第9話「覚醒の前夜」
夜が明けた。
物置から出ると、朝の空気が冷たかった。リーネが目を細めながら光の中に出た。一晩眠れなかった顔をしていたが、足取りはしっかりしていた。
老婆の家に戻ると、老婆は台所で朝食を作っていた。俺たちを見て、「無事だったか」とだけ言った。それ以上は何も聞かなかった。
朝食を食べながら、エルナを待った。
エルナは午前中に来た。
「昨夜のことは聞いた」扉を開けるなり言った。「怪我はないか」
「ない」
「よかった」エルナは座って、俺とリーネを交互に見た。「昨夜来たのは教団の人間だ。王国の令状は持っていない。王国を騙って動いていた。教団はそういうことを平気でやる」
「紋章石の反応があったのか」
「おそらく。お前が昨夜、気配を漏らしかけた時があっただろう」
俺は少し間を置いた。「気づいていたのか」
「遠くからでも感じた。微かだったが、確かに揺れた。あれを教団の調査員が感知した可能性がある」
リーネが口を開いた。
「私が怖がったから? ヴェイルの黒紋が反応した?」
「お前のせいじゃない」俺は言った。「俺の制御が甘かった」
「でも——」
「お前のせいじゃない」
リーネは黙った。
「今後どうする」エルナが聞いた。
「ここを出る必要があるか」
「今すぐは必要ない。昨夜の気配は微かだった。場所の特定まではできていないはずだ。ただ——また同じことが起きれば、次は特定される」
「つまり、黒紋の制御を早急に身につけろということか」
「そうだ。感情が動いた時、危機を感じた時、黒紋が反応する。その反応を自分でコントロールできるようになる必要がある」エルナは静かに言った。「それができるまでは、どこに行っても同じことが起きる可能性がある」
「方法は」
「一つだけある」エルナは少し間を置いた。「黒紋が反応しようとする感覚を、お前自身が意識の中で掴む練習だ。反応が起きた瞬間に気づいて、意識して鎮める。繰り返すことで、反応の閾値を上げられる」
「具体的にどうやる」
「まず、黒紋が眠っている時の体の感覚を覚える。それを基準にして、少しでも変化が起きた時に気づけるようにする。日常の中で常にその変化を観察し続ける。感情が動いた瞬間、体の奥が変わるかどうかを確認する」
俺は少し考えた。
「それは今からでもできる」
「そうだ。今日から始めろ」
エルナはそれだけ言って立ち上がった。帰るつもりらしかった。
「エルナ」リーネが呼んだ。
エルナが振り返った。
「私にできることはある? ヴェイルを助けるために」
「今は近くにいてやれ。それだけでいい」
「それだけ?」
「お前がいることで、ヴェイルの感情の振れ幅が変わる。一人でいる時より安定する。それは制御にとって有利に働く」エルナは淡々と言った。「役に立っていないわけじゃない」
リーネは少し黙った。それから、「わかった」と頷いた。
エルナが出ていった後、リーネが俺に言った。
「あの人、不器用だよね」
「何が」
「私を気遣う時に、感情じゃなくて理屈で説明する。でも、気遣ってることはわかる」
俺は何も言わなかった。
その日から、エルナに教わった方法を試し始めた。
常に、体の奥の感覚を観察する。
最初は難しかった。日常の中で体の内側に意識を向け続けるのは、慣れていないと疲れる。でも前世から、俺は集中を切らさないことには慣れていた。孤独な時間が長かった分、内側に向かう意識の使い方を知っていた。
三日目に、初めて変化に気づいた。
ロッドと話していて、グレインが割り込んできた時だった。グレインは相変わらず俺への態度が悪かった。「無紋が」と言いかけた瞬間、体の奥がわずかに揺れた。
黒が、動こうとした。
ほんの少しだった。昨夜の物置の時より小さかった。でも確かに感じた。
俺はその感覚を意識の中で掴んだ。掴んで——鎮めた。
黒は、静かになった。
「ヴェイル」リーネがこちらを見ていた。「今、何かあった?」
「わかったか」
「顔が少し変わった。一瞬だけど」
俺の顔が変わった。それは俺自身には確認できないが、リーネが気づいたなら確かだ。
「制御の練習をしている。うまくいった」
「そうか」リーネは少し安心したような顔をした。「グレインに何か言われた時でしょ」
「そうだ」
「ごめん、私が止められなかった」
「関係ない。あれは俺が自分でやるべきことだ」
グレインはすでにどこかに行っていた。ロッドが「あいつ、相変わらずだな」と苦笑いしながら言った。
「気にするな」
「してない」
「そうか。なんか最近、お前落ち着いてるな。前からそうだったけど、最近特に」
「そうか」
「いや、ほめてるんだけど」ロッドは少し笑った。「お前に何があったかは知らないけど、なんか……強くなってる気がする。紋章もないのに」
俺は答えなかった。
でも——ロッドが感じた「何か」は、正しかった。
力が目覚めているわけじゃない。制御ができるようになったわけでもない。
でも、黒の輪郭が、少しずつ俺の中ではっきりしてきていた。
眠っている何かが、そこにある。ずっと待っていた何かが、確かにある。
それを知っている。それだけで、何かが変わっていた。
夜、ベッドに横になって天井を見ていた時、リーネが下から声をかけてきた。
「ねえ」
「何だ」
「黒紋って、使えるようになったら、どうするの」
「何をする、という意味か」
「そう。目的、あるの?」
少し考えた。
「差別がなくなるわけじゃない。教団がいなくなるわけじゃない。でも——少なくとも、踏まれたままでいることはなくなる」
「それが目的?」
「今のところは、それで十分だ」
リーネはしばらく黙っていた。
「私はもっと大きなことを期待してた」
「期待しすぎだ」
「でも、あんたならできると思う。大きなことが」
「なぜ」
「わからない。でもそう思う」
俺は天井を見上げたまま、何も言わなかった。
体の奥の黒が、今夜は穏やかだった。
ざわついていなかった。揺れていなかった。ただ、深く、静かに呼吸していた。
まるで——少しずつ、目覚める準備をしているかのように。




