12話 儚い兄妹
中は薄暗く、外よりもひんやりとしていた。
入ってすぐ右手には、小さな居間のような場所がある。
置かれているのは、古びた机と椅子だけ。
棚には欠けた食器がいくつか寄せられ、生活に必要な最低限のものだけが並んでいた。
床板はところどころ軋み、隙間から冷たい風が入り込んでいる。
部屋の隅には雨漏りを受けるための桶が置かれ、湿った空気が家の中に染みついていた。
子ども二人で暮らしていくには、あまりにも心許ない場所だった。
「こっちです」
ヘンゼが先に立ち、狭い通路を奥へ進んでいく。
壁際には使い古した布が積まれ、隅には埃が薄く溜まっていた。
その先にある小部屋に入る。
部屋の隅には薄い布団が敷かれていた。
その上に、ひとりの少女が横たわっている。
小さな体は布団に沈み込むほど華奢で、掛け布から出た腕も驚くほど細い。
額には濡れ布が置かれていたが、頬は熱を帯び、赤く火照っていた。
呼吸は浅い。
ときおり苦しそうに胸が上下し、そのたびに喉の奥でかすかな音が鳴る。
それでも、兄の姿を見つけた瞬間、少女の顔にはぱっと明るい笑みが浮かんだ。
「おかえりなさい、ヘンゼお兄様!」
苦しそうな呼吸とは不釣り合いなほど、その声だけは明るかった。
「ただいま、グレーテ」
ヘンゼはやわらかく答える。
その声は、さっきまでアッシェたちに向けていたものとはまるで違っていた。
布団に横たわった少女――グレーテは、すぐに兄の後ろへ視線を向けた。
熱に浮かされているはずなのに、その瞳には隠しきれない好奇心が宿っている。
「お兄様、その方たちは……?」
「街で出会った魔法使いのお姉さんたちだよ」
ヘンゼがそう言うと、グレーテはぱちりと目を見開いた。
「魔法が使えるんですか?」
弱っているはずなのに、その一言だけは少し弾んでいた。
まるで絵本の中の登場人物を見るような、まっすぐな瞳だった。
そんな妹の様子に、ヘンゼは少しだけ口元を緩める。
「妹のグレーテです。魔法なんて見たことないから、嬉しくなってるんです」
「もう、ヘンゼお兄様!」
グレーテは頬を膨らませてみせた。
けれど、本気で怒っているわけではない。
その目元には、兄に向ける親しみと甘えが滲んでいた。
「仲が良いのね」
アッシェは穏やかな声で言った。
「私はアッシェ。それと、こちらはマロンよ」
マロンは小さく頭を下げる。
「アッシェさんと、マロンさん……」
グレーテは二人の名前を確かめるように、そっと繰り返した。
それから、はっとしたように表情を改める。
「す、すみません。私、寝たままで……」
苦しいはずなのに、まず気にするのは自分の体ではなく、客人への礼儀だった。
そのきちんとした言い方に、アッシェは一瞬だけ目を細める。
どこか、遠い記憶をくすぐる仕草だった。
「構わないわ」
アッシェは布団のそばに膝をつく。
「少し、体を診るわね」
静かな声に、グレーテは小さく瞬きをした。
「え……?」
「私の魔法で、その苦しさを少しは和らげられるかもしれない」
その言葉に、グレーテは驚いたように目を見開く。
だが、すぐに不安そうに視線を揺らした。
「でも……私たち、お金なんて……」
「必要ないわ」
アッシェはきっぱりと言った。
迷いのない声だった。
グレーテは言葉に詰まり、戸惑うように兄を見る。
ヘンゼが妹を安心させるように、小さく頷いた。
「……お願いしよう、グレーテ」
グレーテは兄を見て、それからアッシェへ視線を戻す。
まだ少し不安そうだったが、やがて布団の中でゆっくりと頷いた。
「よろしく……お願いします」
アッシェは短く頷き、そっと少女の手首に指を添えた。
指先に伝わる脈は細く、弱い。
熱も高い。
ただの疲労や風邪ではないことは、すぐに分かった。
額に触れ、首筋へ指を滑らせる。
呼吸の浅さを確かめようとした、そのときだった。
アッシェの指先が、ぴたりと止まる。
白い肌に、黒い斑が浮かんでいた。
皮膚の下から滲み出たような、不気味な色。
熱に浮かされた赤みとは、明らかに違うものだった。
「……これは」
低くこぼれた声に、ヘンゼが息を呑む。
「な、何か分かったんですか……?」
アッシェはすぐには答えなかった。
黒い斑。
焼けつくような高熱。
浅く、苦しげな呼吸。
そのひとつひとつが、胸の奥に沈めていた記憶を静かに引きずり上げていく。
まだ幼かった妹も、同じように熱にうなされていた。
額に触れるたび、指先が焼けるように熱かった。
――けれど、あのときは薬が効いた。
熱は少しずつ下がり、斑も薄れ、妹はすぐに回復した。
だからこそ、目の前の症状が何を意味するのか、アッシェには分かってしまった。
アッシェはゆっくりと息を吐き、視線を落とす。
「以前、これに似た症状を見たことがあるわ」
静かな声だった。
「かなり体力を消耗している。このままでは危ないでしょうね」
「そんな……」
ヘンゼの顔が、目に見えて青ざめる。
グレーテはそんな兄を見て、かすかに笑った。
「お兄様、そんな顔しないでください……」
弱々しい声だった。
それでも、兄を安心させようとしているのが分かった。
その笑みが、アッシェの目には遠い日の妹の姿と重なって見えた。
高い熱にうなされながらも、「大丈夫」と笑ってみせた、あの小さな顔が胸の奥によみがえる。
「心配しないで。私に任せて」
アッシェは静かに告げると、一度だけ目を伏せた。
胸の奥をかすめた記憶を静かに押し沈めるように、短く息をつく。
それから、そっと目を閉じた。
細い指先に、淡い魔力がゆっくりと集まっていく。
「――『回復の刻印』」
淡い白銀の光が、グレーテの体をやさしく包み込んだ。
柔らかな輝きは波のように広がり、強ばっていた小さな体を静かに撫でていく。
荒く乱れていた呼吸が、少しずつ穏やかになっていった。
グレーテが、ぱちりと目を瞬かせる。
「……あったかい」
こぼれた声には、驚きよりも安堵の色が濃かった。
アッシェは魔法を解き、少女の顔を覗き込む。
「体の調子はどう?」
グレーテは胸元にそっと手を当て、小さく頷いた。
「少し……体が楽になった気がします」
そう言って、かすかに微笑む。
弱々しい笑みだった。
けれど、それだけで張りつめていた部屋の空気が、ふっとやわらいだ。
ヘンゼの顔にも、ようやく安堵の色が差す。
沈みかけていた心に、かすかな光が届いたようだった。
「そう。それならよかった」
アッシェの声も、ほんの少しだけやわらぐ。
グレーテは息を整えるように小さく身じろぎし、それから口を開いた。
「アッシェさん……ありがとうございます」
「礼なら不要よ」
アッシェはそう言って、ずれていた濡れ布をそっと額に戻す。
その手つきは静かで、思いのほかやさしかった。
けれど、次に告げた声は、どこまでも冷静だった。
「でも、今は少し楽になっただけ。まだ安心できる状態じゃないわ」
ヘンゼの表情が、わずかに強張る。
アッシェは兄妹の方へ向き直り、落ち着いた声で告げた。
「今の魔法で、弱った体力は少し戻せたわ。でも、病気そのものが治ったわけじゃない」
「じゃあ……グレーテはまだ……?」
ヘンゼの声が震える。
「完全に治すためには、やはり薬がいるわ」
「薬……」
ヘンゼは呆然と、その言葉を繰り返した。
分かっていた。
グレーテを助けるには、薬が必要なのだと。
だからこそ、盗みまでした。
けれど、手に入れた金では足りなかった。
どれだけ足掻いても届かない現実が、また目の前に立ちはだかる。
せっかく差し込んだ光が、ゆっくりと遠のいていくようだった。
ヘンゼは何も言えず、唇を強く結んだ。
アッシェは、うつむいたままのヘンゼをしばらく見つめていた。
それから無言で懐に手を入れると、取り出した金貨を彼の手にそっと握らせる。
「これで薬を買いなさい」
「……え?」
ヘンゼが手のひらを開いた瞬間、目を見開いた。
金貨が三枚。
一枚でも、スラムで暮らす子どもには見たこともないような大金だ。
「お、お姉さま……!?」
横でマロンが思わず声を漏らす。
だが、アッシェは振り返らなかった。
「薬だけじゃないわ。栄養のあるものを食べさせて、しばらくは安静にさせなさい。そうすれば、すぐに良くなるはずよ」
ヘンゼは手のひらの金貨を、信じられないものを見るように見つめていた。
「……いいんですか? こんな大金……」
声が震えている。
薬を買っても、まだ余る。
これだけあれば、食べるものにも当分困らないだろう。
マロンは眉をひそめたままアッシェを見る。
何か言いたげだったが、結局は口をつぐんだ。
アッシェは身をかがめ、ヘンゼの耳元にだけ届く声で囁いた。
「……ただし、条件があるわ」
グレーテには聞こえないほどの小さな声だった。
「盗みは、もうやめなさい」
ヘンゼの肩がぴくりと揺れる。
「それだけあれば、しばらく生活には困らないはずよ。だからもう、人のものを奪わなくていい」
ヘンゼは黙ったまま、金貨を強く握りしめる。
「それと、勉強しなさい」
「勉強……?」
戸惑うヘンゼに、アッシェはまっすぐ言った。
「読み書きや計算を覚えなさい。これから生きていく上で、必要になることよ」
ヘンゼは何も言えなかった。
アッシェは静かに続ける。
「私が助けてあげられるのは、ここまでよ」
部屋に、しばし沈黙が落ちた。
ヘンゼは手の中の金貨を見つめたまま、ただ立ち尽くしていた。
小さく震える指先に、金貨の重みだけがやけにはっきりと伝わっている。
やがて、彼はそれをぎゅっと握りしめた。
その瞬間、張りつめていたものがわずかに緩む。
目の奥に溜まっていた涙が、ぽたりと落ちた。
「俺……ちゃんとした大人になります」
小さな声だった。
けれど、その言葉だけは驚くほどはっきりしていた。
アッシェは何も言わず、ただ静かに彼を見つめる。
「たくさん勉強して、ちゃんとした仕事に就いて……自分の力でグレーテを守ります」
ヘンゼの肩が、かすかに揺れた。
「今はまだ、ダメな兄ちゃんだけど……」
喉が詰まり、言葉が途切れる。
それでも、どうにか息を継ぎ、絞り出すように続けた。
「いつか、胸を張って生きていけるように……俺、頑張ります」
途切れ途切れの声でそう言って、ヘンゼは深く頭を下げた。
「だから……助けてくれて、ありがとうございます」
袖で目元を拭っても、涙は止まらなかった。
「お、お兄様……」
その姿を見ていたグレーテの目にも、じわりと涙が浮かぶ。
布団の中で少しだけ身を起こし、かすれた声で兄を呼んだ。
「泣かないでください……」
そう言った自分の頬も、もう涙で濡れていた。
「わたしが病気なんかになったから……お兄様にばっかり頑張らせて……」
苦しそうに息をしながら、それでも懸命に言葉をつなぐ。
細い肩が震え、そのたびに涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「ごめんなさい……」
「グレーテは何も悪くない!」
ヘンゼははっと顔を上げ、慌てて妹のそばに膝をついた。
グレーテは涙に濡れた顔のまま、小さく首を横に振る。
ヘンゼは何も言わず、自分の袖で妹の目元をやさしく拭った。
その袖口を、グレーテの小さな指がきゅっと掴む。
「わたしも、頑張ります」
ヘンゼが目を見開いた。
「元気になったら、お料理も、お洗濯も、いっぱいできるようになります」
涙で濡れた顔のまま、それでもグレーテは小さな拳を握りしめる。
「今度は、わたしがお兄様を助けます」
か細い声だった。
けれど、その言葉に込められた思いだけは、真っ直ぐだった。
ヘンゼはもう何も言えなかった。
泣き笑いのように顔を歪め、何度も何度も頷く。
「……ああ」
ようやく、それだけを返す。
グレーテも涙を拭いながら、小さく頷いた。
そのやり取りを見つめながら、アッシェは静かに目を伏せる。
胸の奥を、懐かしい痛みがかすめていった。
しばらくして、グレーテがアッシェの方へ向き直る。
まだ目元は赤い。
それでも、その瞳には先ほどまでとは違う、確かな光が宿っていた。
「アッシェさん……本当にありがとうございます」
小さくても、まっすぐな声だった。
アッシェは何も言わず、ただ頷く。
それから、ヘンゼへ視線を向けた。
「薬を飲ませたら、しばらくは安静にさせなさい」
「はい……!」
ヘンゼは金貨を握りしめ、強く頷いた。
アッシェはそれ以上、何も言わなかった。
言葉を重ねれば、この場に残していくものまで重くなってしまいそうだった。
「行きましょう、マロン」
「……はい」
マロンはどこか複雑そうな表情を浮かべながらも、小さく返事をした。
二人が背を向ける。
それに気づいたヘンゼが、慌てて声を上げた。
「アッシェさん、マロンさん……!」
アッシェは振り返らない。
ただ、足だけをほんのわずかに止めた。
ヘンゼは深く頭を下げる。
グレーテも布団の中から、小さく頭を下げた。
「……本当に、ありがとうございました」
アッシェは少しだけ間を置き、静かに告げる。
「……頑張りなさい」
それだけを残して、アッシェはマロンとともに家を出た。
◇◇◇
家を出ると、いつの間にか雨が降り始めていた。
細かな雨粒が土と埃を静かに打っている。
湿った匂いがいっそう濃くなり、ただでさえ薄暗いスラム街は、雨に霞んでさらに沈んで見えた。
アッシェは何も言わずに歩いていた。
黒い衣の肩を、雨粒が静かに濡らしていく。
その横顔はいつも通り落ち着いている。
けれど、マロンには分かった。
今のアッシェは、どこか遠い場所を見ている。
マロンは数歩遅れて、その背を追った。
何度か口を開きかけては閉じる。
それでも、胸の奥に引っかかったものを飲み込むことはできなかった。
「お姉さま……あそこまでする必要、あったんですか……?」
雨音に紛れてしまいそうなほど、小さな声だった。
アッシェは何も答えない。
足取りも変えず、濡れた石畳を静かに進んでいく。
その沈黙が、かえってマロンにはつらかった。
「いくらなんでも……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
情けをかけ過ぎです。
そう言いたかった。
けれど、アッシェの横顔を見た瞬間、その先が喉につかえた。
いつものように冷静で、隙のない横顔。
けれど今は、どこか痛みに耐えているようにも見えた。
マロンは唇を引き結ぶ。
雨は絶え間なく降り続いている。
二人の間に落ちた沈黙もまた、冷たい雨のようにじわじわと染み込んでくる。
「そうね……」
ようやく、アッシェが口を開いた。
それは返事というより、雨の中にこぼれた独り言のようだった。
マロンはためらいながらも、もう一歩だけ踏み込む。
「何か、理由があったんですか?」
アッシェはすぐには答えなかった。
濡れた石畳へ視線を落としたまま、しばらく黙って歩き続ける。
やがて、ぽつりと呟いた。
「あの子が、私の妹に似ていたの」
その一言に、マロンは息を呑んだ。
「お姉さまの……妹、ですか……」
かろうじて、それだけを返す。
アッシェは頷きもしなかった。
ただ前を向いたまま、雨の路地を歩いていく。
マロンも、それ以上は聞けなかった。
聞いてはいけないと思ったわけではない。
ただ、自分はアッシェのことをまだ何も知らないのだと、思い知らされるのがつらかった。
アッシェの中には、自分の知らない痛みがある。
自分には届かない場所に、今も大切にしまわれている存在がいる。
その事実が、雨音よりも冷たく胸に染み込んでいった。
近くにいるはずなのに遠い。
ずっと隣を歩いてきたはずなのに、どうしても届かない場所がある。
二人はしばらく黙って歩いた。
遠くで軒を打つ雨音が重なり、どこかの家の戸が風に揺れて軋んだ。
やがて、アッシェがふと足を止める。
「少し、行きたいところがあるの」
振り返らないままの声だった。
マロンは一瞬、その言葉の意味を測りかねて立ち止まる。
「行きたいところ……ですか?」
「ええ」
アッシェは短く答えた。
「確かめたいことがあるわ」
マロンは反射的に口を開く。
「分かりました。私も一緒にーー」
「いいえ。ここからは一人で動くわ」
静かな声だった。
けれど、その響きは雨よりも冷たく、迷いがなかった。
マロンは目を見開く。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
言いたいことはいくつもあった。
私も一緒に行きます。
ひとりで行かないでください。
もっと、私を頼ってください。
けれど、どの言葉も喉の奥で形を失った。
「……分かりました」
結局、そう答えることしかできなかった。
アッシェはそこで、ようやくほんの少しだけ振り返った。
表情は相変わらず静かだったが、目の奥にかすかなためらいがあった。
「ごめんなさい」
短いその一言が、かえってマロンの胸を締めつける。
謝ってほしかったわけではない。
ひとりで背負わないでほしかった。
置いていかないでほしかった。
けれど、そんな思いはとうとう口にできなかった。
「お気をつけて」
出てきたのは、そんなありきたりな言葉だけだった。
アッシェは再び歩き出す。
黒い背中が、雨の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。
マロンはその場に立ち尽くしたまま、ただ見つめていた。
雨の中に、ひとり取り残されたような気がした。
悔しさなのか。
寂しさなのか。
それとも、もっと別の感情なのか。
自分でも分からない。
ただ、胸の奥がどうしようもなく苦しかった。
「何も話してくれないんですね……」
指先をきゅっと握りしめる。
「お姉さまの隣には、私がいるじゃないですか……」
ぽつりとこぼれた声は、冷たい雨音の中に吸い込まれていった。




