第1話「無紋の子」
俺が最初に死んだのは、三月の夜だった。
別に劇的な死じゃなかった。事故でも事件でもない。病気でもなかった。ただ眠って、そのまま来てしまったらしい。「俺が死んでも誰も気づかないんだろうな」と思いながら目を閉じたのが最後の記憶で、それ以外は何もない。誰かが泣いてくれた記憶も、誰かの声も、何もない。静かに消えた。それだけだった。葬式が出たのかどうかも、知らない。発見されたのがいつかも、知らない。前世の俺は、そういう死に方をした。
二度目の最初の記憶は、光の中だった。
白くて、温かくて、知らない顔が俺を覗き込んでいた。女の人だった。泣いていた。嬉し泣きだとわかったのは、もう少し大きくなってからだ。新しく生まれた赤ん坊の顔を見て、涙を流す人間がいる。俺のために泣いている人間が、この世界には存在した。前世では誰もいなかったそれが、ここにはあった。それだけで、もう少し生きてみようと思った。赤ん坊の俺には他に選択肢もなかったけれど。
名前はヴェイル、と聞かされた。ヴェイル=ノクト。
ここが異世界だとわかるのに時間はかからなかった。空の色が違った。光の質が違った。草の匂いも、風の重さも、水の味も、空気の肌触りも、全部違った。前世で当たり前だったものが、何一つ当たり前じゃなかった。植物の形が違った。鳥の声が違った。夜空の星の並び方が違った。そして何より——この世界には魔法が存在した。
紋章というものが、この世界の全てを決めていた。
生まれつき身体に刻まれる紋章が、才能の証明だった。炎、水、風、土の四系統。何を持って生まれるかで、その人間の一生が決まる。複合紋章を持てば貴族になれる。高位紋章を持てば英雄になれる。紋章の強さが、地位になり、富になり、尊厳になる。子どもが生まれると、親族が集まって腕を確認する。紋章が出ているかどうか。何系統か。どのくらい強いか。その瞬間が、その子の人生の始まりを決める。それがこの世界の仕組みだった。
そして、何も持っていなければ——。
俺は赤ん坊のうちにそれを理解した。ノクト家の人間たちが俺の腕を確認するとき、決まって少し眉をひそめた。紋章は幼少期に発現するものだったが、気配すらなかった。父の顔に翳りが走るのを、俺は毎回見ていた。黙って、見ていた。何も言わなかった。言える立場でもなかったし、言う意味もなかった。事実は変わらない。変えられないものに対して感情を浪費しても、何も得られない。前世でもそれは学んでいた。
五歳の秋、俺は紋章発現の儀式に連れて行かれた。
ヴェルン王国の法に従い、五歳になった子どもは全員、近くの教会で水晶球による紋章鑑定を受けなければならない。持って生まれた紋章の種類と強さを測定し、国に登録する。それが人生の出発点になる。高位の紋章が出れば、その日から教育の機会が広がる。就ける職種が変わる。結婚の相手が変わる。紋章の鑑定結果が、人間の価値を決める。この世界では、それが常識だった。
教会の中は静かだった。石造りの高い天井に、朝の光が斜めに差し込んでいた。祭壇の上に置かれた透明な水晶球が、光を受けて微かに輝いていた。順番を待つ子どもたちの列が、扉の外まで続いていた。壁際に並んだ親たちの顔には、どれも期待の色があった。今日この日を、ずっと楽しみにしていたのだろう。一世一代という顔の父親もいた。子どもの手をしっかりと握って離さない母親もいた。我が子がどんな紋章を持って生まれたのかを、今日初めて知れる。その喜びが、教会の中に充満していた。
俺の前に立った男の子が水晶球に手を触れると、赤く輝いた。炎紋だ。それも強い。父親らしき男が声を上げて喜び、隣の母親と抱き合った。神官が「素晴らしい発現です」と丁寧に頭を下げた。次の女の子は青。水紋。親が涙ぐんでいた。その次は緑の複合。風と土の混合紋章だった。神官が「これは珍しい」と目を見開いた。複合紋章は希少で、持って生まれるだけで貴族への道が開ける。みんな、何かを持っていた。みんな、今日から始まる未来を手にした。それが当たり前の風景だった。
俺の番が来た。
父が後ろから見ていた。母も来ていた。二人の視線を背中に感じながら、俺は祭壇の前に立った。水晶球に向かって、右手を伸ばした。列に並んでいる間ずっと、この瞬間のことを考えていた。もしかしたら何か出るかもしれない、という期待はなかった。体の中に何もない、ということは自分でわかっていた。ただ、どう反応すべきかを考えていた。驚くべきか。泣くべきか。それとも平静にしているべきか。
触れた。冷たかった。
何も起きなかった。
一秒。二秒。五秒。十秒。
水晶球は、ただの石のように透明なままだった。どんな色にも輝かなかった。どんな反応も示さなかった。俺の手が触れていることすら、認識していないかのようだった。周囲が静かになっていくのがわかった。さっきまでざわめいていた空気が、急に重くなった。子どもたちが俺を見ていた。親たちが俺を見ていた。哀れみの目。嫌悪の目。安堵の目。自分の子どもじゃなかった、という安堵。
「…………無紋」
神官の声が、石の壁に反響した。短い沈黙が、教会の中に広がった。誰も声を上げなかった。ただ、空気が変わった。無紋という言葉が放たれた瞬間、その子どもへの扱いが決まる。この世界では、そういう空気の変わり方をする。
振り返ると、父の顔が変わっていた。落胆でも怒りでもない。もっと冷たい何か。興味を失った人間の顔だった。品定めが終わって、価値がないとわかった瞬間の顔。その顔を、前世でも一度だけ見たことがあった。俺の成績表を見たときの、親の顔に似ていた。
母は何も言わなかった。ただ目を逸らした。俺の存在を、視界から消すように。
俺も何も言わなかった。言えることが何もなかった。水晶球は正直だった。俺に紋章はなかった。ただそれだけの話だった。理不尽に怒っても、何も変わらない。変えられないものに感情を使うのは、ただの無駄だ。前世でも、嫌というほど学んだ。
列から外れながら、俺は静かにそう結論づけた。
無紋は最底辺だった。
ノクト家は小さな商家だったが、父は土紋を、母は風紋を、二歳上の兄は炎紋を持っていた。その家系に無紋が生まれることは、汚点だった。血統の恥。先祖への侮辱。そういう扱いを受けた。俺が存在するだけで、ノクト家の家格が下がると父は言った。冗談ではなく、本当にそう信じていた。
食事は家族が食べ終わった後だった。残ったものを、台所の隅で食べた。温かくないことの方が多かった。服は兄のお下がりで、二サイズ大きかった。袖が長くて、裾を引きずった。部屋は物置と兼用で、棚と棚の間のわずかな空間に布団を敷いていた。雨の日は天井から水が垂れてきた。同じ屋根の下に住んでいても、俺だけが別の世界にいるようだった。それが当然だった。誰も「おかしい」と思っていなかった。無紋に人権はない。この世界では、それが常識だった。
「またヴェイルのせいで」と父は言った。商談がうまくいかなかった日は必ずそうだった。「お前みたいなのがいるから、うちの家格が下がる」「無紋のくせに飯を食うな」「うちの恥め」。言葉は毎回似ていた。新しい言葉を探す気すらない、という投げやりさがあった。俺は聞くたびに、前世の記憶と重ねた。言語も世界も違うのに、罵倒の構造だけは同じだった。
聞き飽きるほど聞いた言葉が、前世と違う言語で同じ意味で降ってきた。人間はどこの世界でも同じらしかった。踏む理由を変えながら、踏むことだけは変えない。それだけは一貫していた。
兄も同じだった。「失せろ」「汚い」「近づくな」。炎紋を持って生まれた兄は、それだけで俺より格上だった。この家では、紋章が全てだった。俺がどれだけ頭を働かせても、どれだけ丁寧に動いても、紋章のない俺は最底辺だった。兄は何もしなくても、炎紋を持っているというだけで、俺より上だった。それが当然として扱われる世界だった。
近所の子どもたちも同じだった。「無紋と遊ぶと呪われる」「触るな」「失せろ」。子どもというのは残酷だ。理屈がない分、純粋に傷つく言葉を選んでくる。大人みたいに取り繕わない分、直接刺さる。前世では容姿のせいで同じことを言われた。顔が気持ち悪い。存在が不快だ。お前がいると空気が汚れる。ここでは無紋というだけで同じことが起きた。理由は違っても、人が誰かを踏む構造は変わらなかった。踏む側は楽しい。踏まれる側の痛みを見て、自分が上だと確認する。どこへ行っても、そういう人間はいる。
俺はそれを、八歳になるまで黙って受け続けた。前世でそうしていたように。
ただ一つだけ、俺にできることがあった。読むことだ。
街の図書館は無紋でも入れた。本を読む行為に紋章は関係ない、という理屈からだった。図書館員は俺を見て少し嫌な顔をしたが、追い出しはしなかった。法律上は入館を拒否できないからだ。俺はその法律に感謝しながら、通えるだけ通った。
本の中には、紋章に関する記述がたくさんあった。四系統の仕組み、発現の条件、強さの測定方法。読めば読むほど、この世界の構造が見えてきた。紋章制度の歴史。貴族と平民の差がどうやって生まれたか。無紋の人間がどういう扱いを受けてきたか。歴史の中に、俺と同じような境遇の人間がたくさんいた。そして全員、踏みにじられたまま消えていた。
知識は力だ、と前世でも思っていた。この世界でもそれは変わらない。頭の中に入ったものは、誰にも奪えない。踏まれても、罵られても、食事を取り上げられても、知識だけは残る。俺が持っていい唯一のものが、それだった。
八歳の夏、俺は路地裏に引きずり込まれた。
相手は三人だった。同い年から少し上くらいの少年たちで、炎紋、土紋、風紋をそれぞれ持っていた。誇らしげに腕の紋章を見せながら笑っていた。紋章を持っている。それだけで、彼らは自分が正しいと思えた。
「無紋がうろついてんじゃねえよ。俺たちと同じ道歩くな。穢れるだろ」
俺は何も言わなかった。言っても無駄なことは知っていた。こういう連中に言葉は通じない。理屈も感情も届かない。ただ楽しみたいだけだ。黙って終わるのを待つのが一番早い。それが最適解だとわかっていた。
「無視してんのか。いい度胸じゃねえか」
だが今日は終わらなかった。
拳が飛んできた。避ける暇もなかった。頬に衝撃が走り、石畳に叩きつけられた。口の中に鉄の味が広がった。頭が揺れた。視界がぶれた。石畳の冷たさが頬に当たった。
「立てよ。まだ終わってないぞ」
蹴りが来た。脇腹に。背中に。頭に。俺は丸まった。前世でもこうしていた。体を小さくして、急所を守って、やり過ごして、終わったら立ち上がる。それが正解だった。痛みより先に懐かしさが来た。石畳の冷たさ。革靴の音。土の匂い。体が丸まる感覚。全部、知っていた。どこの世界でも、俺はこうして地面に伏せている。それが俺の人生だった。
「反撃もしないのか。無紋ってのはこれだから」
「豚以下だな」
「存在してる意味あんの? お前」
笑い声が降ってきた。楽しそうだった。本当に楽しそうだった。倒れている誰かを踏んで、何がそんなに楽しいのか。前世でもわからなかった。今世でもわからなかった。たぶん、一生わからない。もう一発来た。今度は腹だった。息が詰まった。声も出なかった。
そのとき——何かが、変わった。
俺自身にも、わからなかった。
怒りじゃなかった。悲しみでもなかった。恐怖でも、絶望でもなかった。もっと静かな、深いところから来る何かだった。体の奥の奥、紋章があるはずの場所——何もないはずの場所が、微かに、熱を持った。
黒かった。
見えるわけじゃない。感じた、というより、知った。そこに何かがある。ずっと前から、眠っていた。眠って、待っていた。何かを待っていた。俺がここへ来るのを、ずっと待っていた。八年間、静かに眠り続けていた何かが、今この瞬間に——初めて、息をした。
熱は広がらなかった。ほんの少し、息をするように揺れて——また、静かになった。
「……あ?」
先頭の少年が、急に動きを止めた。
顔を上げると、少年の顔から笑いが消えていた。代わりにあったのは——恐怖だった。説明のつかない、本能的な恐怖。獣が天敵の気配を感じたときのような、理性より先に体が反応する種類の恐怖。
「な、なんだよ……お前……」
少年が一歩、後ずさった。他の二人も同じだった。俺はまだ地面に倒れたままだ。血が滲んだ口で、ただ少年たちを見上げているだけだ。何もしていない。何も言っていない。それなのに三人は、見えない何かに怯えるように後退し——そのまま、走って逃げた。
足音が遠ざかって、路地裏に俺一人が残された。
風が吹いた。夏の、生ぬるい風だった。
立ち上がるのに少し時間がかかった。石畳に手をついて、膝をついて、ゆっくり体を起こした。全身が痛かった。唇が切れていた。脇腹に鈍い痛みがあった。肩も、後頭部も、全部痛かった。それでも立てた。前世でも、いつもそうだった。どれだけ踏まれても、次の日には目が覚めた。それが才能なのか、ただの鈍さなのか、今でもわからない。でも立てる。立てる限り、続けられる。それだけで十分だった。
自分の右手を見た。何もなかった。傷と泥だけの、紋章のない手だった。でも——さっきの感覚は、確かにあった。あの熱。あの黒。体の奥で眠っている何か。名前を持っていなかった。何なのかも知らなかった。この世界の紋章とは違う。水晶球には反応しなかった。でも、確かに存在している。存在して、あの三人を怯えさせた。ただそれだけで、俺の中に何かがあることは確かだった。
さっき図書館で読んだ内容を思い出した。紋章の起源について書かれた書物の中に、こんな一節があった。「神が人に与えた力は、四系統に分類される」。四系統。それ以外の話は、どの書物にも書かれていなかった。俺が何日もかけて調べた中で、四系統以外の紋章については一行も出てこなかった。まるで、最初から存在しないことになっているかのように。
ただ一つだけ、わかったことがあった。
それは、この世界のどんな紋章とも——違う何かだった。
歩き始めた。家には帰りたくなかったが、他に行く場所もなかった。路地を抜けて大通りに出ようとしたとき——背後の影で、何かが動いた気がした。振り返った。誰もいなかった。路地の奥に、夏の光が落ちているだけだった。しばらくそこを見ていた。気のせいだと思った。思おうとした。でも、確かに——気配があった。人の気配。こちらを観察している、誰かの目。何も言わなかった。言ったところで、出てくる相手でもないだろう。向き直って、歩き出した。風が路地を抜けて、後ろへ流れていった。
その夜、物置部屋の天井を見上げながら、ずっと考えていた。
あの熱のことを。あの黒のことを。
紋章というのは、生まれつき持つものだ。それが常識だった。後天的に得る方法はある——禁忌の儀式や人体実験という、表向き禁止されている手段で。でも俺は何もしていない。ただ生まれて、八年間無紋として生きてきた。なのに、あれは何だ。水晶球に反応しなかった。神官にも、父にも、誰にも感知されなかった。でも確かにある。俺の体の奥に、眠っている。大切なものを隠すように、静かに眠り続けている。
この世界には、俺の知らないものがある。
図書館でどれだけ調べても出てこなかった何か。書物に書かれていない何か。歴史から消された何か。そういうものが、世の中には存在する。存在して、誰かに隠されている。俺の体の中にある黒いものも、そういう類のものかもしれなかった。ただ眠っているだけで、使う方法も、意味も、まだ何もわからない。でも——それが俺の中にある。それだけは確かだった。
前世でも今世でも、俺は何も持っていなかった。容姿でもなく、才能でもなく、家族の愛情でもなく。ただ頭だけがあった。その頭で考え続けてきた。でも今日初めて、もう一つ持っているものがあると知った。名前もわからない。使い方もわからない。でも確かにある。俺だけに与えられた、何かが。
目を閉じた。痛みが全身に残っていたが、不思議と眠れそうだった。前世でも、一番きつい夜ほど、不思議とよく眠れた。体が限界を超えると、諦めて落ちるのかもしれない。眠る直前に、一つだけ思った。
「……次は、怯えさせるだけじゃない」
声に出したのは初めてだった。物置部屋の暗さの中で、誰にも聞こえない声で、でも確かに口に出した。それが怒りなのか、それとも別の何かなのか、自分でもわからなかった。ただ静かに、そう思った。そしてそれを、言葉にした。
物置部屋の雨漏り跡が、月明かりの中で染みのように広がっていた。
ヴェイル=ノクトは、八歳の夜に目を閉じた。
体の奥で、黒が——ほんの少しだけ、息をした。




