第10話「黒、解放」
黒紋が目覚めたのは、十歳の冬が終わりかけた夜だった。
場所は、学校の帰り道だった。
いつもと違う道を選んだのは、市場の方向から妙な気配を感じたからだった。教団の調査員かもしれない、と思って迂回した。リーネは先に帰していた。一人だった。
路地の角を曲がった瞬間、前から三人の男が来た。
教団の人間だとすぐわかった。地味な格好をしていたが、目が違った。それに——右手の男が、黒い紋章石を握っていた。石が、熱を持っているように赤く光っていた。
俺を見た瞬間、男たちの動きが変わった。
「そこの子ども、止まれ」
逃げることを考えた。でも路地の反対側にも、もう一人いた。囲まれていた。
「お前が黒紋を持っているのはわかっている。大人しくしろ。殺すつもりはない」
嘘だ、と思った。
声の質で、感情の裏に何かを隠す人間の喋り方で、すぐわかった。この男たちは俺を生かして連れ帰るつもりはない。気配を感知した時点で、処分の対象になっている。
体が動こうとした。
でも逃げ道がなかった。
男が手を挙げた。指先に炎紋が光った。本物の炎だった。小さいが制御されていた。戦闘経験のある人間の魔法だった。
「動くな。動けば焼く」
体の奥が、揺れた。
今までで一番大きな揺れだった。昨夜の物置の時より、グレインに言われた時より、ずっと大きかった。
黒が——動こうとしていた。
エルナの声が頭の中で聞こえた気がした。
——全部出すか、全部隠すか、どちらかだ。
隠せる状況じゃなかった。
男が一歩近づいた。紋章石がさらに赤く光った。
俺は目を閉じた。
体の奥に向かって、意識を下ろした。黒がいる場所まで。眠っていた場所まで。
黒は——待っていた。
ずっと前から、待っていた。
俺は迷わなかった。
開けろ。
それだけ思った。言葉にする必要もなかった。意識がそこに届いた瞬間、扉が開いた。
音はなかった。光もなかった。
ただ——世界の色が変わった。
視界が、黒に染まった。正確には、黒が見えたわけじゃない。それ以外の色が、全部薄くなった。男たちの体が、違う形に見えた。輪郭じゃなかった。内側が見えた。魔法の構造が見えた。炎紋の形、力の流れ方、どこが収束してどこが放たれるか、全部が設計図みたいに浮かんだ。
「……な、なんだ」
先頭の男が後ずさった。
紋章石が——砕けた。
男の手の中で、音もなく粉々になった。
三人が顔を見合わせた。俺は何もしていなかった。ただ立っていた。でも男たちの顔に、あの夜の三人と同じものが浮かんでいた。
恐怖だった。
本能的な、説明のつかない恐怖。
でも教団の人間は、路地裏の子どもたちとは違った。恐怖を感じながらも、逃げなかった。先頭の男が奥歯を噛んで、炎紋に力を込めた。
「構わない、やれ」
炎が——来た。
俺は動かなかった。
体が勝手に、構造を読んでいた。炎の進行方向、速度、密度。全部が見えた。それを——吸い込んだ。
手を前に出した瞬間、炎が俺の手の中に消えた。
熱くなかった。痛くなかった。炎は俺の手の中で、別の何かに変わっていった。黒く染まっていった。
「……なん、で」男の声が割れた。「俺の炎が——」
「構造を読んだ」俺は言った。
自分の声が、少し違って聞こえた。低くなっていた。落ち着いていた。さっきまでとは違う何かが、声に乗っていた。
「お前の炎は、収束型で密度が高い。出力より精度を重視した使い方だ。でも収束点がわかれば、その手前で吸収できる」
男たちは動かなかった。
「逃げるなら今だ」俺は言った。「追わない」
三人が、一斉に走った。
足音が遠ざかって、路地が静かになった。
俺は手のひらを見た。黒く染まった炎が、まだ手の中にあった。
それを——静かに、空に向かって放った。
黒い炎が、夜空に向かって真っ直ぐ上がって、消えた。
それだけだった。
体の奥の黒が、ゆっくりと落ち着いていった。興奮していたわけじゃなかった。でも、今まで眠っていたものが、初めて目を開けたような感覚があった。
目覚めた、と思った。
まだ部分的だ。完全じゃない。でも、扉が開いた。
路地の出口に、エルナが立っていた。
いつからいたのか。でも驚かなかった。この人はいつもそこにいる。
「見ていたか」
「最初から」エルナの声が、いつもと少し違った。低くて、静かで——何か深いものを含んでいた。「よくやった」
「制御はまだできていない。反応しただけだ」
「それで十分だ。最初はそういうものだ」
エルナが近づいてきた。俺の手を見た。黒い痕跡が、まだうっすら残っていた。
「痛みは」
「ない」
「傷は」
「ない」
「教団の人間が三人逃げた。明日中には報告が上がる。動きが加速する」エルナは真剣な顔で言った。「お前、もう隠れられない。少なくともこの街では」
「わかった」
「学校を辞めるしかないかもしれない」
「わかった」
「……もっと惜しそうな顔をしろ」
「惜しくないわけじゃない。でも今はそれより先のことを考える」
エルナはしばらく俺を見ていた。それから、ため息をついた。
「お前が十歳だということを、時々忘れそうになる」
「前世の記憶がある」
「それだけじゃないと思うがな」
家に帰ると、リーネが起きて待っていた。俺の手を見て、顔を見て、何かを察した。
「何かあった」
「あった。話す」
二人で部屋に入って、今夜のことを話した。
リーネは黙って最後まで聞いた。
「黒紋が——出たの」
「部分的に。でも出た」
リーネは少し間を置いた。
「怪我は」
「ない」
「よかった」リーネは息を吐いた。「本当によかった」
「明日、エルナとこれからのことを話し合う。この街を出る可能性がある」
「一緒に行く」
「危険だぞ」
「わかってる」リーネは真っ直ぐ俺を見た。「一緒に行く。それだけだ」
俺は何も言わなかった。
言えなかった、というより——言う必要がなかった。
ベッドに横になって、天井を見た。
体の奥の黒は、今夜は眠っていなかった。
眠っていなかった。でも暴れてもいなかった。
ただ——静かに、起きていた。
目を覚ましたものは、もう眠らない。
ヴェイル=ノクトは、十歳の冬の終わりに、初めて自分の力と向き合った。
それは始まりだった。
長い、長い旅の——最初の一歩だった。




