第7話「黒の輪郭」
一ヶ月が過ぎた。
老婆の家での生活は、思ったより悪くなかった。飯は質素だが量は十分だった。他の子どもたちとの関係も、特に揉めることなく続いていた。リーネは最初の一週間で他の子どもたちとも打ち解けていた。俺はそこまでしなかったが、邪険にもされなかった。
学校では、リーネの存在がクラスに静かな変化をもたらした。
ロッドがリーネに気づいたのは二日目だった。「あいつ、誰だ」と休み時間に俺に聞いてきた。「事情がある。聞くな」と答えたら、「わかった」と引いた。この男は本当に空気が読める。
リーネの魔法の制御は、少しずつ良くなっていた。
毎晩、老婆の家の裏庭で練習していた。俺が横で見ていた。最初は炎と風が競合してうまく分けられなかったが、一週間で片方ずつ出せるようになった。暴発の頻度が明らかに減った。
「また少し安定してきた」リーネが言った。手の上に小さな炎を乗せて、じっと見ていた。揺れているが、制御されていた。
「力の方向が最初より一定になってきてる。次は出力の調節だ」
「出力って、どうやって上げ下げするの」
「意識の量だ。炎なら、火の広がりをどこまで許すかをイメージする。限界を設定するような感覚だ」
リーネは目を閉じた。炎が少し縮んで、また広がった。縮んで、広がった。だんだん、その幅が小さくなっていった。
「……これ、面白い」
「そうだろう」
「教えてもらって初めて気づいたけど、紋章って感覚で使うんじゃなくて、考えて使うものなんだね」
「両方だ。感覚と理解の両方が揃って初めて安定する。感覚だけだと再現性がない。理解だけだと硬くなる」
「あんた、使えもしない魔法のことをよく知ってるね」
「本で読んだことと、お前の練習を見ていてわかったことを合わせてる」
リーネは炎を消して、俺を見た。
「一つ聞いていい?」
「何だ」
「あんたの中にある黒いもの。エルナから少し聞いた。黒紋っていうやつ」
俺は少し間を置いた。
「エルナが話したのか」
「私が聞いた。あんたのことが気になって。エルナは話してくれたけど、全部じゃなかった。あんたに直接聞けって言われた」
しばらく考えた。
リーネには話すつもりはなかった。まだ早い、と思っていた。でも——エルナが話したなら、もう隠す意味はなかった。
「黒紋は、俺の中で眠っている。まだ完全には目覚めていない。でも確かにある」
「それって、危ないもの?」
「場合によっては。知られれば殺しに来る連中がいる」
「誰が」
「まだ名前はわからない。でも存在は確かだ」
リーネはしばらく黙っていた。裏庭の夜風が吹いた。
「私、それを知っても一緒にいていいの?」
「それはお前が決めることだ」
「一緒にいる」リーネはあっさり言った。「もう決めた」
「早くないか」
「あんたは昨日知り合ったばかりの私を助けた。それで十分だ。危ないかどうかは関係ない」
俺は何も言わなかった。
反論する気になれなかった。この少女は、打算じゃなく動く。それが俺には少し新鮮だった。
「一つだけ条件がある」俺は言った。
「何」
「危険な場面で無理をするな。俺のことより自分を優先しろ」
「それはこっちのセリフだけど」
「俺は自分で判断できる。お前も自分で判断しろ。ただ、俺のために無理をするなという意味だ」
リーネは少し考えた。
「……わかった。でも一つだけ言わせて。あんたが無理をしてる時は言う。それだけは聞いて」
「わかった」
二人の間に、静かな沈黙が落ちた。
その夜、エルナが現れた。裏庭の入口に立って、俺たちの練習を見ていた。
「二人とも元気そうだ」
「何か情報があって来たか」
「ある。ヴァルト家の捜索が一段落したらしい。諦めたわけじゃないが、今はそこまで積極的じゃない」エルナはリーネを見た。「安心しろという意味じゃない。ただ、今すぐ動かれる危険は減った」
「わかった」リーネが答えた。「ありがとう」
「礼はいい。それと——」エルナは俺に視線を移した。「少し時間をくれ。二人きりで話したい」
リーネが俺を見た。俺が頷くと、「わかった、中に入ってる」と言って家に戻っていった。
エルナと二人になった。
「リーネに話したか」エルナが聞いた。
「お前が先に話したんだろう」
「輪郭だけだ。詳しいことはお前から聞けと言った」
「話した。全部ではないが、黒紋のことは」
エルナはしばらく黙っていた。星のない夜空を見上げて、また俺を見た。
「お前に一つ伝えておくことがある。白焰教団の動きが出始めている」
俺は黙って続きを待った。
「この街に、教団の調査員が入った。黒紋の気配を追っているらしい。お前が八歳の夏に漏らした力の気配——あれが記録された可能性がある」
「教団には黒紋の気配を感知する手段があるのか」
「ある。希少だが、存在する。そのための専門の術式と人材を教団は持っている」エルナの声が、いつもより低かった。「今はまだお前の場所を特定できていない。でも時間の問題かもしれない」
「何をすべきだ」
「今すぐは何もするな。目立つな。黒紋を使うな。気配を漏らすな」
「わかってる。でも使おうとして使えるものじゃない。まだ制御できていない」
「それは知っている。だからこそ——いつか制御できるようになる前に、教団に見つかれば終わりだ」エルナは俺を真正面から見た。「お前を守る手段を、俺は考えている。でも完璧じゃない。だから一つだけ覚えておいてくれ」
「何だ」
「黒紋が完全に目覚める瞬間がくる。その時が来たら——迷うな。力を出し切れ。中途半端に抑えると、逆に気配が漏れる。全部出すか、全部隠すか、どちらかだ」
全部出すか、全部隠すか。
その言葉が、頭の中に残った。
「わかった」
エルナは頷いて、路地に向かって歩き始めた。
「エルナ」
振り返った。
「白焰教団の調査員が街にいるなら、お前も危険じゃないか。エルフが黒紋について調べているとわかれば、目をつけられる」
エルナは少し驚いたような顔をした。それから、また苦みの混じった笑いをした。
「……お前に心配されるとは思わなかった」
「情報提供者が消えたら困る」
「そうか」エルナは笑ったまま言った。「俺は大丈夫だ。長く生きてきた分、隠れ方は知っている」
そう言って、エルナは路地に消えた。
一人で裏庭に残った。
夜空を見上げた。星のない夜だった。
体の奥の黒が、いつもより少しだけざわついていた。
教団が動いている。
俺はまだ十歳だった。力は眠っている。制御もできていない。
それでも——焦りはなかった。
前世でも、今世でも、俺はずっと最底辺だった。何もない場所から始めてきた。何かを持っていないことには、慣れていた。
慣れていた。だから、これからのことを冷静に考えられた。
今できることを、今やる。それだけだ。
家に戻ると、リーネが起きて待っていた。
「大丈夫だった?」
「問題ない」
「エルナ、何か言ってた?」
「少し動きがある。でも今は関係ない話だ」
リーネはしばらく俺を見ていた。それ以上聞かなかった。
「そう。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
二段ベッドの下段に横になって、天井を見た。
黒は、静かに——でも今夜はいつもより近くに、眠っていた。




