第11話「街を出る日」
翌朝、エルナが早くに来た。
老婆の家の食卓に四人が座った。老婆も一緒だった。エルナが事情を話すと、老婆は黙って最後まで聞いて、それからお茶を一口飲んだ。
「で、どこへ行くつもりだ」
「まだ決めていない。ただ、この街には長くいられない」
「教団か」老婆は静かに言った。驚いた顔はしていなかった。「昨夜来た連中がそうだったか」
「そうだ。令状なしで動いている。王国の名前を使っているが、正規の捜査じゃない」
老婆はしばらく黙っていた。皺の深い顔が、何かを考えていた。
「南の街に知り合いがいる。ヴェルン王国の外だ。ロスヴァリア王国との国境に近い小さな街で、あまり目立たない場所だ。教団の動きもこっちよりは薄い」エルナを見た。「そこまでの伝手を持っているか」
「持っている。馬車の手配もできる」
「なら今日中に出ろ。昨夜教団の連中が引き上げたのは、一度本部に報告を上げるためだ。返事が来るまでに少し時間がある。その間に動け」
俺は老婆を見た。
「世話になった」
「礼はいい」老婆はそっぽを向いた。いつも通りの顔だった。「お前たちみたいな子どもは、生きるだけで大変なんだ。余計なことに時間を使うな」
リーネが立ち上がって、老婆に向かって深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。助けてもらって、何も返せないまま行くことになって、申し訳ないです」
「返さなくていい。お前たちが生き延びることが、わしへの礼だ」
老婆は台所に戻っていった。
三十分で荷物をまとめた。といっても大した荷物じゃなかった。着替えと、ノートと、金だけだった。リーネはエルナが用意してくれた旅用の袋に全部を詰めた。
出発前に、ロッドが来た。
エルナが連絡を取ったらしかった。ロッドは一人で来た。いつもの明るい顔じゃなかった。真剣な顔だった。
「どこへ行くかは聞かない」ロッドは言った。「でも一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「また会えるか」
少し間があった。
「わからない」俺は答えた。「でも——お前は俺が最初に友人だと思った人間だ。それは変わらない」
ロッドは少し笑った。今度は本物の笑い方だった。
「それで十分だ。元気でやれよ」
「お前もな」
ロッドは右手を差し出した。俺はその手を握った。最初に握手した時より、少しだけ力が強かった。
ロッドが去っていった後、リーネが俺の横に来た。
「いい友達だね」
「そうだな」
「惜しくないの、この街を出るの」
「惜しい」俺は正直に言った。「でも、ここに留まることはできない」
リーネは頷いた。
三人で、街を出た。
エルナが手配した馬車は、街の外れの馬屋に停まっていた。御者は年配の男で、エルナとは顔なじみらしかった。金のやり取りは既に済んでいた。
馬車に乗り込む前に、俺は一度だけ街を振り返った。
石畳の続く道。石造りの家々。遠くに学校の建物が見えた。
三年間いた街だった。前世の記憶を持って生まれ直して、差別を受けながら、エルナに出会って、リーネに出会って、ロッドに出会った。ここで初めて友人ができた。ここで初めて力が目覚めた。
惜しい、と思った。
でも——感傷に浸る時間はなかった。
「乗れ」エルナが言った。
馬車に乗り込んだ。リーネが続いた。エルナも乗った。
馬車が動き出した。
街が遠ざかっていった。石畳の音が、やがて土の音に変わった。
馬車の中は狭かった。三人が向かい合って座っていた。しばらく誰も話さなかった。
リーネが窓の外を見ていた。街が見えなくなってから、ゆっくりと視線を戻した。
「ヴェイル」
「何だ」
「昨夜のこと、もう少し聞いてもいい? 黒紋が出た時のこと」
「聞け」
「怖かった?」
少し考えた。
「怖くなかった、と言えば嘘になる。でも——恐怖より先に、別のものが来た」
「別のもの?」
「ずっと待っていたもの、という感覚だ。体の中にあったものが、初めて呼吸した。それが正直な感覚だった」
リーネはしばらく俺を見ていた。
「あんたらしい表現だな、それ」
「そうか」
「うん。普通の人は『解放感があった』とか『強くなった気がした』とか言うと思う。でもあんたは『呼吸した』って言う」
「間違っているか」
「間違ってない。むしろ正確だと思う」
エルナが口を開いた。
「昨夜の件で、一つ確認しておきたい」
二人でエルナを見た。
「黒紋が出た時、お前は相手の魔法の構造が見えたと言った。炎紋の収束点と力の流れが見えた、と」
「そうだ」
「今も見えるか。俺の紋章の構造が」
エルナが右腕をこちらに向けた。袖をめくると、細い腕に淡い紋章が浮いていた。エルフの紋章は、人族のものより線が細かった。複数の系統が絡み合うように刻まれていた。
意識を向けた。
昨夜のような、世界が黒に染まる感覚はなかった。でも——うっすらと、構造の輪郭が見えた。
「見える。ただ昨夜ほど鮮明じゃない。感情と危機が重なった時に見える精度が上がる、ということかもしれない」
「そうだ」エルナは頷いた。「黒紋の感知能力は、平常時と緊張時で精度が変わる。これは歴史上の記録にも残っている。ただし——」エルナは少し間を置いた。「練習によって、平常時の精度も上げられる。昨夜の経験を基準にして、毎日少しずつ感覚を確認し続けることで、いずれ平常時でも鮮明に見えるようになる」
「それが次の練習か」
「そうだ。当面の目標は、平常時でも構造が見えること。そして見えた構造を吸収できること。今は反応だけだ。制御が伴うまでには、まだ時間がかかる」
馬車が揺れた。外の景色が変わっていた。街を離れて、しばらく経っていた。緑の丘が続いていた。空が広かった。
リーネが窓から外を見た。
「広いな」
「この先は、ヴェルン王国の南部になる。国境まで馬車で二日ほどかかる」エルナが説明した。「途中で一泊する。宿は俺が手配してある」
「国境を越えた先は」
「ロスヴァリア王国との境界にある小さな街、グリムホルトだ。あそこは王国の管轄が薄い。教団の影響も今のところは少ない。ただし——」
「ただし?」
「ロスヴァリア王国の兵士が定期的に巡回している。あの国の紋章評議会は優秀だ。目立てばすぐに情報が上がる。静かに暮らす必要がある」
静かに暮らす、か。
前世でも今世でも、それが一番苦手だった。静かにしていても、向こうから来る。
「学校には通えるか」
「グリムホルトにも小さな学校がある。無紋でも通える」
「通う」
「わかった。手配する」
リーネが俺を見た。少し笑っていた。
「学校のことが一番気になるの」
「学べる環境は貴重だ。状況に関係なく活かすべきだ」
「わかってる。私も行く」
馬車の中が、少しだけ和んだ。
しばらくして、リーネが眠り始めた。昨夜ほとんど眠れなかったからだろう。馬車の揺れに身を任せて、静かな呼吸になっていった。
エルナが俺に小声で話しかけてきた。
「昨夜の三人、報告が上がった後に教団がどう動くか、俺なりに予測している」
「聞かせてくれ」
「教団は黒紋の保有者を発見した場合、単独では動かない。必ず複数人、それも精鋭を送り込む。昨夜の三人は偵察レベルだった。次に来るのは、戦闘を前提とした部隊だ」
「子ども一人に対して」
「黒紋の保有者だとわかった時点で、子どもでも関係ない。教団にとっては、それが判断基準だ」
そうか、と思った。怒りはなかった。ただ事実として受け取った。
「どのくらいの時間がある」
「報告が上がって、指示が下りて、部隊が動く。早くて三日。遅くて一週間。馬車で二日かかるグリムホルトに着く頃には、まだ余裕があるはずだ。ただし長くはない」
「グリムホルトで、俺に何をさせるつもりだ」
エルナはしばらく黙っていた。馬車の窓から外を見て、また俺を見た。
「力をつけてもらう。黒紋の制御を、できる限り早く習得してもらう。逃げ続けるより、立てるようになる方が早い」
「俺もそう思う」
「十歳の子どもに言う言葉じゃないが——覚悟はあるか」
「ある」
「根拠は」
「前世から今世まで、ずっと最底辺で生きてきた。諦め方を知らない。それが根拠だ」
エルナはまた、苦みの混じった笑いをした。
「……本当に、お前は変わった子どもだ」
「よく言われる」
「今は褒め言葉として受け取れ」
「わかった」
馬車は南に向かって走り続けた。
春になりかけた風が、窓の隙間から入ってきた。
隣でリーネが眠っていた。向かいでエルナが腕を組んでいた。
俺は目を閉じた。眠ろうとしたわけじゃなかった。体の奥の感覚を確認したかった。
黒は——起きていた。
昨夜と同じように、静かに起きていた。眠ってはいなかった。でも暴れてもいなかった。
試しに、意識を向けてみた。
すっと、応えた。
昨日まで、そこにあることはわかっていた。でも触れると跳ね返されるような感覚があった。今日は違った。意識が届いた。奥まで入れた。
まだ制御はできない。吸収も、意図的にはできない。でも——扉は開いた。開いたままになっていた。
これが始まりだ、と思った。
グリムホルトに着いたら、本当に始まる。
逃げながら強くなる。それがこれからの俺の生き方になる。
馬車の揺れが、心地よかった。
ヴェイル=ノクトは、十歳の春に街を出た。
向かう先に何があるのかは、まだわからなかった。
でも——体の奥の黒が、初めて一緒に進んでいた。
眠ったままじゃなく、起きて、一緒に。
それだけで、十分だった。




