リオネル②
アッシェは、雨に濡れながら一人で歩いていた。
冷たい雨粒が白銀の髪を伝い、首筋を静かに滑り落ちていく。
黒い衣もじわじわと水を吸い、肩に重く張りついていた。
それでも、足を止める気にはなれなかった。
(どうして、私はあの兄妹を助けたのだろう)
胸の内で、何度も同じ問いを繰り返す。
軽率だった。
マロンの言うとおり、踏み込むべきではなかった。
あの兄妹だけが特別だったわけではない。
このスラムには、同じように奪われ、追い詰められ、行き場をなくした者たちがいくらでもいる。
たった二人に手を差し伸べたところで、この街の何かが変わるわけではない。
そもそも、自分がすべきことは、人を救うことではない。
目的はただ一つ。
エルドレッド家を陥れた者たちに復讐を果たすこと。
そのために、まずはバルド商会の闇を暴き、その先にいる敵へ辿り着く。
感傷に足を取られている暇など、どこにもない。
それなのに、あの兄妹を見捨てられなかった。
優しさなんかではない。
ただ、救えなかった妹の面影に引きずられただけだ。
あのとき守れなかったものを、あの少女の姿に重ねた。
そして今度こそ救えたのだと、そう思いたかっただけなのかもしれない。
結局、自分のためにしたことだ。
身勝手な自己満足にすぎない。
アッシェは小さく息を吐いた。
吐き出した息さえ、雨の中に溶けるように消えていく。
ふと、悲しそうに揺れたマロンの顔が脳裏をよぎった。
大切な仲間を、一人にしてしまった。
「……マロンには悪いことをしたわね」
呟いた声は、雨音に紛れてすぐに消えた。
気づけば、街の中心近くまで戻ってきていた。
スラムの薄暗さは少しずつ遠のき、通りは広く、石畳もいくぶん整っている。
それでも空は重く曇ったままで、雨に濡れた街並みはどこか色を失って見えた。
そのとき、ふと一軒の店が目に留まる。
間口は小さく、年季の入った木の看板が雨に濡れていた。
飾り気のない店構えだったが、どこか懐かしい雰囲気がある。
理由は分からない。
けれど、その店の前で、アッシェの足は自然と止まっていた。
吸い寄せられるように扉へ手を伸ばす。
カラン、と乾いたベルの音が鳴った。
「いらっしゃい」
温かみのある声が出迎えた。
カウンターの向こうにいたのは、初老の店主だった。
白髪の混じった髪に、深い皺。
けれど、その目には不思議なやわらかさがある。
「おや、珍しいお客さんだね」
店内は小ぢんまりとしていた。
棚には雑貨や菓子、日用品がきちんと並び、古びてはいても隅々まで丁寧に手入れされている。
狭い空間に、静かな清潔さが満ちていた。
店主はアッシェの姿を見るなり、眉を寄せる。
「ずぶ濡れじゃないか」
そう言うが早いか、返事も待たずに奥へ引っ込んだ。
ほどなくして、清潔なタオルを手に戻ってくる。
「ほら、使って」
差し出されたそれを受け取るより早く、店主はアッシェの濡れた髪へ手を伸ばした。
ぽん、ぽん、と軽く水気を拭われる。
雨の日に帰ってきた子どもを世話するような、優しい手つきだった。
「風邪を引いてしまうよ」
その言葉に、アッシェは遅れて我に返った。
いつの間にか、店の中でぼんやり立ち尽くしていたことに気づく。
アッシェはタオルをそっと受け取り、濡れた髪を軽く押さえた。
「ごめんなさい。お店を濡らしてしまったわね。このタオルは買い取らせてもらうわ」
「そんなことはいいから」
店主は穏やかに笑った。
「お嬢ちゃん。見ない顔だけど、どこから来たんだい?」
「王都からよ」
店主の気さくな態度に少し気を許したのか、アッシェは素直に答えた。
「そうかい。遠いところから来たのに、よりにもよってこんな天気とはね」
「本当にね……」
アッシェはちらりと窓の外を見やった。
雨はまだ、しとしとと降り続いている。
店主はそんな彼女の横顔を見て、心配そうに目を細めた。
「ずいぶん暗い顔をしてるね。何かあったのかい?」
アッシェは少しだけ視線を落とす。
「大切な人を、傷つけてしまったの……」
「喧嘩でもしたのかい?」
「……そんなところよ」
曖昧に答えると、店主は小さく笑った。
「私も、昔は妻とよく喧嘩をしたもんだよ」
棚の菓子を整えながら、どこか懐かしむように続ける。
「若い頃の私は、それはもう意地っ張りでね。謝れば済むようなことでも、つまらない意地を張ってしまった」
苦笑するように、肩をすくめる。
「ある時、ひどい喧嘩をしてね。腹が立っていたとはいえ、言ってはいけないことを言ってしまったんだ」
そこで、店主の手が止まった。
「妻は何も言い返さなかった。ただ、悲しそうな顔をしただけだった」
店主は、手にしていた菓子の包みを見つめる。
「謝らなきゃいけないことは、分かっていたんだけどね。明日でいい、機嫌が直ったら話せばいい。そんなふうに思っているうちに、妻は病気になってしまってね」
その声は、先ほどまでよりずっと静かだった。
「気づいた時には、もう長く話せる状態じゃなかった。結局、私は最後まで、あの時の言葉を謝れなかったんだ」
店の外では、雨音だけが静かに鳴っている。
「今でもたまに夢を見るよ。どうして、あの時すぐに謝らなかったんだろうって」
その声には、長い時間を経てもなお消えない後悔が滲んでいた。
アッシェは何も言わず、その話を聞いていた。
「おっと、暗い話をして悪かったね」
店主は小さく苦笑すると、それ以上は語らず、空気を変えるように声の調子を少しだけ明るくした。
「お嬢ちゃん、この街に来るのは初めてかい?」
「いいえ。ずっと前に、一度だけ」
アッシェはそう答えながら、店内へ視線を巡らせた。
並んだ品々のあいだに、いくつか不自然な空白がある。
かつては、もっと多くの商品で埋まっていたのだろう。
今はその名残だけが、静かに残っている。
店主は、どこか遠くを見るように目を細めた。
「それなら、今の街を見て驚いたろうね」
「そうね。前に来たときと比べて、ずいぶん雰囲気が変わっていたわ」
「昔は、この辺りももっと賑やかだったんだけどね」
店主はそう言って、棚の雑貨を指先で整える。
何気ない仕草だったが、その横顔には拭いきれない寂しさが滲んでいた。
アッシェはしばらくその様子を見つめ、それから静かに口を開いた。
「変わったのは、バルド商会ができてから?」
棚に伸びかけた店主の指先が、ぴたりと止まる。
店の中に、短い沈黙が落ちる。
雨音だけが、遠くから薄く聞こえていた。
やがて店主は、ゆっくりとアッシェを見る。
「……お嬢ちゃん、よく知っているね」
先ほどまでの柔らかな空気が、わずかに張りつめる。
それでも、アッシェは視線を逸らさなかった。
「少し、気になることがあったの」
「何か、調べているのかい?」
店主の声から、先ほどまでの気安さが消えていた。
「そうよ」
アッシェは短く答える。
「だから、聞かせて。この街に起きたことを」
店主はしばらく黙っていた。
棚に置いた手に、わずかに力がこもる。
話すべきか迷っているのだろう。
けれど、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「最初はみんな、ただ大きな商会ができただけだと思っていたんだ」
ぽつりと、独り言のように語り出す。
「品揃えが良くて、値段も安い。客が流れるのも仕方ない。商売なんて、そういうものだってね」
そこで、店主は一度言葉を切った。
「……でも、そんな単純な話じゃなかった」
「どういうこと?」
店主は苦い顔をした。
「露店や小さな店に品を卸していた商人たちに、少しずつ圧力がかかり始めたんだ。バルド商会を優先しろ、とね」
「それで従ったの?」
「いいや。商人ってのは、昔からの付き合いを大事にするからね。そう簡単に鞍替えする者ばかりじゃなかった」
そこで、店主の声が少し低くなる。
「だが、そういう連中に限って、荷が届かなくなったり、道中で盗賊に襲われたりすることが続いてね」
アッシェの眉がわずかに寄る。
「偶然とは思えないわね」
「ああ。けれど、誰も口には出さなかったよ」
店主は小さく苦笑した。
「逆らえばどうなるか。それだけで、十分思い知らされたからね」
短い沈黙が落ちる。
「そうして気づけば、この街の物流は押さえられていた。商会を通さなければ、まともな商売もできなくなっていたんだ」
店主はさらに続ける。
「そのうえ、小さな店が資金繰りに困り始めると、今度は商会が金を貸し始めた。法外な利息をつけてね」
店主の目が、店の奥の空いた棚へ向けられた。
「借金を返せなくなれば、店も土地も奪われる。長年この街で商売をしていた連中が、ある日を境に看板を下ろして、スラムへ流れていった」
店主は棚の空白へ目を向ける。
「昨日まで隣で笑っていた顔が、次の日には通りから消えている。そういうことが、何度もあった」
アッシェの脳裏に、さきほど見た薄暗い路地裏の光景がよぎる。
「誰も声を上げなかったの?」
店主はすぐには答えなかった。
苦いものを噛みしめるように、わずかに目を伏せる。
「……上げたよ」
低い声だった。
「商会に怒鳴り込んだやつもいた。仲間を集めて抗議しようとした者もいた」
そこで一度、言葉を切る。
「けど、商会の後ろには『セルペンス』と呼ばれる裏社会の連中がついていてね」
「……セルペンス」
聞いたことのない名だった。
だが、その響きは妙に耳に残った。
「連中は刃向かった者たちを、見せしめのように潰していった。だから誰も、逆らえなくなったんだ」
活気を失った表通り。
借金取りのような男。
スラム街へ流れ着いた者たち。
ばらばらだったものが、頭の中で一本の線になってつながっていく。
店主は、アッシェの表情を見て小さく息をついた。
「私も昔から付き合いのあった商人が何人もいたが、そのほとんどが連中に潰されたよ」
自嘲するように、力なく笑う。
「だから、悪いことは言わない。お嬢ちゃんが何を調べているかは聞かないが、商会には関わらない方がいい」
店主は、真剣な目をしていた。
「閑古鳥が鳴いているとはいえ、うちみたいにひっそり続けられるだけありがたいさ」
アッシェはしばらく黙っていた。
それから、ふと口を開く。
「……なぜ、まだ店を続けるの?」
店主は少しだけ目を瞬かせ、それから棚に並ぶ品々へ視線を向けた。
「なんでだろうね」
ぽつりと、独り言のように漏らす。
「自分でも、うまくは説明できない。ただ、どうしてか畳む気になれなくてね」
窓の外へ目を向ける。
雨はいつの間にか弱まり、軒先から落ちる雫の音だけが細く続いていた。
「この店には、妻との思い出が残っているんだ」
店主は、静かに棚を見つめる。
「若い頃に二人で始めた店でね。喧嘩もしたけど、楽しいこともたくさんあった。この菓子はね、妻が好きだったんだよ」
その声には、懐かしさと寂しさが混じっていた。
「店まで失ってしまったら、本当に何も残らない気がしてね。だから、今でも続けているのかもしれないね」
その言葉には、どこか執着めいたものが潜んでいた。
アッシェは店主の横顔を見つめたまま、低く問う。
「商会が憎い?」
店主は少しだけ首を傾げた。
「そうだね……恨む気持ちがないかと言えば、嘘になるね」
その目は、どこか遠くを見ていた。
もう戻らない、昔の通りの賑わいでも見つめているようだった。
「でも、不思議と、そればかりでもないんだ」
「それはどうして?」
「いくら憎んでも、戻ってこないものばかりだからさ」
店主は静かに笑った。
けれど、その笑みには力がない。
「卑怯なやり方には、今でも納得なんてしていないよ」
そこで一度、言葉を切る。
「だけどね、最近はこうも思うんだよ。最初から、こうなる運命だったんじゃないかって」
「運命……?」
アッシェの声には、わずかに熱がこもる。
「運命だったら、仕方ないって受け入れるの?」
店主はすぐには答えなかった。
棚に置いた手が、わずかに強ばる。
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「ああ……でも、受け入れたっていうよりは、諦めたのかもしれないね」
その言い方は、ひどく静かだった。
そして、それ以上、店主は語らなかった。
アッシェもまた、言葉を継がなかった。
店主の言う「諦め」を、アッシェは理解できない。
奪われたことを運命だと片づけて、その場に立ち尽くすことなど、彼女には考えられなかった。
奪われたのなら、奪い返せばいい。
踏みにじられたのなら、相応の報いを返させるべきだ。
少なくともアッシェは、そのために生きてきた。
だからこそ、店主の静かな諦めは、アッシェにはひどく遠いものに思えた。
「すまなかったね。また暗い話をしてしまって」
店主は申し訳なさそうに目尻を下げた。
重くなってしまった空気を、少しでも和らげようとしているのが、その穏やかな口調から伝わってくる。
「そんなことないわ」
アッシェは静かに首を振る。
「話が聞けてよかった」
それは気休めではなかった。
この街の歪みが、ようやく一本の線でつながり始めていた。
そのとき、ふと店の奥から甘い香りが流れてきた。
焼き菓子の匂いだった。
素朴でやさしく、どこか懐かしい香り。
張りつめていた気持ちの奥を、そっとほどくような匂いだった。
アッシェは無意識のうちに視線を向ける。
棚の端に、小さな包みがいくつか並んでいた。
飾り気のない紙袋に入った、丸いクッキー。
その視線に気づいた店主が、口元をゆるめた。
「クッキーが気になるのかい?」
少し間を置いてから、アッシェは小さく首を横に振った。
「……私じゃないわ」
そう答えながらも、視線は棚の上の包みに留まったままだった。
素朴な焼き色も、飾り気のない紙袋も、口元を留める細い紐も。
どれも特別なものではないはずなのに、なぜか目を離せなかった。
アッシェはそっと棚へ手を伸ばす。
ほとんど気まぐれのように、そのうちのひとつを手に取った。
「これ、もらうわ」
そう言ってカウンターまで歩き、包みを静かに置く。
それから硬貨を数枚取り出し、店主へ差し出した。
店主はそれを受け取ると、包みの口元を丁寧に整え、そっとアッシェへ差し出した。
「はい、どうぞ」
アッシェは店主のやさしい笑顔を見つめ、無言で包みを受け取った。
いつの間にか、外の雨音は止んでいた。
静まり返った店先の向こうで、雲の切れ間から淡い光が差し始めている。
「もう行くわ」
「そうかい」
店主は穏やかに頷いた。
「気をつけてね。ちゃんと、仲直りできるといいね」
「ええ」
短く答え、アッシェが踵を返しかけた――そのときだった。
空を覆っていた雨雲が、ふいに途切れた。
雲間から差し込んだ夕陽が、薄暗い店内を斜めに走る。
その光が、出口へ向かうアッシェの背を照らした。
その瞬間、彼女の髪色が変わって見えた。
普段は月光のように冷たい白銀の髪が、夕陽を受けた一瞬だけ、燃えるような朱に染まる。
ほんのわずかな間だった。
それなのに、妙に目に焼きつく鮮やかさだった。
背後で、店主がはっと息を呑む。
「お嬢ちゃん……」
しわがれた声が、かすかに震えていた。
「昔、どこかで……会ったことが、あったかい……?」
大きく見開かれたその目は、目の前の少女ではなく、もっと遠い昔の誰かを見ているようだった。
アッシェの足が、ぴたりと止まる。
けれど、振り返りはしなかった。
店の中に、ほんの短い沈黙が落ちる。
やがてアッシェは、背を向けたまま静かに口を開いた。
「……気のせいよ」
冷たく突き放すような声だった。
それでいて、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「ここに来るのは、今日が初めてだもの」
そう言い切ると、アッシェは重い木の扉を押し開けた。
カラン、とベルの音が鳴る。
店主は、閉まりゆく扉の向こうをしばらく見つめたまま動けなかった。
やがて扉が閉まり、ベルの余韻が消えると、店の中には静けさだけが残った。




