第4話「リーネ=ヴァルト」
十歳の冬、ノクト家が燃えた。
正確には、父が賭けに負けた。商売の失敗と借金が重なって、家を売る羽目になった。一週間で全員追い出された。母は父の実家に戻った。兄は商業ギルドの知人を頼った。父は借金取りに連れていかれた。
俺の行き先は、誰も考えていなかった。
当然だった。無紋の子どもを引き取る理由が、誰にもなかった。俺は荷物をまとめて、一人で家を出た。荷物といっても、着替えが二着と、図書館で写した紋章の記録ノート数冊と、わずかな金だけだった。
路地裏に座って、これからのことを考えた。
前世なら途方に暮れる場面だった。でも奇妙なことに、怖くなかった。家に居場所がなかった分、失うものが最初からなかった。住む場所と食い扶持さえ確保できれば、あとはどうにでもなる。
問題は、その確保の方法だった。
無紋の子どもを雇う場所は少ない。でもゼロじゃない。力仕事や雑用なら、紋章は関係ない。学校は通える限り通う。エルナとの繋がりも切らない。
そう整理したとき、後ろから声がかかった。
「……何してるの、そこで」
振り返ると、少女が立っていた。
年齢は俺と同じくらいか、少し上だろうか。亜麻色の髪を肩の下まで伸ばしていた。目は薄い緑色で、整った顔立ちをしていた。着ている服は上質だった。刺繍の入ったコートと、革のブーツ。貴族の子どもだとすぐわかった。
でも顔に、泥がついていた。コートも端が破れていた。髪も乱れていた。貴族の子どもが一人で路地裏にいる理由が、見た目だけでは読めなかった。
「路地裏に座っているだけだ」
少女はしばらく俺を見ていた。それから周囲を確認するように視線を走らせて、また俺に戻してきた。
「……追われてる?」
「今は違う」
「私は追われてる」
少女はそう言って、俺の隣に座った。断りもなく、自然に。貴族の子どもにしては遠慮のない動き方だった。
遠くから足音が聞こえた。複数人。速い。
「あいつらか」
「たぶん」
足音は路地の手前で止まった。別の方向に曲がっていく気配がした。少女は息をひそめていた。
しばらくして、足音が遠ざかった。
「……行った」
「そうみたいだ」
少女は大きく息を吐いた。それからこちらを見た。
「助かった。ありがとう」
「何もしていない」
「隣にいてくれた。それで十分だ」
不思議な言い方をする、と思った。でも否定する気にもなれなかった。
「誰に追われていた」
「家の人間。正確には、家が雇った人間」少女は膝を抱えて、路地の奥を見た。「私、処分されるところだったから」
処分。
その言葉を、少女は淡々と使った。怒りでも悲しみでもなく、ただ事実として。
「貴族の子どもが処分される理由は」
「紋章の制御ができないから」少女は自分の右腕を見た。そこには二つの紋章が刻まれていた。炎と風の複合だった。「炎紋と風紋の複合を持って生まれた。家では喜ばれた。でも——私、全然うまく使えなくて。暴発ばかりして。家の調度品を何度も壊して。父が呼んだ教師も全員逃げ出して。それで、欠陥品だって」
少女は短く笑った。自嘲の笑いだった。
「欠陥品は家の恥だから、遠い修道院に送って隠すか、もっと遠くに送って消えてもらうか、どちらかにしようって話になって。今日がその日だったけど、逃げてきた」
俺はしばらく少女を見ていた。
事情はわかった。でも一つだけ、引っかかることがあった。
「暴発、というのは——魔法が制御できずに漏れ出す、という意味か」
「そう。触れたものに炎が移ったり、突風が部屋中に吹いたり。本当に使いたい時は何も出なくて、使いたくない時に出る」
「それはいつから」
「三歳で紋章が出てから、ずっと」少女は眉をひそめた。「なんでそんなこと聞くの」
「魔法の構造が気になる」
「……は?」
「複合紋章の制御ができない理由は、たいていの場合、二つの系統が干渉し合っているからだ。炎と風は相性が良いようで、実は発動の方向性が逆だ。炎は収束させて放つ。風は拡散させて流す。その二つを同時に扱おうとすると、出力が競合する」
少女は目を丸くしていた。
「……なんで無紋の子どもがそんなこと知ってるの」
「本で読んだ。それと——お前の暴発のパターンを聞く限り、二つを同時に使おうとしているんじゃなく、片方を使おうとしたときにもう片方が反応している。それなら解決策がある」
少女はしばらく黙っていた。それから、恐る恐るという顔で聞いてきた。
「……解決策って、何」
「使いたい系統だけに意識を向けるんじゃなく、使いたくない系統を先に『静める』イメージを持つ。炎を使いたければ、先に風を鎮める。風を使いたければ、先に炎を抑える。二つを同時に扱おうとするのをやめて、順番に制御する」
「それで直るの」
「直るとは言っていない。でも暴発は減るはずだ。試してみるかどうかはお前が決めることだ」
少女はまたしばらく黙っていた。今度は長かった。路地の奥を見たまま、何かを考えている顔だった。
「……なんで教えてくれるの。私のこと、知らないのに」
「お前の紋章の構造が面白かった。それだけだ」
少女はゆっくりこちらを向いた。
その目に、初めて感情らしい感情が浮かんだ。驚きと、困惑と——それから、もっと柔らかい何かが。
「……誰も、私の紋章を面白いって言わなかった。欠陥品だとしか言わなかった」
「欠陥品じゃない。制御の方法を間違えているだけだ。紋章自体は珍しい組み合わせで、使いこなせれば相当強い」
少女は何も言わなかった。ただ、俺を見ていた。
しばらくして、口を開いた。
「リーネ。リーネ=ヴァルトっていう名前」
「ヴェイル=ノクト」
「無紋なの?」
「そうだ」
「……家は?」
「今日なくなった」
リーネは少し目を見開いた。
「なくなったって、どういう……」
「父が借金で家を手放した。俺の行き先は誰も決めていなかったから、一人で出てきた」
リーネはしばらく何も言わなかった。路地の入口の方を見て、それから俺を見て、また路地の奥を見た。
「……じゃあ、今夜どこに泊まるの」
「まだ決めていない」
「私も決めていない」
二人で、しばらく黙っていた。
冬の夜風が路地を抜けた。リーネの吐く息が白く見えた。
「一緒に考えようか」リーネが言った。
打算で動く自分の癖が、頭のどこかで「利用価値がある」と計算していた。貴族の子どもだ。知識がある。人脈がある。
でも同時に——それだけでもなかった。
この少女は、逃げてきた。処分されそうになって、それでも逃げた。前世の俺が一度もできなかったことを、この少女はやっていた。
「ああ」と答えた。「一緒に考えよう」
リーネは小さく頷いた。笑わなかった。でも、さっきより少しだけ肩の力が抜けていた。
冬の路地に、二人が並んで座っていた。
どちらも、行き場のない夜だった。
でも——どちらも、まだ動けた。




