表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/13

リオネル②

アッシェは、雨に濡れながら一人で歩いていた。


冷たい雨粒が白銀の髪を伝い、首筋を静かに滑り落ちていく。

黒い衣もじわじわと水を吸い、肩に重く張りついていた。


それでも、足を止める気にはなれなかった。


(どうして、私はあの兄妹を助けたのだろう)


胸の内で、何度も同じ問いを繰り返す。


軽率だった。

マロンの言うとおり、踏み込むべきではなかった。


あの兄妹だけが特別だったわけではない。

このスラムには、同じように奪われ、追い詰められ、行き場をなくした者たちがいくらでもいる。


たった二人に手を差し伸べたところで、この街の何かが変わるわけではない。


そもそも、自分がすべきことは、人を救うことではない。


目的はただ一つ。

エルドレッド家を陥れた者たちに復讐を果たすこと。


そのために、まずはバルド商会の闇を暴き、その先にいる敵へ辿り着く。

感傷に足を取られている暇など、どこにもない。


それなのに、あの兄妹を見捨てられなかった。


優しさなんかではない。

ただ、救えなかった妹の面影に引きずられただけだ。


あのとき守れなかったものを、あの少女の姿に重ねた。

そして今度こそ救えたのだと、そう思いたかっただけなのかもしれない。


結局、自分のためにしたことだ。


身勝手な自己満足にすぎない。


アッシェは小さく息を吐いた。

吐き出した息さえ、雨の中に溶けるように消えていく。


ふと、悲しそうに揺れたマロンの顔が脳裏をよぎった。

大切な仲間を、一人にしてしまった。


「……マロンには悪いことをしたわね」


呟いた声は、雨音に紛れてすぐに消えた。

気づけば、街の中心近くまで戻ってきていた。


スラムの薄暗さは少しずつ遠のき、通りは広く、石畳もいくぶん整っている。

それでも空は重く曇ったままで、雨に濡れた街並みはどこか色を失って見えた。


そのとき、ふと一軒の店が目に留まる。


間口は小さく、年季の入った木の看板が雨に濡れていた。

飾り気のない店構えだったが、どこか懐かしい雰囲気がある。


理由は分からない。

けれど、その店の前で、アッシェの足は自然と止まっていた。


吸い寄せられるように扉へ手を伸ばす。


カラン、と乾いたベルの音が鳴った。


「いらっしゃい」


温かみのある声が出迎えた。

カウンターの向こうにいたのは、初老の店主だった。

白髪の混じった髪に、深い皺。

けれど、その目には不思議なやわらかさがある。


「おや、珍しいお客さんだね」


店内は小ぢんまりとしていた。

棚には雑貨や菓子、日用品がきちんと並び、古びてはいても隅々まで丁寧に手入れされている。

狭い空間に、静かな清潔さが満ちていた。


店主はアッシェの姿を見るなり、眉を寄せる。


「ずぶ濡れじゃないか」


そう言うが早いか、返事も待たずに奥へ引っ込んだ。

ほどなくして、清潔なタオルを手に戻ってくる。


「ほら、使って」


差し出されたそれを受け取るより早く、店主はアッシェの濡れた髪へ手を伸ばした。

ぽん、ぽん、と軽く水気を拭われる。

雨の日に帰ってきた子どもを世話するような、優しい手つきだった。


「風邪を引いてしまうよ」


その言葉に、アッシェは遅れて我に返った。

いつの間にか、店の中でぼんやり立ち尽くしていたことに気づく。


アッシェはタオルをそっと受け取り、濡れた髪を軽く押さえた。


「ごめんなさい。お店を濡らしてしまったわね。このタオルは買い取らせてもらうわ」

「そんなことはいいから」


店主は穏やかに笑った。


「お嬢ちゃん。見ない顔だけど、どこから来たんだい?」

「王都からよ」


店主の気さくな態度に少し気を許したのか、アッシェは素直に答えた。


「そうかい。遠いところから来たのに、よりにもよってこんな天気とはね」

「本当にね……」


アッシェはちらりと窓の外を見やった。

雨はまだ、しとしとと降り続いている。


店主はそんな彼女の横顔を見て、心配そうに目を細めた。


「ずいぶん暗い顔をしてるね。何かあったのかい?」


アッシェは少しだけ視線を落とす。


「大切な人を、傷つけてしまったの……」

「喧嘩でもしたのかい?」

「……そんなところよ」


曖昧に答えると、店主は小さく笑った。


「私も、昔は妻とよく喧嘩をしたもんだよ」


棚の菓子を整えながら、どこか懐かしむように続ける。


「若い頃の私は、それはもう意地っ張りでね。謝れば済むようなことでも、つまらない意地を張ってしまった」


苦笑するように、肩をすくめる。


「ある時、ひどい喧嘩をしてね。腹が立っていたとはいえ、言ってはいけないことを言ってしまったんだ」


そこで、店主の手が止まった。


「妻は何も言い返さなかった。ただ、悲しそうな顔をしただけだった」


店主は、手にしていた菓子の包みを見つめる。


「謝らなきゃいけないことは、分かっていたんだけどね。明日でいい、機嫌が直ったら話せばいい。そんなふうに思っているうちに、妻は病気になってしまってね」


その声は、先ほどまでよりずっと静かだった。


「気づいた時には、もう長く話せる状態じゃなかった。結局、私は最後まで、あの時の言葉を謝れなかったんだ」


店の外では、雨音だけが静かに鳴っている。


「今でもたまに夢を見るよ。どうして、あの時すぐに謝らなかったんだろうって」


その声には、長い時間を経てもなお消えない後悔が滲んでいた。

アッシェは何も言わず、その話を聞いていた。


「おっと、暗い話をして悪かったね」


店主は小さく苦笑すると、それ以上は語らず、空気を変えるように声の調子を少しだけ明るくした。


「お嬢ちゃん、この街に来るのは初めてかい?」

「いいえ。ずっと前に、一度だけ」


アッシェはそう答えながら、店内へ視線を巡らせた。

並んだ品々のあいだに、いくつか不自然な空白がある。

かつては、もっと多くの商品で埋まっていたのだろう。

今はその名残だけが、静かに残っている。


店主は、どこか遠くを見るように目を細めた。


「それなら、今の街を見て驚いたろうね」

「そうね。前に来たときと比べて、ずいぶん雰囲気が変わっていたわ」

「昔は、この辺りももっと賑やかだったんだけどね」


店主はそう言って、棚の雑貨を指先で整える。

何気ない仕草だったが、その横顔には拭いきれない寂しさが滲んでいた。


アッシェはしばらくその様子を見つめ、それから静かに口を開いた。


「変わったのは、バルド商会ができてから?」


棚に伸びかけた店主の指先が、ぴたりと止まる。


店の中に、短い沈黙が落ちる。

雨音だけが、遠くから薄く聞こえていた。


やがて店主は、ゆっくりとアッシェを見る。


「……お嬢ちゃん、よく知っているね」


先ほどまでの柔らかな空気が、わずかに張りつめる。

それでも、アッシェは視線を逸らさなかった。


「少し、気になることがあったの」

「何か、調べているのかい?」


店主の声から、先ほどまでの気安さが消えていた。


「そうよ」


アッシェは短く答える。


「だから、聞かせて。この街に起きたことを」


店主はしばらく黙っていた。

棚に置いた手に、わずかに力がこもる。


話すべきか迷っているのだろう。

けれど、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「最初はみんな、ただ大きな商会ができただけだと思っていたんだ」


ぽつりと、独り言のように語り出す。


「品揃えが良くて、値段も安い。客が流れるのも仕方ない。商売なんて、そういうものだってね」


そこで、店主は一度言葉を切った。


「……でも、そんな単純な話じゃなかった」

「どういうこと?」


店主は苦い顔をした。


「露店や小さな店に品を卸していた商人たちに、少しずつ圧力がかかり始めたんだ。バルド商会を優先しろ、とね」

「それで従ったの?」


「いいや。商人ってのは、昔からの付き合いを大事にするからね。そう簡単に鞍替えする者ばかりじゃなかった」


そこで、店主の声が少し低くなる。


「だが、そういう連中に限って、荷が届かなくなったり、道中で盗賊に襲われたりすることが続いてね」


アッシェの眉がわずかに寄る。


「偶然とは思えないわね」

「ああ。けれど、誰も口には出さなかったよ」


店主は小さく苦笑した。


「逆らえばどうなるか。それだけで、十分思い知らされたからね」


短い沈黙が落ちる。


「そうして気づけば、この街の物流は押さえられていた。商会を通さなければ、まともな商売もできなくなっていたんだ」


店主はさらに続ける。


「そのうえ、小さな店が資金繰りに困り始めると、今度は商会が金を貸し始めた。法外な利息をつけてね」


店主の目が、店の奥の空いた棚へ向けられた。


「借金を返せなくなれば、店も土地も奪われる。長年この街で商売をしていた連中が、ある日を境に看板を下ろして、スラムへ流れていった」


店主は棚の空白へ目を向ける。


「昨日まで隣で笑っていた顔が、次の日には通りから消えている。そういうことが、何度もあった」


アッシェの脳裏に、さきほど見た薄暗い路地裏の光景がよぎる。


「誰も声を上げなかったの?」


店主はすぐには答えなかった。

苦いものを噛みしめるように、わずかに目を伏せる。


「……上げたよ」


低い声だった。


「商会に怒鳴り込んだやつもいた。仲間を集めて抗議しようとした者もいた」


そこで一度、言葉を切る。


「けど、商会の後ろには『セルペンス』と呼ばれる裏社会の連中がついていてね」

「……セルペンス」


聞いたことのない名だった。

だが、その響きは妙に耳に残った。


「連中は刃向かった者たちを、見せしめのように潰していった。だから誰も、逆らえなくなったんだ」


活気を失った表通り。

借金取りのような男。

スラム街へ流れ着いた者たち。


ばらばらだったものが、頭の中で一本の線になってつながっていく。


店主は、アッシェの表情を見て小さく息をついた。


「私も昔から付き合いのあった商人が何人もいたが、そのほとんどが連中に潰されたよ」


自嘲するように、力なく笑う。


「だから、悪いことは言わない。お嬢ちゃんが何を調べているかは聞かないが、商会には関わらない方がいい」


店主は、真剣な目をしていた。


「閑古鳥が鳴いているとはいえ、うちみたいにひっそり続けられるだけありがたいさ」


アッシェはしばらく黙っていた。

それから、ふと口を開く。


「……なぜ、まだ店を続けるの?」


店主は少しだけ目を瞬かせ、それから棚に並ぶ品々へ視線を向けた。


「なんでだろうね」


ぽつりと、独り言のように漏らす。


「自分でも、うまくは説明できない。ただ、どうしてか畳む気になれなくてね」


窓の外へ目を向ける。

雨はいつの間にか弱まり、軒先から落ちる雫の音だけが細く続いていた。


「この店には、妻との思い出が残っているんだ」


店主は、静かに棚を見つめる。


「若い頃に二人で始めた店でね。喧嘩もしたけど、楽しいこともたくさんあった。この菓子はね、妻が好きだったんだよ」


その声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。


「店まで失ってしまったら、本当に何も残らない気がしてね。だから、今でも続けているのかもしれないね」


その言葉には、どこか執着めいたものが潜んでいた。


アッシェは店主の横顔を見つめたまま、低く問う。


「商会が憎い?」


店主は少しだけ首を傾げた。


「そうだね……恨む気持ちがないかと言えば、嘘になるね」


その目は、どこか遠くを見ていた。

もう戻らない、昔の通りの賑わいでも見つめているようだった。


「でも、不思議と、そればかりでもないんだ」

「それはどうして?」

「いくら憎んでも、戻ってこないものばかりだからさ」


店主は静かに笑った。

けれど、その笑みには力がない。


「卑怯なやり方には、今でも納得なんてしていないよ」


そこで一度、言葉を切る。


「だけどね、最近はこうも思うんだよ。最初から、こうなる運命だったんじゃないかって」

「運命……?」


アッシェの声には、わずかに熱がこもる。


「運命だったら、仕方ないって受け入れるの?」


店主はすぐには答えなかった。

棚に置いた手が、わずかに強ばる。


だが次の瞬間には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。


「ああ……でも、受け入れたっていうよりは、諦めたのかもしれないね」


その言い方は、ひどく静かだった。

そして、それ以上、店主は語らなかった。


アッシェもまた、言葉を継がなかった。


店主の言う「諦め」を、アッシェは理解できない。

奪われたことを運命だと片づけて、その場に立ち尽くすことなど、彼女には考えられなかった。


奪われたのなら、奪い返せばいい。

踏みにじられたのなら、相応の報いを返させるべきだ。


少なくともアッシェは、そのために生きてきた。

だからこそ、店主の静かな諦めは、アッシェにはひどく遠いものに思えた。


「すまなかったね。また暗い話をしてしまって」


店主は申し訳なさそうに目尻を下げた。

重くなってしまった空気を、少しでも和らげようとしているのが、その穏やかな口調から伝わってくる。


「そんなことないわ」


アッシェは静かに首を振る。


「話が聞けてよかった」


それは気休めではなかった。

この街の歪みが、ようやく一本の線でつながり始めていた。


そのとき、ふと店の奥から甘い香りが流れてきた。


焼き菓子の匂いだった。

素朴でやさしく、どこか懐かしい香り。

張りつめていた気持ちの奥を、そっとほどくような匂いだった。


アッシェは無意識のうちに視線を向ける。


棚の端に、小さな包みがいくつか並んでいた。

飾り気のない紙袋に入った、丸いクッキー。


その視線に気づいた店主が、口元をゆるめた。


「クッキーが気になるのかい?」


少し間を置いてから、アッシェは小さく首を横に振った。


「……私じゃないわ」


そう答えながらも、視線は棚の上の包みに留まったままだった。


素朴な焼き色も、飾り気のない紙袋も、口元を留める細い紐も。

どれも特別なものではないはずなのに、なぜか目を離せなかった。


アッシェはそっと棚へ手を伸ばす。

ほとんど気まぐれのように、そのうちのひとつを手に取った。


「これ、もらうわ」


そう言ってカウンターまで歩き、包みを静かに置く。

それから硬貨を数枚取り出し、店主へ差し出した。


店主はそれを受け取ると、包みの口元を丁寧に整え、そっとアッシェへ差し出した。


「はい、どうぞ」


アッシェは店主のやさしい笑顔を見つめ、無言で包みを受け取った。


いつの間にか、外の雨音は止んでいた。

静まり返った店先の向こうで、雲の切れ間から淡い光が差し始めている。


「もう行くわ」

「そうかい」


店主は穏やかに頷いた。


「気をつけてね。ちゃんと、仲直りできるといいね」

「ええ」


短く答え、アッシェが踵を返しかけた――そのときだった。


空を覆っていた雨雲が、ふいに途切れた。


雲間から差し込んだ夕陽が、薄暗い店内を斜めに走る。

その光が、出口へ向かうアッシェの背を照らした。


その瞬間、彼女の髪色が変わって見えた。


普段は月光のように冷たい白銀の髪が、夕陽を受けた一瞬だけ、燃えるような朱に染まる。


ほんのわずかな間だった。

それなのに、妙に目に焼きつく鮮やかさだった。


背後で、店主がはっと息を呑む。


「お嬢ちゃん……」


しわがれた声が、かすかに震えていた。


「昔、どこかで……会ったことが、あったかい……?」


大きく見開かれたその目は、目の前の少女ではなく、もっと遠い昔の誰かを見ているようだった。


アッシェの足が、ぴたりと止まる。

けれど、振り返りはしなかった。

店の中に、ほんの短い沈黙が落ちる。


やがてアッシェは、背を向けたまま静かに口を開いた。


「……気のせいよ」


冷たく突き放すような声だった。

それでいて、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。


「ここに来るのは、今日が初めてだもの」


そう言い切ると、アッシェは重い木の扉を押し開けた。


カラン、とベルの音が鳴る。

店主は、閉まりゆく扉の向こうをしばらく見つめたまま動けなかった。


やがて扉が閉まり、ベルの余韻が消えると、店の中には静けさだけが残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ