第5話「寝床と約束」
その夜の寝床は、市場の外れにある廃倉庫だった。
リーネが見つけた。貴族の子どもにしては、妙に物件を探す目が早かった。扉の蝶番が外れかけていて、中は埃っぽくて、隅に古い木箱が積まれていた。でも雨風はしのげた。冬の路地裏よりはるかにましだった。
「よく知ってたな、こんな場所」
「逃げる練習をしてたから」リーネは木箱を並べて即席のベッドを作りながら答えた。「本当に逃げる日が来ると思って、街の地図を頭に入れてた」
「いつから」
「二年前くらい。父が『欠陥品をどうするか』って話してるのを聞いてしまってから」
二年間、逃げる準備をしていた。それを八歳の子どもがやっていた。
俺は何も言わなかった。言える言葉が見つからなかった。
「お金はどのくらいある?」リーネが聞いた。
「銀貨が三枚と、銅貨が少し」
「私は銀貨五枚。合わせて銀貨八枚。一週間は食べられる」
「その後は」
「その後は考える」
リーネは木箱の上に座って、膝を抱えた。暗い倉庫の中で、薄い光が窓の隙間から差し込んでいた。
「ヴェイル、学校はどうするの」
「通える限り通う。お前は?」
「……私も通いたい。でも、ヴァルト家の人間に見つかったら連れ戻される」
「変装すれば済む話だ。髪を結んで、フードを被る。お前の顔を知っている学校の関係者がどのくらいいるかによるが」
「ヴァルト家はこの学区とは別の区に屋敷がある。私が通ってたのは家庭教師だったから、この学校に知り合いはいない」
「なら問題ない。明日から通え」
リーネはしばらく俺を見ていた。
「……なんであんたはそんなに淡々としてるの。家なくなったのに」
「家があった頃も、ここと似たようなものだった」
「物置部屋で寝てたとか?」
「そうだ」
リーネは少し黙った。それから、小さく「そうか」と言った。追及しなかった。それが意外だった。貴族の子どもにしては、踏み込みすぎない距離感を知っていた。
「一つ聞いていいか」俺は言った。
「何」
「昼間教えた制御の方法、試せそうか」
リーネは自分の腕の紋章を見た。炎と風、二つの光が淡く揺れていた。
「やってみる。でも暴発したらどうしよう。ここ、燃えやすそうだし」
「俺が見ている。何かあれば対処する」
「無紋なのに?」
「目は使える」
リーネは少し考えてから、立ち上がった。倉庫の中央に出て、両手を前に構えた。
「風紋を使いたい時に炎紋が邪魔をする、って言ってたよな」
「そうだ。まず炎の感覚を探して、それを静めるイメージを持て。炎に蓋をするような感覚だ。その後で風に意識を向ける」
リーネは目を閉じた。しばらく何も起きなかった。
それから——ゆっくりと、彼女の髪が揺れた。
爆発じゃなかった。暴発でもなかった。静かな、制御された風だった。倉庫の中の埃が、一方向にふわりと流れた。それだけだったが、それで十分だった。
リーネは目を開けた。
自分の手を見て、それから俺を見た。
「……出た」
「出た」
「ちゃんと出た」リーネの声が、わずかに震えていた。「暴発しなかった」
「最初から制御できる人間はいない。少しずつ慣れれば、精度が上がる」
リーネはしばらく自分の手を見ていた。その目に、さっきとは違う光があった。
泣いているわけじゃなかった。でも泣きそうな顔とも違った。もっと深いところにある何かが、静かに揺れているような顔だった。
「……ありがとう」
「俺は自分が面白いと思ったことをやっただけだ」
「それでもありがとうって言う」リーネは顔を上げた。「誰かに感謝するの、久しぶりだから。言い方がわからなくなってた」
それ以上何も言わなかった。
木箱の上に戻って、リーネと並んで座った。冬の夜は静かだった。市場の外れだから人通りもなかった。風の音だけが、倉庫の隙間を抜けていた。
「これからどうする」リーネが聞いた。「本当に、これから先のこと」
「当面は生活を安定させる。学校に通い続ける。力をつける」
「力、って——魔法の?」
「それも含めて」
「でもあんた、無紋じゃない」
「今は、の話だ」
リーネは俺の横顔を見ていた。何かを聞こうとして、やめた。それがわかった。
「私は」リーネはゆっくり言った。「ヴァルト家には戻らない。もう決めた。どこへ行くかは、まだわからないけど」
「それでいい」
「一緒にいてもいい? しばらくの間だけでも」
少し考えた。
利用価値の計算は、もうしなかった。そういう計算をする気分じゃなかった。
「構わない。ただし、互いに足を引っ張らないこと。役に立てない場面では役に立たなくていい。ただ、できることをやる」
「わかった」リーネは頷いた。「私にできることをやる」
「それでいい」
二人の間に、また沈黙が落ちた。今度は悪い沈黙じゃなかった。
しばらくして、リーネが呟いた。
「あんた、変わってる」
「よく言われる」
「褒めてる」
「知ってる」
リーネが小さく笑った。苦みのない、素直な笑いだった。初めて見る顔だった。
倉庫の外で、風が吹いた。
体の奥の黒は、静かに眠っていた。
でも——二人分の体温が、倉庫の中をわずかに温めていた。
ヴェイル=ノクトは、十歳の冬の夜に目を閉じた。
隣でリーネの呼吸が、少しずつ深くなっていった。




