らんだ。


「グレーテ!」


今度は叫ぶように名を呼び、ヘンゼは奥の部屋へ駆け出した。


床板がぎしぎしと悲鳴を上げる。

腕に抱えた薬の袋が滑り落ちそうになる。

それでも構わず、彼は部屋の扉を勢いよく扉を開け放った。


そして――足が止まった。


「……っ」


息が詰まる。


布団の上に横たわるグレーテの体は、真っ赤に染まっていた。

白かったはずのシーツは、じわじわと広がる紅に呑まれ、部屋の中には生ぬるい鉄の匂いが満ちていた。


腕から薬の袋が滑り落ちる。

床に落ちた包みが、乾いた音を立てた。


「グレーテ……?」


掠れた声だった。


目の前の光景が、すぐには理解できなかった。

これは見間違いだ。

悪い夢だ。

さっきまで、グレーテは笑っていたではないか。


ヘンゼはふらつく足で、布団のそばへ歩み寄った。

震える手を伸ばし、小さな体を抱き起こす。


だが、その体にはもう温もりがなかった。


あれほど熱を持っていたはずの体は、信じられないほど冷たい。

その小さな胸は、もうピクリとも動かなかった。


「……なんで」


声がこぼれた。

頭がうまく働かない。

何が起きたのか、分からない。

分かりたくなかった。


ただ、腕の中の冷たさだけが、嫌になるほどはっきりしていた。


「なんでだよ……!」


震える叫びが、狭い部屋に響いた。

 

やっと、助かるはずだった。

薬を飲んで、少しずつ元気になって。今までできなかったことを、これから二人で取り戻していくはずだった。


また一緒に街へ出て、甘いものを食べて。いつか、小さな店を開いて。


そんな未来を、ほんの少しだけ信じられたのに。


「起きてくれよ……」


頬を伝った雫が、グレーテの服に落ちる。

涙なのか、雨なのか、自分でも分からなかった。


「グレーテ……」


消え入りそうな声で、妹の名を呼ぶ。


けれど、腕の中のグレーテは何も答えない。

もう二度と、あの鈴のような声で「お兄様」と呼んではくれない。

ようやく掴みかけた希望が、音もなく砕け散っていく。


ヘンゼは冷たくなった妹を抱きしめたまま、雨音だけが響く部屋の中で、声にならない嗚咽を漏らした。


そのときだった。


「やっと帰ってきたか」


背後から、知らない男の声がした。


ヘンゼの体がびくりと震える。

涙に濡れた顔を上げ、ゆっくりと振り返った。


部屋の入口に、見知らぬ男が立っていた。


長身で、痩せこけた頬には無精髭が伸びている。

雨に濡れた外套が、重たげに肩へ張りついていた。


その目は、ひどく冷たかった。

布団の上で血に染まったグレーテを見ても、少しも揺れていない。

まるで、目の前の惨状など、何でもないことのように。


「待ちくたびれたぞ」

「……誰だ」


ヘンゼの声は震えていた。


少なくとも、知っている顔ではない。

けれど、男の右手に握られた無骨な刃物を見た瞬間、ヘンゼの中で何かが弾けた。


刃の先から、ぽたり、ぽたりと赤い雫が落ちている。


それが何を意味するのか、考えるまでもなかった。


「お前が……」


喉の奥から、かすれた声が漏れる。


「お前が、グレーテを……!」


怒りが一気に胸を焼いた。


「お前がグレーテを殺したのか!!」


言い終わるより早く、ヘンゼは男へ飛びかかっていた。


まともな考えなどなかった。

妹を奪った相手が目の前にいる。

それだけで、体が勝手に動いていた。


だが次の瞬間。


男の足が、無造作に振り抜かれた。


鈍い衝撃が腹にめり込み、ヘンゼの小さな体は軽々と吹き飛ばされる。

床へ叩きつけられ、肺の中の空気が一気に押し出された。


「がっ……!」


息が詰まる。

喉の奥が焼けるように痛い。


「チッ、騒がしいガキだな」


男は、心底うんざりしたように吐き捨てた。


ヘンゼは床に手をつき、咳き込みながらも顔を上げる。

涙で滲んだ視界の向こうで、男は虫でも見るような目をしていた。


「なんでだよ……っ」


ヘンゼは、血の気の引いた唇を震わせる。


「なんでグレーテを殺した! あいつが何をしたって言うんだ!」

「なんで、だと?」


その瞬間、男の目つきが変わった。


冷たかった瞳の奥に、激しい怒りが滲む。

ヘンゼの背筋がぞくりと冷えた。


だが男は、すぐに何かを飲み込むように息を吐き、平静を取り戻した。


「……そうか。だが、分からないのも無理ないか」


納得するように呟くと、男は懐に手を入れた。

そして、何かをヘンゼの足元へ放る。


床を滑ってきたのは、古びた茶色の財布だった。


「開けろ」

「……?」


ヘンゼは恐る恐る財布を拾い上げた。


使い古され、革はひび割れている。

震える手で口を開く。

中に金は入っていなかった。


だが、内側にある小さなポケットだけが妙に膨らんでいる。


「中のものを出せ」


男の声に従い、ヘンゼはポケットに指を入れた。

そこから出てきたのは、小さな白い袋だった。


袋の口が緩み、中に入っていた丸い錠剤が数粒、床へ転がり落ちる。


「薬……?」

「ああ」


男は低く答えた。


「病気で苦しんでいた娘のために、俺が買った薬だ」


その言葉を聞いた瞬間、ヘンゼの背中に嫌な汗が滲んだ。


男は、床に転がった錠剤を見下ろしながら、静かに続ける。


「娘は高い熱を出していた。息をするのも苦しそうでな」


低く抑えられた声だった。

けれど、その静けさの底には、押し殺した怒りがじわじわと滲んでいた。


「少しでも早く薬を飲ませようと、俺は急いで家へ向かっていた。なくさないように、その財布にしまってな」


そこで、男の目がすっと鋭く細まる。


「そのときだ。表通りで、お前とすれ違ったのは」


ヘンゼは、はっと息を呑んだ。


「家に帰ってから、俺は焦ったさ。財布がどこにもなかったんだからな。必死で街を探し回った。だが、見つからなかった」


男の視線が、ヘンゼを射抜く。


「見つかるはずないよな。だって、お前に盗られていたんだから」

「……俺が……?」


声が震えた。


胸の奥が、嫌な速さで脈打ち始める。

部屋の空気が一気に重くなり、息が苦しくなった。


「金も奪われた俺は、もう一度薬を買うこともできなかった」


男の声が、さらに低くなる。


「結局、娘は助からなかった」


すべてが、一本の線でつながった。


ヘンゼは床に転がった薬を見つめた。

ただの丸い錠剤が、今は恐ろしいほど重たいものに見える。


「俺の……せい……?」


否定できなかった。


これまで、何度も盗みをしてきた。

生きるためだった。

グレーテを守るためだった。


けれど、自分が奪ったものの向こうにも、誰かの暮らしがあった。

誰かが守りたかったものがあった。

そんな当たり前のことを、ヘンゼは一度も考えたこともなかった。


床に転がった丸い薬を見つめる。

それが今は妙に生々しく、ひどく重たいものに見えた。


「俺が、あんたから財布を盗ったから……」


声が震える。


「だから、あんたの娘は……」


最後まで言葉にできなかった。


「そうだ」


男の声が、容赦なく落ちる。


「お前のせいで、俺の娘が死んだ」


その一言は、刃よりも深くヘンゼの胸を抉った。


「だから、お前にも同じ思いをさせてやった」


男は血に濡れた刃を持ち上げる。


「そこの妹を殺してな」

「あ……ああ……」


喉の奥から、意味にならない声が漏れた。


ヘンゼは自分の手を見る。

妹の血で赤く染まった、小さな手。


生きるためだと言い訳して、他人から奪ってきた手。

その結果、巡り巡ってグレーテの命まで奪ったのだと、ようやく理解してしまった。


「うあああああああっ!!」


絶叫が、狭い部屋いっぱいに響いた。


それは怒りではなかった。

悲しみでもなかった。

喉の奥から無理やり引きずり出された、壊れた獣のような叫びだった。


「俺が……俺が盗みなんかしたから……」


視界がぐにゃりと歪む。


男の顔も、床も、血も、何もかもが滲んでいく。


「あんたの娘も……グレーテも……」


もう、言葉にならなかった。

嗚咽と後悔だけが、虚しく部屋に反響する。


男はそんなヘンゼを見下ろしたまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「安心しろ」


その声だけが、妙にはっきり聞こえた。


「すぐに妹のところへ送ってやる」


ヘンゼは、もう顔を上げられなかった。


これは報いなのだと思った。


自分が奪ってきたもの。自分が見ようとしなかった誰かの痛み。そのすべてが、今になって自分へ返ってきたのだ。


冷たい絶望が、足元から全身を満たしていく。


もう何も残っていなかった。

希望も、未来も、グレーテの笑顔も。


あるのは、取り返しのつかない後悔だけだった。


男の足音が、すぐそばで止まる。

ヘンゼは妹の血に濡れた手を握りしめたまま、ただ小さく呟いた。


「ごめん……グレーテ……」


次の瞬間。


振り下ろされる刃の気配だけを最後に、ヘンゼの意識は暗闇へ沈んだ。


◇◇◇


血だまりの中で、少年はもうぴくりとも動かなかった。


しばらく、雨音だけが部屋に満ちていた。


その亡骸を見下ろしながら、男はふう、とわざとらしく息を吐く。

赤く濡れた刃先を軽く振ると、残っていた血が床へ散った。


「――なーんて。全部、私の考えた嘘だけど」


その口からこぼれたのは、先ほどまでの低く荒れた男の声ではなかった。

鈴を転がすような、あまりにも場違いな少女の声だった。


床に転がっていた茶色の財布が、ふっと淡い光を帯びる。

続いて、散らばっていた白い錠剤も蛍火のように揺らめき、音もなく消えていった。


最初から、そこには何もなかったかのように。


やがて、長身の男の姿そのものが揺らぎ始める。

濡れた外套も、無精髭も、痩せこけた頬も、すべてが薄い魔力の光となって崩れ、霧のようにほどけていく。


光が消えたあと、そこに立っていたのは、短く切り揃えた金髪の少女だった。


「はあ……」


少女は深く息を吐いた。

けれど、胸の奥に渦巻くどす黒い感情は、少しも薄れなかった。

吐き出したはずなのに、むしろさらに煮え立っていくようだった。


足元に転がる少年の亡骸を、冷えきった目で見下ろす。


「……まだ、全然足りない」


吐き捨てるように呟く。

その声には、嫌悪と苛立ちが滲んでいた。


「なんで……こんな子たちなんかに……」


ぎり、と奥歯を噛みしめる。


この兄妹にさえ出会わなければ。


アッシェお姉さまが、あんな目を向けることもなかった。

あんなふうに手を差し伸べることもなかった。

今もきっと、二人きりでいられたはずだった。


あの優しさは、自分だけに向けられるものだったはずなのに。


それを、救う価値もない兄妹なんかに奪われた。


許せなかった。どうしても、許せなかった。


胸の奥で、黒い感情が焼けつくように膨れ上がっていく。


「ムカつく……」


低く洩れた声とともに、少女は壁へ蹴りを叩き込んだ。


乾いた音が、狭い部屋に乱暴に響く。

古びた板壁がびり、と悲鳴のような音を立て、埃がぱらぱらと舞い落ちた。


けれど、苛立ちは少しも消えない。


「ムカつく……ムカつく……!」


もう一度、強く蹴りつける。


それでも胸の奥にこびりついた黒い熱は剥がれなかった。むしろ蹴りつけるたびに、怒りはますます鮮明になっていく。


「お姉さまからの愛をいただけるのは、私だけでよかったのに……」


吐き出した声は、ひどく冷たかった。


「それなのに……!」


激情のまま身じろいだ拍子に、懐から小瓶がぽろりと落ちた。

硬い床を、ころころと転がっていく。


「……あっ」


少女は顔色を変えた。

慌ててしゃがみ込み、すぐに小瓶を拾い上げる。

透明な硝子の中で、白い錠剤がかすかに触れ合って鳴った。


睡眠薬だった。


「よかった……割れてない」


安堵したように胸を撫で下ろし、小瓶を両手で包み込む。

硝子のひんやりとした感触が、乱れていた呼吸を少しずつ落ち着かせていった。


「カヌレ姉さまから、貰っておいてよかった」


その言葉とともに、街へ来るまでの馬車の中の光景が脳裏によみがえる。


薬のおかげで、ぐっすりと眠る愛しい人の隣を独り占めできた。

誰にも邪魔されない、二人きりの幸福な時間。


無防備な寝顔を思い出しただけで、胸の奥が甘く熱を帯びる。

さっきまで渦巻いていた苛立ちさえ、その記憶に触れた瞬間、別の熱に溶けていった。


少女は小瓶を大事そうに懐へしまう。


それから、ゆっくりと部屋を見回した。

むせ返るような血の匂いと、肌を刺す冷えきった空気。

壊れたものだけが残された、薄暗い部屋。


もう、ここに用はない。


少女は静かに踵を返し、扉へ向かった。


「アッシェお姉さま……」


甘く、熱を帯びた声がこぼれる。

細められた瞳はうっとりと潤んでおり、まるで恋に浮かされた純粋な少女そのものだった。


「帰りは、いっぱいお話しましょうね」


幸せそうに微笑むと、少女は暗闇の中へ溶けるように姿を消した。

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