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「無紋に転生した俺が、歴史から抹消された力を宿していた」  作者: ラーメンが好き


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第3話「最底辺の教室」

 エルナが次に現れたのは、三日後だった。

 場所は図書館の裏口だった。本を返しに行った帰り、路地に出た瞬間に彼女は壁に背を預けて立っていた。まるでそこに最初からいたかのように、自然に。

「待っていたのか」

「通りかかっただけだ」

「図書館の裏口を通りかかる理由はない」

 エルナは少し間を置いて、「まあそうだな」と認めた。

 その日から、エルナは不定期に現れるようになった。毎日ではない。二日に一度のこともあれば、一週間空くこともあった。現れる場所もバラバラだった。路地の曲がり角、市場の外れ、川沿いの堤防。でも俺が一人になるタイミングを、彼女は正確に掴んでいた。

 会うたびに、少しずつ話を聞いた。

 黒紋の歴史。エルフが口伝で残してきた断片的な記録。大陸創世の時代に何があったのか。なぜ第五の系統が歴史から抹消されたのか。

 全部を一度に教えてくれるわけじゃなかった。エルナは少しずつ話した。俺が何を理解して、何を理解していないかを確認しながら。まるで、一度に与えすぎると壊れるものを扱うように。

 黙って聞いた。聞きながら、頭の中で整理した。前世で培った情報処理の癖が、ここでも役に立った。

 そして九歳になる頃には、輪郭だけは掴んでいた。

 黒紋は、神の力の残滓だ。世界の法則そのものを書き換えうる、人間の器には収まりきらない力。だからこそ、それを持つ者は歴史上何度も「抹消」されてきた。力が目覚める前に、記録ごと消された。

 今、俺の体の中にそれが眠っている。

 九歳の春、俺は学校に通い始めた。

 ヴェルン王国では、九歳から十五歳までの子どもは王立基礎学校への通学が義務付けられている。紋章の有無に関わらず。無紋でも教室に入る権利はあった——法律上は。

 実態は違った。

 クラスは三十人ほどだった。俺以外は全員、何らかの紋章を持っていた。炎紋、水紋、風紋、土紋。複合紋章を持つ子どもが数人いて、そいつらがクラスの上位層を形成していた。

 最初の日、教室に入ると空気が変わった。

 誰も声には出さなかった。でも視線が刺さった。好奇心の視線と、嫌悪の視線と、哀れみの視線が混じっていた。一番多かったのは無関心の視線だ。最初から、存在しないものとして扱う種類の目。

 担任の教師は中年の男で、土紋を持っていた。俺を見たとき、一瞬だけ眉をひそめた。でも何も言わなかった。法律だから受け入れる、という顔だった。

 席は一番後ろの端だった。窓際でもない。扉の近くでもない。ただ隅だった。

 そこに座って、黙って授業を聞いた。

 最初の一週間で、この教室の構造が見えた。

 クラスの頂点に立っていたのはロッドという名の少年だった。炎紋と風紋の複合を持つ、この年代では珍しい実力者だった。父親が商業ギルドの幹部で、金もあった。容姿も整っていて、声が大きくて、笑い方を知っていた。人を引きつける何かを持って生まれた人間だった。

 ロッドの周りに、五人ほどがいつも集まっていた。紋章ランクの高い順に自然と序列ができていた。この世界では、紋章の強さが全てだ。それはクラスの中でも同じだった。

 俺はその序列の外にいた。外というより、下だった。最底辺。序列にすら入れない場所。

 最初に声をかけてきたのはロッドだった。二日目の休み時間だった。

「おい、無紋。本当に何もないのか。水晶球に触っても何も起きなかったのか」

「そうだ」

「すごいな。俺、無紋って初めて見た。学校に来たのも初めてじゃないか? 無紋で学校来るやついるんだな」

 馬鹿にしているわけじゃなかった。ただ珍しいものを見ている目だった。

 答える必要を感じなかった。

「なんで学校来たんだ? 無紋でもここで学べることあるのか?」

「ある」

「何が?」

「お前が想像できないものが」

 ロッドは一瞬きょとんとして、それから笑った。馬鹿にするでもなく、怯えるでもなく——面白いものを見た、という笑い方だった。

「変なやつだな」

 ロッドはそう言って、去った。その日はそれだけだった。

 問題が起きたのは一週間後だった。

 魔法実技の授業があった。紋章保有者が実際に魔法を発動させて、その制御を練習する授業だ。無紋の俺には関係ない授業のはずだった。

 でも実技担当の教師——若い女性教師で、風紋を持っていた——が俺を指名した。

「ヴェイル=ノクト、前に出なさい」

 教室の全員が俺を見た。

 黙って前に出た。

「あなたは無紋なので魔法は使えません。でも魔法を受けることはできます。今日は他の生徒の魔法制御の練習のために、的になってもらいます」

 教室がざわめいた。

 その教師は笑っていなかった。真剣な顔だった。これが正当な教育だと思っているらしかった。

「子どもたちはまだ制御が未熟です。あなたに直接当てるわけではありません。あなたの周囲一メートル以内に魔法を当てる練習です」

「当たったら?」

「当たりません。練習なので」

「当たったら、という質問だ」

 女性教師は少し間を置いた。

「……その場合は、治癒魔法を使います」

 治癒魔法を使う、ということは、当たりうることを想定しているということだ。

 少し考えた。断ることはできた。でも断れば別の問題が起きる。この教師は権限を持っている。俺を不利な立場に追い込む方法はいくらでもある。ここで波風を立てるより、やり過ごす方が賢い選択だ。

「わかった」

 女性教師が少し驚いた顔をした。抵抗すると思っていたのかもしれない。

 教室の中央に立った。

 最初の生徒が前に出た。炎紋を持つ女の子だった。緊張した顔で両手を前に出した。小さな炎が生まれて、左側一メートルほどの場所で消えた。制御は悪くなかった。

 次の生徒。風紋の男の子だった。風の刃が右側を通った。少し近かった。髪が揺れた。でも当たらなかった。

 三人目。土紋の大柄な少年だった。名前はグレインといった。ロッドの取り巻きの一人で、いつも笑っていた。

 グレインが両手を構えた。土の塊が宙に浮いた。それが——俺に向かって飛んできた。

 一メートル外ではなく、正面から。

 体が動いていた。頭より先に。右に一歩踏み出して、土の塊が左脇を抜けた。風切り音が耳の近くでした。

 教室が静まり返った。

「グレイン!」と女性教師が声を上げた。グレインは「ミスった」と言って笑っていた。本当にミスだったのかは、わからなかった。

「大丈夫ですか、ヴェイル」女性教師が駆け寄ってきた。

「問題ない」

「当たりませんでしたか?」

「当たっていたら立っていない」

 女性教師は何も言えなかった。

 自分の場所に戻った。グレインがこちらを見ていた。さっきとは少し違う目をしていた。馬鹿にする目じゃなかった。測っている目だった。

 前を向いて、授業の続きを見ていた。

 体の奥の黒は、静かに眠っていた。

 まだその時じゃない、と——どこかで知っていた。

 放課後、一人で帰ろうとしたとき、声をかけてきた者がいた。

 ロッドだった。一人だった。珍しいことに、取り巻きを連れていなかった。

「さっき、よく避けたな。グレインの土弾、結構速いぞ」

「見えた」

「紋章もないのに?」

「紋章は目と関係ない」

 ロッドはしばらく俺を見ていた。何かを考えているような目だった。

「なあ、お前、友達いるか」

「いない」

「俺と友達になるか」

 冗談を言っている顔ではなかった。真剣だった。なぜそう思ったのかはわからないが、この男には嘘をつく必要がない何かがあった。

「なぜ」

「面白そうだから。紋章もないのに学校来て、無紋の的にされても文句も言わないで、グレインの土弾を避けて、俺に『お前が想像できないものがある』とか言うやつ、今まで会ったことない」

「それが理由か」

「十分な理由だろ」

 しばらく考えた。

 友達を作るつもりはなかった。面倒が増えるだけだと思っていた。でも——ロッドはこのクラスの頂点にいる。彼と関係を持つことで、得られる情報がある。守られる場面がある。それは単純に有利だ。

 打算だった。でも打算だけでもなかった。

 この男は、俺を哀れんでいなかった。珍しいものを見る目で見ていたけれど、踏もうとはしていなかった。

「わかった。でも一つ条件がある」

「何だ?」

「俺を利用しようとするな。利用しようとしたら、すぐわかる。その時は終わりだ」

 ロッドは一瞬きょとんとして、それから大きく笑った。

「言うじゃないか。わかった、約束する」

 右手を差し出した。握手の仕草だった。

 その手を握った。

 それが、ヴェイル=ノクトが初めて作った友人との、最初の接触だった。

 その夜、エルナが現れた。家の裏の路地だった。

「学校はどうだ」

「想定内だ」

「的にされたと聞いた」

「見ていたのか」

「見ていた。よく怒らなかった」

「怒っても変わらない」

「それはそうだが」エルナは少し間を置いた。「怒らない人間が全員、怒りを持っていないわけじゃない。お前は怒っていたか」

 少し考えた。

「怒っていた。でも使い道がなかった。だから仕舞っておいた」

 エルナはしばらく俺を見ていた。それから静かに言った。

「その怒りは、いずれ使い道ができる」

「わかってる」

「……本当にわかっているな、お前は」

 風が吹いた。夜の、少し冷たい風だった。

「エルナ、黒紋が完全に目覚めるのは、いつだ」

「条件がある。強い感情。または、命に関わる危機。どちらかが引き金になる。時期はわからない。でも——お前の場合は、遠くないかもしれない」

「なぜ」

「お前が生きているその場所が、引き金を引く機会に満ちているからだ」

 何も言わなかった。

 それは——確かにそうだった。

 物置部屋に戻って、天井を見上げた。

 黒は静かに眠っていた。

 でも今夜は、昨日より少しだけ近くにある気がした。

 ヴェイル=ノクトは、九歳の夜に目を閉じた。

 扉の向こうで、兄が何かを笑っている声がした。俺には関係のない笑い声だった。

 いつかこの笑い声も、遠くなる。

 そう思いながら、眠った。

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