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13話 思い出の店

アッシェは、雨に濡れながら一人で歩いていた。


冷たい雨粒が白銀の髪を伝い、首筋を静かに滑り落ちていく。

黒い衣もじわじわと水を吸い、肩に重く張りついていた。


それでも、足を止める気にはなれなかった。


(どうして、私はあの兄妹を助けたのだろう)


胸の内で、何度も同じ問いを繰り返す。


軽率だった。

マロンの言うとおり、踏み込むべきではなかった。


あの兄妹だけが特別だったわけではない。

このスラムには、同じように奪われ、追い詰められ、行き場をなくした者たちがいくらでもいる。


たった二人に手を差し伸べたところで、この街の何かが変わるわけではない。


そもそも、自分がすべきことは、人を救うことではない。


目的はただ一つ。

エルドレッド家を陥れた者たちに復讐を果たすこと。


そのために、まずはバルド商会の闇を暴き、その先にいる敵へ辿り着く。

感傷に足を取られている暇など、どこにもない。


それなのに、あの兄妹を見捨てられなかった。


優しさなんかではない。

ただ、救えなかった妹の面影に引きずられただけだ。


あのとき守れなかったものを、あの少女の姿に重ねた。

そして今度こそ救えたのだと、そう思いたかっただけなのかもしれない。


結局、自分のためにしたことだ。


身勝手な自己満足にすぎない。


アッシェは小さく息を吐いた。

吐き出した息さえ、雨の中に溶けるように消えていく。


ふと、悲しそうに揺れたマロンの顔が脳裏をよぎった。

大切な仲間を、一人にしてしまった。


「……マロンには悪いことをしたわね」


呟いた声は、雨音に紛れてすぐに消えた。

気づけば、街の中心近くまで戻ってきていた。


スラムの薄暗さは少しずつ遠のき、通りは広く、石畳もいくぶん整っている。

それでも空は重く曇ったままで、雨に濡れた街並みはどこか色を失って見えた。


そのとき、ふと一軒の店が目に留まる。


間口は小さく、年季の入った木の看板が雨に濡れていた。

飾り気のない店構えだったが、どこか懐かしい雰囲気がある。


理由は分からない。

けれど、その店の前で、アッシェの足は自然と止まっていた。


吸い寄せられるように扉へ手を伸ばす。


カラン、と乾いたベルの音が鳴った。


「いらっしゃい」


温かみのある声が出迎えた。

カウンターの向こうにいたのは、初老の店主だった。

白髪の混じった髪に、深い皺。

けれど、その目には不思議なやわらかさがある。


「おや、珍しいお客さんだね」


店内は小ぢんまりとしていた。

棚には雑貨や菓子、日用品がきちんと並び、古びてはいても隅々まで丁寧に手入れされている。

狭い空間に、静かな清潔さが満ちていた。


店主はアッシェの姿を見るなり、眉を寄せる。


「ずぶ濡れじゃないか」


そう言うが早いか、返事も待たずに奥へ引っ込んだ。

ほどなくして、清潔なタオルを手に戻ってくる。


「ほら、使って」


差し出されたそれを受け取るより早く、店主はアッシェの濡れた髪へ手を伸ばした。

ぽん、ぽん、と軽く水気を拭われる。

雨の日に帰ってきた子どもを世話するような、優しい手つきだった。


「風邪を引いてしまうよ」


その言葉に、アッシェは遅れて我に返った。

いつの間にか、店の中でぼんやり立ち尽くしていたことに気づく。


アッシェはタオルをそっと受け取り、濡れた髪を軽く押さえた。


「ごめんなさい。お店を濡らしてしまったわね。このタオルは買い取らせてもらうわ」

「そんなことはいいから」


店主は穏やかに笑った。


「お嬢ちゃん。見ない顔だけど、どこから来たんだい?」

「王都からよ」


店主の気さくな態度に少し気を許したのか、アッシェは素直に答えた。


「そうかい。遠いところから来たのに、よりにもよってこんな天気とはね」

「本当にね……」


アッシェはちらりと窓の外を見やった。

雨はまだ、しとしとと降り続いている。


店主はそんな彼女の横顔を見て、心配そうに目を細めた。


「ずいぶん暗い顔をしてるね。何かあったのかい?」


アッシェは少しだけ視線を落とす。


「大切な人を、傷つけてしまったの……」

「喧嘩でもしたのかい?」

「……そんなところよ」


曖昧に答えると、店主は小さく笑った。


「私も、昔は妻とよく喧嘩をしたもんだよ」


棚の菓子を整えながら、どこか懐かしむように続ける。


「若い頃の私は、それはもう意地っ張りでね。謝れば済むようなことでも、つまらない意地を張ってしまった」


苦笑するように、肩をすくめる。


「ある時、ひどい喧嘩をしてね。腹が立っていたとはいえ、言ってはいけないことを言ってしまったんだ」


そこで、店主の手が止まった。


「妻は何も言い返さなかった。ただ、悲しそうな顔をしただけだった」


店主は、手にしていた菓子の包みを見つめる。


「謝らなきゃいけないことは、分かっていたんだけどね。明日でいい、機嫌が直ったら話せばいい。そんなふうに思っているうちに、妻は病気になってしまってね」


その声は、先ほどまでよりずっと静かだった。


「気づいた時には、もう長く話せる状態じゃなかった。結局、私は最後まで、あの時の言葉を謝れなかったんだ」


店の外では、雨音だけが静かに鳴っている。


「今でもたまに夢を見るよ。どうして、あの時すぐに謝らなかったんだろうって」


その声には、長い時間を経てもなお消えない後悔が滲んでいた。

アッシェは何も言わず、その話を聞いていた。


「おっと、暗い話をして悪かったね」


店主は小さく苦笑すると、それ以上は語らず、空気を変えるように声の調子を少しだけ明るくした。


「お嬢ちゃん、この街に来るのは初めてかい?」

「いいえ。ずっと前に、一度だけ」


アッシェはそう答えながら、店内へ視線を巡らせた。

並んだ品々のあいだに、いくつか不自然な空白がある。

かつては、もっと多くの商品で埋まっていたのだろう。

今はその名残だけが、静かに残っている。


店主は、どこか遠くを見るように目を細めた。


「それなら、今の街を見て驚いたろうね」

「そうね。前に来たときと比べて、ずいぶん雰囲気が変わっていたわ」

「昔は、この辺りももっと賑やかだったんだけどね」


店主はそう言って、棚の雑貨を指先で整える。

何気ない仕草だったが、その横顔には拭いきれない寂しさが滲んでいた。


アッシェはしばらくその様子を見つめ、それから静かに口を開いた。


「変わったのは、バルド商会ができてから?」


棚に伸びかけた店主の指先が、ぴたりと止まる。


店の中に、短い沈黙が落ちる。

雨音だけが、遠くから薄く聞こえていた。


やがて店主は、ゆっくりとアッシェを見る。


「……お嬢ちゃん、よく知っているね」


先ほどまでの柔らかな空気が、わずかに張りつめる。

それでも、アッシェは視線を逸らさなかった。


「少し、気になることがあったの」

「何か、調べているのかい?」


店主の声から、先ほどまでの気安さが消えていた。


「そうよ」


アッシェは短く答える。


「だから、聞かせて。この街に起きたことを」


店主はしばらく黙っていた。

棚に置いた手に、わずかに力がこもる。


話すべきか迷っているのだろう。

けれど、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「最初はみんな、ただ大きな商会ができただけだと思っていたんだ」


ぽつりと、独り言のように語り出す。


「品揃えが良くて、値段も安い。客が流れるのも仕方ない。商売なんて、そういうものだってね」


そこで、店主は一度言葉を切った。


「……でも、そんな単純な話じゃなかった」

「どういうこと?」


店主は苦い顔をした。


「露店や小さな店に品を卸していた商人たちに、少しずつ圧力がかかり始めたんだ。バルド商会を優先しろ、とね」

「それで従ったの?」


「いいや。商人ってのは、昔からの付き合いを大事にするからね。そう簡単に鞍替えする者ばかりじゃなかった」


そこで、店主の声が少し低くなる。


「だが、そういう連中に限って、荷が届かなくなったり、道中で盗賊に襲われたりすることが続いてね」


アッシェの眉がわずかに寄る。


「偶然とは思えないわね」

「ああ。けれど、誰も口には出さなかったよ」


店主は小さく苦笑した。


「逆らえばどうなるか。それだけで、十分思い知らされたからね」


短い沈黙が落ちる。


「そうして気づけば、この街の物流は押さえられていた。商会を通さなければ、まともな商売もできなくなっていたんだ」


店主はさらに続ける。


「そのうえ、小さな店が資金繰りに困り始めると、今度は商会が金を貸し始めた。法外な利息をつけてね」


店主の目が、店の奥の空いた棚へ向けられた。


「借金を返せなくなれば、店も土地も奪われる。長年この街で商売をしていた連中が、ある日を境に看板を下ろして、スラムへ流れていった」


店主は棚の空白へ目を向ける。


「昨日まで隣で笑っていた顔が、次の日には通りから消えている。そういうことが、何度もあった」


アッシェの脳裏に、さきほど見た薄暗い路地裏の光景がよぎる。


「誰も声を上げなかったの?」


店主はすぐには答えなかった。

苦いものを噛みしめるように、わずかに目を伏せる。


「……上げたよ」


低い声だった。


「商会に怒鳴り込んだやつもいた。仲間を集めて抗議しようとした者もいた」


そこで一度、言葉を切る。


「けど、商会の後ろには『セルペンス』と呼ばれる裏社会の連中がついていてね」

「……セルペンス」


聞いたことのない名だった。

だが、その響きは妙に耳に残った。


「連中は刃向かった者たちを、見せしめのように潰していった。だから誰も、逆らえなくなったんだ」


活気を失った表通り。

借金取りのような男。

スラム街へ流れ着いた者たち。


ばらばらだったものが、頭の中で一本の線になってつながっていく。


店主は、アッシェの表情を見て小さく息をついた。


「私も昔から付き合いのあった商人が何人もいたが、そのほとんどが連中に潰されたよ」


自嘲するように、力なく笑う。


「だから、悪いことは言わない。お嬢ちゃんが何を調べているかは聞かないが、商会には関わらない方がいい」


店主は、真剣な目をしていた。


「閑古鳥が鳴いているとはいえ、うちみたいにひっそり続けられるだけありがたいさ」


アッシェはしばらく黙っていた。

それから、ふと口を開く。


「……なぜ、まだ店を続けるの?」


店主は少しだけ目を瞬かせ、それから棚に並ぶ品々へ視線を向けた。


「なんでだろうね」


ぽつりと、独り言のように漏らす。


「自分でも、うまくは説明できない。ただ、どうしてか畳む気になれなくてね」


窓の外へ目を向ける。

雨はいつの間にか弱まり、軒先から落ちる雫の音だけが細く続いていた。


「この店には、妻との思い出が残っているんだ」


店主は、静かに棚を見つめる。


「若い頃に二人で始めた店でね。喧嘩もしたけど、楽しいこともたくさんあった。この菓子はね、妻が好きだったんだよ」


その声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。


「店まで失ってしまったら、本当に何も残らない気がしてね。だから、今でも続けているのかもしれないね」


その言葉には、どこか執着めいたものが潜んでいた。


アッシェは店主の横顔を見つめたまま、低く問う。


「商会が憎い?」


店主は少しだけ首を傾げた。


「そうだね……恨む気持ちがないかと言えば、嘘になるね」


その目は、どこか遠くを見ていた。

もう戻らない、昔の通りの賑わいでも見つめているようだった。


「でも、不思議と、そればかりでもないんだ」

「それはどうして?」

「いくら憎んでも、戻ってこないものばかりだからさ」


店主は静かに笑った。

けれど、その笑みには力がない。


「卑怯なやり方には、今でも納得なんてしていないよ」


そこで一度、言葉を切る。


「だけどね、最近はこうも思うんだよ。最初から、こうなる運命だったんじゃないかって」

「運命……?」


アッシェの声には、わずかに熱がこもる。


「運命だったら、仕方ないって受け入れるの?」


店主はすぐには答えなかった。

棚に置いた手が、わずかに強ばる。


だが次の瞬間には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「ああ……でも、受け入れたっていうよりは、諦めたのかもしれないね」


その言い方は、ひどく静かだった。

そして、それ以上、店主は語らなかった。


アッシェもまた、言葉を継がなかった。


店主の言う「諦め」を、アッシェは理解できない。

奪われたことを運命だと片づけて、その場に立ち尽くすことなど、彼女には考えられなかった。


奪われたのなら、奪い返せばいい。

踏みにじられたのなら、相応の報いを返させるべきだ。


少なくともアッシェは、そのために生きてきた。

だからこそ、店主の静かな諦めは、アッシェにはひどく遠いものに思えた。


「すまなかったね。また暗い話をしてしまって」


店主は申し訳なさそうに目尻を下げた。

重くなってしまった空気を、少しでも和らげようとしているのが、その穏やかな口調から伝わってくる。


「そんなことないわ」


アッシェは静かに首を振る。


「話が聞けてよかった」


それは気休めではなかった。

この街の歪みが、ようやく一本の線でつながり始めていた。


そのとき、ふと店の奥から甘い香りが流れてきた。


焼き菓子の匂いだった。

素朴でやさしく、どこか懐かしい香り。

張りつめていた気持ちの奥を、そっとほどくような匂いだった。


アッシェは無意識のうちに視線を向ける。


棚の端に、小さな包みがいくつか並んでいた。

飾り気のない紙袋に入った、丸いクッキー。


その視線に気づいた店主が、口元をゆるめた。


「クッキーが気になるのかい?」


少し間を置いてから、アッシェは小さく首を横に振った。


「……私じゃないわ」


そう答えながらも、視線は棚の上の包みに留まったままだった。


素朴な焼き色も、飾り気のない紙袋も、口元を留める細い紐も。

どれも特別なものではないはずなのに、なぜか目を離せなかった。


アッシェはそっと棚へ手を伸ばす。

ほとんど気まぐれのように、そのうちのひとつを手に取った。


「これ、もらうわ」


そう言ってカウンターまで歩き、包みを静かに置く。

それから硬貨を数枚取り出し、店主へ差し出した。


店主はそれを受け取ると、包みの口元を丁寧に整え、そっとアッシェへ差し出した。


「はい、どうぞ」


アッシェは店主のやさしい笑顔を見つめ、無言で包みを受け取った。


いつの間にか、外の雨音は止んでいた。

静まり返った店先の向こうで、雲の切れ間から淡い光が差し始めている。


「もう行くわ」

「そうかい」


店主は穏やかに頷いた。


「気をつけてね。ちゃんと、仲直りできるといいね」

「ええ」


短く答え、アッシェが踵を返しかけた――そのときだった。


空を覆っていた雨雲が、ふいに途切れた。


雲間から差し込んだ夕陽が、薄暗い店内を斜めに走る。

その光が、出口へ向かうアッシェの背を照らした。


その瞬間、彼女の髪色が変わって見えた。


普段は月光のように冷たい白銀の髪が、夕陽を受けた一瞬だけ、燃えるような朱に染まる。


ほんのわずかな間だった。

それなのに、妙に目に焼きつく鮮やかさだった。


背後で、店主がはっと息を呑む。


「お嬢ちゃん……」


しわがれた声が、かすかに震えていた。


「昔、どこかで……会ったことが、あったかい……?」


大きく見開かれたその目は、目の前の少女ではなく、もっと遠い昔の誰かを見ているようだった。


アッシェの足が、ぴたりと止まる。

けれど、振り返りはしなかった。

店の中に、ほんの短い沈黙が落ちる。


やがてアッシェは、背を向けたまま静かに口を開いた。


「……気のせいよ」


冷たく突き放すような声だった。

それでいて、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「ここに来るのは、今日が初めてだもの」


そう言い切ると、アッシェは重い木の扉を押し開けた。


カラン、とベルの音が鳴る。

店主は、閉まりゆく扉の向こうをしばらく見つめたまま動けなかった。


やがて扉が閉まり、ベルの余韻が消えると、店の中には静けさだけが残った。

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