第2話「影の中の声」
翌朝、俺の頬には青痣が残っていた。
鏡代わりに使っている水桶を覗き込んで、その痣を確認した。右頬から顎にかけて、紫がかった色が広がっていた。口の端も少し切れていた。脇腹は触れると鈍く痛んだ。それだけだった。骨は折れていない。動ける。それで十分だった。
朝食の時間になっても、家族は何も言わなかった。
父は新聞を広げたまま俺を見なかった。母は台所で何かを炒めていた。兄は痣に気づいたのか、一瞬だけ俺の顔を見て、すぐに視線を戻した。「ざまあ」とでも思ったのかもしれない。誰も何も言わなかった。俺も何も言わなかった。
残り物のパンを一切れもらって、台所の隅で食べた。
固かった。でも食べた。腹が減ったままでいるより、固いパンでも食べた方がいい。前世でも、食べられるときに食べておくことの大切さは学んでいた。
食べながら、昨夜のことを考えた。
路地の影に、誰かがいた。気のせいじゃない。確かに人の気配があった。でも声もかけてこなかったし、助けにも来なかった。ただ、見ていた。
何者だろう、とは思った。でも深く考えるより先に、もっと重要なことがあった。
体の奥で眠っているあれ——黒い、熱のようなもの——の正体を、俺は何も知らなかった。
その日の午後、街の図書館に行った。
ノクト家の近くにある公共図書館は、誰でも使えた。無紋でも追い出されることはない——本を読む行為に、紋章は関係ないからだ。俺にとって、図書館は数少ない安全な場所だった。
紋章に関する書物を片っ端から引っ張り出した。
基礎知識は既に頭に入っていた。四系統の紋章、発現の仕組み、強さの測定方法。でも今日探しているのはそういう話じゃない。もっと古い話。もっと深い話。紋章の起源とか、歴史とか、記録にない紋章の話とか。
三時間かけて十数冊を読み込んだ。
わかったことは少なかった。
紋章の起源については「大陸創世の時代に神が人間に与えた」という記述が多かったが、具体的な説明はどこにもなかった。神話的な話として扱われていて、学術的な裏付けはなかった。歴史に記録されていない紋章については——そもそも「存在しない」という前提で書かれていた。四系統以外の紋章は、どの書物にも出てこなかった。
まるで、最初から存在しないことになっているかのように。
本を閉じた。
存在しないことになっているものが、俺の体の中にある。
それが何を意味するのかは、まだわからなかった。でも一つだけ確信した。これは隠しておくべきものだ。誰かに話すべきじゃない。秘密は、使い方次第で武器になる。
立ち上がって、本を棚に戻した。
図書館を出たのは夕方だった。
街の石畳が、西日を受けてオレンジ色に染まっていた。人通りが多い時間帯で、仕事帰りの大人たちが行き交っていた。紋章を腕に刻んだ人間たちが、それぞれの帰り道を歩いていた。
俺は細い路地を選んで歩いた。大通りは人が多い分、無紋の子どもが歩いているとからまれることがある。昨日のこともあった。今日は余計なトラブルを避けたかった。
路地の曲がり角を二つ曲がったところで、足を止めた。
気配があった。
昨日と同じ気配だった。
今度は逃げなかった。振り返りもしなかった。ただ、歩みを止めて立ったまま言った。
「出てきたらどうだ」
静寂。
風が路地を抜けた。
それから——足音がした。軽い足音だった。子どもの足音じゃない。もっと洗練された、体の使い方を知っている人間の足音だった。
路地の影から現れたのは、女だった。
年齢は三十代前後だろうか。細身で、旅慣れた様子の革の服を着ていた。腰に短剣を下げていた。髪は深い茶色で、目は落ち着いた琥珀色だった。耳が、わずかに尖っていた。
エルフだ、と思った。純血ではないかもしれないが、少なくともエルフの血が入っている。耳の形がそれを示していた。
女は俺を見下ろして、少し驚いたような顔をした。
「気づいてたのか」
「昨日から。何者だ」
「エルナ。エルナ=ドレイクだ。今は傭兵をやってる」
「傭兵が子どもを尾行する理由は?」
「尾行じゃない」エルナは少し眉を上げた。「観察だ」
「同じことだ」
エルナは一瞬沈黙して、それから小さく笑った。笑い方に、どこか苦みがあった。
「……そうだな。同じかもしれん」
彼女は俺の隣の壁に背を預けて、腕を組んだ。傭兵にしては落ち着いた所作だった。焦りも、警戒も、表面にはあまり出ていない。
「昨日、あの三人を怯えさせただろう。何もしていないのに。ただ倒れていただけなのに」
俺は答えなかった。
「あの三人——炎紋、土紋、風紋だった。子どもとはいえ、紋章保有者だ。普通、紋章なしの子どもを見て怖気づくような連中じゃない」
「見ていたのか」
「最初からな」エルナは視線を路地の奥に向けた。「お前に何が起きたのか、わかるか?」
「わからない。でも、体の奥に何かある。黒い、熱のようなもの。昨日初めてはっきり感じた」
エルナの目が、わずかに変わった。何かを確認したような目だった。
「それがいつから体の中にあるか、わかるか」
「生まれたときからだと思う。ずっと眠っていた」
エルナはしばらく黙っていた。風が吹いて、彼女の髪を揺らした。
「お前は、自分が無紋だと思っているか」
「水晶球には反応しなかった」
「それは答えになっていない」
「……わからない。体の中に何かあることはわかった。でもそれが紋章なのかどうかは、まだわからない」
エルナはゆっくりと頷いた。その目には、何か複雑なものが宿っていた。確信と、それに伴う重さのようなもの。
「お前に一つ教えることがある。この世界の紋章は四系統だと言われている。炎、水、風、土。それが常識だ。どの書物にもそう書いてある」
「知ってる」
「でも——かつて、第五の系統が存在した」
俺は黙って彼女を見た。
「歴史から抹消されている。記録はない。知っている人間もほとんどいない。エルフの長老の中に、口伝で残しているものが数人いる程度だ」エルナの声は落ち着いていたが、その低さには重みがあった。「それは——黒紋と呼ばれていた」
路地に、静寂が落ちた。
俺の胸の奥で、何かが微かに揺れた。あの熱が。あの黒が。
「……それが、俺の中にあるものか」
「断言はできない。でも、可能性は高い。昨日あの三人が怯えたのは、お前の体から漏れ出した力の気配に反応したからだ。紋章保有者は、より強い力の気配に本能的に反応する。昨日お前から漏れ出たものは——あいつらの紋章とは比較にならなかった」
比較にならない。
それがどういう意味なのか、正確にはわからなかった。でも、エルナの目が語っていた。これは軽い話じゃない。
「なぜ俺に教える」
エルナは少し間を置いた。
「……義務みたいなものだ。エルフは長命だ。歴史を覚えている。俺たちが覚えていなければ、消えてしまうものがある」彼女は路地の奥を見たまま言った。「黒紋のことも、そうだ。知っている者が消えれば、本当に何もなくなる」
しばらくエルナを見ていた。
嘘をついているようには見えなかった。でも全てを話しているかどうかは、まだわからなかった。
「一つだけ聞く。黒紋が何なのか、お前はどこまで知っている」
エルナは初めて、俺の目を真正面から見た。
「お前が思っているより、ずっと大きなものだ。世界を変えうる力だ。だからこそ——知られてはいけない連中がいる。お前が黒紋の保有者だとわかれば、その連中はお前を殺しに来る」
殺しに来る。
その言葉を聞いて、奇妙なほど冷静だった。怖くないわけじゃない。でも、前世から通算で、俺はずっとそういう場所で生きてきた。踏まれて、消えろと言われて、それでも生きてきた。今さら「殺される」と言われても、身構える感情が追いつかない。
「その連中が誰なのかは、今は言えないか」
「今はまだ。お前が信用できるかどうか、俺もまだわからない」
「それは正直でいい。俺もお前のことをまだ信用していない」
エルナはまた、苦みの混じった笑い方をした。
「八歳にしては、妙な物言いをする」
「前世の記憶がある」
エルナの目が、わずかに見開いた。それから、何かを納得したように細くなった。
「……なるほど。それで合点がいった。お前が昨日、倒れたまま怯えなかった理由だ。普通の子どもなら、あそこで泣く。叫ぶ。それかもっとひどいことになる。でもお前は黙って丸まって、終わるのを待っていた。慣れた人間の動き方だった」
俺は何も言わなかった。
エルナは路地の出口に向かって歩き始めた。立ち去ろうとしていた。
「また来るか」
「来る。お前のことが気になっている。それだけだ」
「気になるのと、関わるのは違う」
「俺はもう関わっている」
それだけ言って、エルナは路地を出た。足音が遠ざかって、消えた。
俺は一人、夕暮れの路地に立っていた。
黒紋。
歴史から抹消された第五の系統。世界を変えうる力。知られれば殺される。
もう一度、自分の右手を見た。紋章のない、傷と泥の手だった。
体の奥の黒は、静かに眠っていた。
でも——確かに、そこにあった。
家に帰ったのは日が落ちてからだった。
夕食はもう終わっていた。台所に残り物があったので、それを食べた。冷えたスープと、硬くなったパンだった。味はしなかったが、腹に入れた。
物置部屋に戻って、天井を見上げた。
考えることが増えた。黒紋のこと。エルナのこと。この力を隠し続けなければならないこと。
でも同時に——初めて、何かが変わったような気がした。
前世でも今世でも、俺はずっと何も持っていなかった。容姿でもなく、紋章でもなく、家族でもなく。ただ頭だけを頼りに、踏まれながら生きてきた。
でも今、俺は何かを持っている。
名前もわからない。使い方もわからない。危険なものかもしれない。
それでも。
俺の体の中に、眠っている何かがある。ずっと待っていた何かが。
——次は、怯えさせるだけじゃない。
昨夜思ったことを、もう一度思った。今日はその言葉に、少しだけ重みが加わった気がした。
月明かりが、物置部屋の窓から差し込んでいた。
ヴェイル=ノクトは、八歳の夜にまた目を閉じた。
黒は、静かに——少しだけ、深くなった。




