第8話「教団の影」
教団の調査員を最初に見たのは、学校の帰り道だった。
男だった。三十代くらいで、旅人のような地味な格好をしていた。でも目が違った。人を見る目じゃなかった。何かを探す目だった。街の人間が普通に歩く中で、その男だけが少し違う角度で視線を動かしていた。
俺は路地に入って、遠回りで家に帰った。
その夜、エルナに伝えた。
「背格好は」
「中背。茶色のコート。帽子を深く被っていた。顔の下半分だけ見えた。髭はなかった」
「他に特徴は」
「右手に黒い紋章石を持っていた。指の間に挟んで、時々握り直していた」
エルナの表情が変わった。
「紋章石か」
「知っているか」
「教団が黒紋の気配を感知するために使う特殊な石だ。黒紋の力が一定以上漏れた場所に近づくと、石が反応する。熱を持つ、色が変わる、そういう形で」エルナは低い声で続けた。「お前が八歳の夏に力を漏らした場所、あそこを中心に調べている可能性が高い」
「その場所と今の家は、どのくらい離れている」
「三百メートルほどだ」
沈黙が落ちた。
「移動すべきか」
「いや」エルナはすぐに答えた。「動くと目立つ。今のお前は普通の無紋の子どもだ。調査員は無紋の子どもを怪しまない。紋章石は黒紋の気配に反応するが、お前の黒紋は今は眠っている。眠っている黒紋は感知できない」
「それは確かか」
「確かだ。黒紋が完全に眠っている状態で感知された記録はない。ただし——」エルナは俺を見た。「万が一、何かの拍子に気配が漏れれば別だ。感情が激しく動いた時や、危険にさらされた時は特に注意しろ」
わかった、と頷いた。
次の日も、その次の日も、調査員らしき人影を見かけた。同じ男とは限らなかった。二人いる時もあった。ただ歩いているだけに見えるが、その動き方が違う。一般人の動きじゃなかった。
ロッドがある日の放課後に俺を呼び止めた。
「最近、街に妙なやつらがいる。気づいてるか」
「気づいてる」
「あいつら、何者だと思う」
「わからない」
嘘だった。でも今はロッドに話せる段階じゃなかった。
「なんか怪しいよな。見てる方向が普通じゃない」ロッドは腕を組んだ。「お前の事情と関係あるか」
「なぜそう思う」
「あいつらが街に現れたタイミングと、お前の家がなくなったタイミングが近い。それだけだ」
鋭い、と思った。
「関係ない」
「そうか」ロッドは特に疑う顔もしなかった。「なら俺の考えすぎか。でも何かあれば言えよ。一人で抱えるより、言った方が早く解決することもある」
「わかった」
ロッドは笑って、また人混みに戻っていった。
リーネが俺の隣に来た。ロッドとのやり取りを聞いていたらしい。
「あの人、信用できそう」
「そうだな」
「なのになぜ話さなかったの」
「今は俺の話じゃなく、教団の話だ。俺を助けようとしてロッドが動けば、ロッドが危険にさらされる」
リーネは少し黙った。
「……あんたって、そういうところがある」
「どういうところだ」
「自分のリスクは引き受けて、他人のリスクは引き受けさせない。格好いいっちゃ格好いいけど、少し頑固だと思う」
「頑固じゃない。合理的だ」
「同じことだと思う」
リーネはそれ以上言わなかった。俺も言わなかった。
その日の夜、異変が起きた。
老婆の家に帰って、食事を終えて、裏庭でリーネの練習を見ていた時だった。
裏の路地から、足音がした。
複数人だった。重い足音。訓練された動き方をしている人間の足音だった。
「中に入れ」
リーネに言って、二人で家の中に戻った。老婆の家の子どもたちは寝ていた。老婆も部屋にいた。
足音が近づいてきた。家の前で止まった。
扉を叩く音がした。
「開けろ。王国の者だ。子どもの行方を調べている」
老婆が出てきた。俺たちを見て、何も言わなかった。ただ扉の方に向かった。
老婆が扉を少しだけ開けた。
「何の用だ、こんな夜中に」
「この辺りに最近、新しく来た子どもがいると聞いた。確認させてもらいたい」
「孤児を預かっている。みんな寝てる。起こせるか」
「起こす必要はない。顔を確認するだけでいい」
老婆は少し間を置いた。
「令状はあるか」
「……ない」
「令状のない者を家に入れるいわれはない。朝になったら役所を通して来い」
扉が閉まった。
老婆は振り返って、俺たちを見た。
「裏の窓から出ろ。この路地を北に抜けて、市場の裏手に出る。そこに物置がある。鍵は外から三番目の石の下にある。夜が明けるまでそこにいろ」
「すまない」
「礼はいい」老婆はそっぽを向いた。「とっとと行け」
リーネと二人で裏窓から出た。
路地を走った。足音を消しながら、できるだけ速く。
北に抜けて、市場の裏手に出た。物置を見つけて、石の下の鍵で開けた。中に入って、鍵をかけた。
暗かった。埃の匂いがした。二人で息を殺して、外の音を聞いていた。
しばらくして、足音が遠ざかっていった。
「……行ったみたい」リーネが小声で言った。
「もう少し待て」
五分ほどして、完全に静かになった。
「あいつら、教団か」
「わからない。王国の者と名乗っていた。でも令状を持っていなかった。正規の調査じゃない可能性がある」
「つまり教団が王国の名前を使って動いている、ってこと?」
「そうかもしれない。エルナに確認する」
暗い物置の中で、二人並んで座っていた。
リーネが膝を抱えた。さっきまでと表情が違った。怖がっている顔だった。隠そうとしているが、わかった。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないけど、大丈夫にする」
「正直でいい」
「あんたって、なんでそういう言い方するの。大丈夫かって聞いておいて、正直でいいって」
「大丈夫かと聞いたのは、お前の状態を確認したかったからだ。大丈夫じゃないならそれを前提に動く。大丈夫なフリをされると判断がずれる」
リーネはしばらく黙っていた。
「……こわい」と小さく言った。「さっきの足音、こわかった。ヴァルト家の人間かと思った。違ったかもしれないけど、それでもこわかった」
「そうか」
「慰めてくれないの」
「慰め方がわからない」
リーネは少し笑った。暗い中でも、笑ったのがわかった。
「正直すぎる」
「そうかもしれない」
「でも、嫌いじゃない」
二人でしばらく黙っていた。
体の奥の黒が、今夜はひどくざわついていた。
さっきの足音が引き金になりかけたのを、俺は感じていた。危機に反応しようとした黒を、意識して押さえた。
まだだ、と思った。
ここじゃない。今じゃない。
黒は、渋々というように——静かになった。
夜が明けるまで、二人で物置にいた。




