第12話「グリムホルト」
グリムホルトに着いたのは、街を出て二日後の夕方だった。
馬車が丘を越えた瞬間、小さな街が視界に広がった。石造りの家が緩やかな斜面に並んで、中央に広場があった。広場の端に教会と市場があり、煙突からの煙がゆっくりと夕空に溶けていくのを、馬車の窓からぼんやりと眺めた。ヴェルン王国の街より全体が小ぶりだったが、そこが逆に良かった。小さい街は人の顔が見える。動きが把握しやすい。余計な人間が紛れ込みにくい。
リーネが窓から身を乗り出した。
「思ったより小さいな」
「静かな方がいい」
「そうだけど……学校はあるのかな、ちゃんと」
「エルナが確認してある」
「そっか」リーネは窓から顔を引っ込めて、シートに深く座り直した。「それなら大丈夫だ」
エルナが地図を確認しながら御者に指示を出していた。馬車は街の東側から入った。石畳の細い道を抜けて、小さな宿屋の前で止まった。古い看板に「ウォルフの宿」と書いてあった。看板の木が割れかけていたが、建物自体はしっかりしていた。
宿屋の主人は太った中年の男で、エルナの顔を見るなり「久しぶりだ」と人懐っこい笑顔を向けた。二人は旧知の仲らしく、金のやり取りも手慣れた様子で済んだ。部屋は二つ取った。俺とリーネが一部屋、エルナが一部屋。料金は一泊分を前払いして、明日以降は状況を見て決めることにした。
荷物を部屋に置いてから、三人で一階の食堂に降りた。スープと黒パンと焼いた肉が出てきた。二日間ほぼ馬車の中で過ごしていたから、座って温かいものを食べられるだけで体が緩むのを感じた。リーネが「久しぶりにまともなものを食べた気がする」と言って、スープをお代わりした。食欲があることは、体が元気な証拠だと思った。
「明日から動く」エルナがスープを飲みながら言った。「まず住む場所を探す。宿には長く泊まれない。目立つし、金も続かない」
「当てはあるか」
「一件だけある。街の北外れに、小屋を貸してくれる農家がいる。古い小屋で快適じゃないが、長期で借りられる。月に銀貨二枚だ」
「借りる」
「俺もそう思っていた。明日の朝に話をつける」
リーネが口を開いた。
「お金はどうするの。今いくらある?」
「銀貨が十二枚と、銅貨が少し。小屋を借りて食費を出して、約三ヶ月分だ。それまでに収入の手段を作る必要がある」
「どうやって稼ぐの」
「グリムホルトは国境沿いの街だから、物資の運搬や情報の仲介をする仕事がある。危険度は低い。俺も仕事を請けることがあるから、最初は一緒に動いて覚えてもらう」エルナはリーネと俺を交互に見た。「午前に学校、午後に仕事。それで回せる」
リーネが頷いた。
「私も何かできる。家事なら問題ない。あとは——魔法の制御が上がれば、何かに使えるかもしれない」
「焦るな」エルナは言った。「今は慣れることだ。新しい街に来たばかりで、状況もまだ把握しきれていない。無理をして目立つより、静かに馴染む方が先だ。急いて動いて余計な目を引けば、せっかくここまで来た意味がなくなる」
リーネは少し考えてから、「わかった」と言った。
食事を終えて部屋に戻った。ベッドが二つある部屋だった。リーネは荷物を片付けてすぐにベッドに倒れ込んだ。二日間ほとんど眠れていなかったからか、横になった瞬間から呼吸が深くなった。数分もしないうちに静かになった。
俺は窓の前に座って、外を見た。
グリムホルトの夜は暗かった。街灯が少なかった。でも星が多かった。ヴェルン王国の街より空が広く感じた。丘の向こうに、ロスヴァリア王国のかすかな灯りが見えた。国境がすぐそこにある、ということが、風景から伝わってきた。二つの国が向き合うように存在していて、その境目にこの街がある。そういう場所だから、どちらの国の常識も絶対ではない。それが、カナンのような考え方の人間を生む土壌になるのかもしれない。
体の奥の黒を確認した。起きていた。静かに、でも確かに起きていた。眠っていた頃の感触とは違う。あの頃は存在するかどうかすら曖昧だった。今は輪郭がある。重さがある。意識を向けると、触れると応える。
エルナに教わった通り、意識を下ろした。黒がある場所まで届かせた。感触を確かめた。昨日より少し、手触りが掴めてきていた。形があった。大きさがわかった。まだ中身はわからない。でも昨日よりわかることが増えた。毎日少しずつ、解像度が上がっていく。
一つずつだ、と思った。
翌朝、エルナと一緒に農家を訪ねた。
農家の主人は六十代の無口な男だった。エルナとは以前からの付き合いらしく、長い交渉もなく話がまとまった。北外れの小屋を月二枚で貸してくれることになった。
農家の敷地を歩きながら、俺は周囲を確認した。街からは少し離れている。人通りが少ない。もし教団の調査員が来ても、気づきやすい。これはいい立地だ。エルナが選んだ理由もわかった。快適さより安全性を優先している。それが今の俺たちには正しい。
小屋は農家から少し離れた場所にあった。石造りで、部屋は二つあった。台所と食堂を兼ねた一室と、奥の寝室だった。窓が小さくて昼間でも薄暗く、床は土のままだったが、雨風はしのげた。壁にひびが少し入っていたが、致命的ではなかった。前の物置部屋と比べれば、ここは十分すぎるほどだ。
「思ったより悪くないね」リーネが室内を見回して言った。
「当面はここで生活することになる。整えていこう」
「農家のおじいさんに板とか借りられないかな。あと、棚があると助かる」
「エルナに頼む」
エルナが農家と交渉して、古い板と簡単な家具を融通してもらえることになった。リーネが手際よく部屋を整え始めた。貴族の家育ちにしては、生活力があった。床に板を並べて、隙間に藁を詰めた。棚は農家からもらった木箱を積み上げて代用した。窓の隙間を布で塞いで、寒さを和らげた。二時間もしないうちに、入った時とは別の部屋のように変わった。
「家でも使用人に頼まず自分でやることが多かった」リーネは床に板を並べながら言った。「欠陥品扱いされてたから、使用人も近寄ってこなかった。最初は寂しかったけど、自然と自分でやるようになって、今となっては良かったと思ってる」
「そうか」
「こう見えて、掃除と整理整頓は得意なんだよ。あと、狭い場所をうまく使うのも」
「見ていてわかる。手の動かし方が慣れている」
リーネは少し笑った。作業の手を止めずに、でも少し嬉しそうな顔をした。褒められることに慣れていない、という感じがした。ヴァルト家では、能力を肯定してもらえることが少なかったのかもしれない。
その日の午後、エルナが学校に連れて行ってくれた。
グリムホルトの学校は、ヴェルン王国の学校より小さかった。古い石造りの建物で、入口に色褪せた旗が掲げてあった。中に入ると廊下が狭くて、天井が低かった。生徒が全部で五十人ほどで、年齢別に三つのクラスに分かれていた。担任の教師は三十代の女性で、風紋を持っていた。顔が柔らかくて、説明の仕方が丁寧だった。
事情を簡単に話した。家庭の都合でこの街に来た、ということだけにした。担任は特に深く聞かなかった。俺が無紋だということを確認して、少し間を置いたが、「ここでは問題ない」と言って席を割り当てた。リーネは仮の名前を使った。エルナが事前に書類を用意していた。
クラスには十五人ほどいた。国境沿いの街だから、様々な出身の子どもが混じっていた。ロスヴァリア王国側から来た子もいた。顔立ちも、話し方も、まちまちだった。ヴェルン王国の学校より、多様だった。
教室に入った瞬間の空気が、ヴェルン王国の学校と違った。あちらでは、俺が入っただけで空気が重くなった。クラス全員が俺の腕を確認して、無紋だとわかった瞬間に視線を逸らした。ここではそれがなかった。何人かが振り返ったが、好奇心の目だった。敵意はなかった。無紋だとわかっても、特別な反応をする子どもはいなかった。当たり前のことのように、ただ見ていた。それだけで、ここがヴェルン王国とは違う場所だとわかった。
隣の席の少年が話しかけてきた。茶髪で、目が細くて、声が低かった。
「転校生か。どこから来た」
「北の方だ」
「ロスヴァリア?」
「ヴェルン王国だ」
「そうか」少年は特に驚かなかった。「俺はカナン。よろしく」
「ヴェイル」
「無紋なのか」カナンは俺の腕を見て、あっさり言った。「珍しいな。でもまあ、ここじゃそんなに関係ない。国境の街だからいろんな奴が来る。紋章ランクで人間の価値を決めるのはヴェルン王国の本国の連中くらいだ。ここでそれをやっても、誰にも相手にされない」
それだけ言って、カナンは前を向いた。
ヴェルン王国の学校と全然違う、と思った。あそこでは俺が席に着いた瞬間から空気が変わった。ここでは何も変わらなかった。こういう場所が存在することを、俺は今まで知らなかった。
授業が始まる前に、カナンが再び口を開いた。
「お前、転校して来たっていうことは、何か事情があるんだろ。まあ俺も聞かないけど」
「そうだ」
「ならよかった。ここにいる連中は大体みんなそういうやつだ。詮索しない。詮索されたくない。それが暗黙のルールだ」
「助かる」
「でも友達にはなれる」カナンは少し笑った。「事情があるからって、孤立する必要はない。俺は友達が多い方が好きだ」
それだけ言って、今度こそ前を向いた。
ロッドとはまた違うタイプだ、と思った。ロッドは引きつける力があった。カナンは受け入れる力がある。どちらも、俺にはない種類の力だった。
授業が始まった。内容はヴェルン王国と似たようなものだったが、歴史の部分でロスヴァリア王国の視点が入っていた。同じ出来事を、両国の立場から並べて教えていた。紋章制度の歴史についても、「各国によって解釈が異なる」という前提で教えられていた。一つの答えを押しつけるのではなく、複数の見方を提示する。それが授業の形式として定着していた。
面白い、と思った。
物事を一方向からだけ見ない訓練が、ここでは普通に行われていた。前世で培った考え方と合わせると、これはかなり有用だった。情報を複数の角度から評価できるようになると、判断の精度が上がる。
休み時間に、リーネが小声で言った。
「カナンって感じいい子だね」
「そうだな」
「話しかけてくれたし、無紋のことも全然気にしてなかった。あの態度、自然だったよ。作ってる感じがなかった」
「国境の街だからだと思う。いろんな人間が来る場所では、一つの基準で人間を測ることが難しくなる。結果として、少し変わっていても許容される空気ができる」
「なるほど」リーネは少し考えてから頷いた。「それって、あんたにとってはいい場所だってことだね」
「そうだな」
学校から帰ると、エルナが仕事の話をした。
「明後日、国境を越えた荷物の受け取りがある。簡単な仕事だ。一緒に来い」
「内容は」
「商人が国境で手続きを踏んで通関した荷物を、この街の倉庫まで運ぶ。ただし帰りに、別の荷物をロスヴァリア側に渡す。その荷物の中身は聞くな」
「聞かない方がいいものが入っているのか」
「知らない方が、面倒なことにならない」エルナは淡々と言った。「この仕事はそういうものだ。危険物や人間が入っていないことだけは確認している。それ以上は見ない。お前もそうしろ」
「わかった。一緒に行く」
「報酬は銀貨一枚だ。二人で行けば二枚になる」
「リーネも連れていくか」
「今回は俺とお前だけでいい。まず俺が仕事の流れを見せる。次からはリーネも一緒に動けるようになる」
そういう段取りで考えているのか、と思った。エルナはいつも、先のことを考えて動いている。今日だけではなく、来週、来月、数ヶ月先まで。長命のエルフだからかもしれない。時間の感覚が、人族とは違う。
夜、小屋に戻って、二人で夕食を作った。農家からもらった野菜と、市場で買った干し肉を煮た。シンプルな食事だったが、温かかった。自分たちで作ったものを、自分たちの場所で食べる。その当たり前のことが、少し前の俺にはなかった。物置部屋で冷えた残り物を一人で食べていた頃のことを、ふと思い出した。同じ食事でも、場所と一緒にいる人間で、こんなに違うものか、と思った。
「あんた、料理できるの」リーネが鍋をかき混ぜながら聞いた。
「基本的なものは。前世の記憶がある分、知識はある。ただし腕はそれほどでもない」
「私もそれほどだ。二人でそれほどなら、まあなんとかなる」
「そうだな」
食べながら、しばらく黙っていた。外の風の音がした。小屋の壁が少し鳴った。農家の犬が遠くで吠えて、静かになった。
ヴェルン王国を出てから三日が経った。追われているかもしれない。教団の調査員がどこまで追ってきているかはわからない。でも今夜は安全だ。エルナがそう判断している。エルナが安全だと言う時は、本当に安全だ。それは今まで一度も外れたことがなかった。
この街でどのくらい生活できるかは、まだわからない。でも——今日だけを見れば、悪くなかった。学校があった。カナンがいた。小屋があった。リーネと一緒に食事を作った。それだけで、前よりずっとましだった。
リーネが唐突に言った。
「ここ、悪くないかもしれない」
「何が」
「全部。街も、小屋も、学校も。カナンみたいな子もいたし」リーネは窓の外を見た。暗い夜空に星が出ていた。「ヴァルト家にいた時より、今の方が生きてる気がする。ちゃんと自分で動いてる感じがする。誰かの都合じゃなくて、自分の意志で動いてる」
「そうか」
「あんたは? ヴェルン王国にいた頃より、今の方がいい?」
少し考えた。
「わからない。でも——ここには余計なものがない。それはいいと思う」
「余計なもの?」
「差別のされ方が、あっちよりシンプルだ。ここでは俺が無紋だとわかっても、それほど態度が変わらない。踏みにじることを楽しむ人間が少ない。カナンみたいな奴が普通にいる。それは悪くない」
リーネはしばらく俺を見ていた。
「……あんたって、やっぱりずっと差別されてきたんだね。それが普通になってる」
「そうだ」
「慣れてるのと、気にしないのは違うと思う」
「そうかもしれない」
「いつか——気にしなくていい場所に行けるといいね」リーネは静かに言った。「あんたが、何も気にしなくていい場所に。誰かに踏まれることを想定しないで、ただ生きられる場所に」
俺は何も言わなかった。
言葉が出なかった、というより——その言葉を受け取るのに少し時間がかかった。前世でも今世でも、そういうことを言ってくれた人間はいなかった。
そういう場所が、本当にあるのかどうかはわからない。どこへ行っても、何かしら踏まれる理由を見つける人間はいる。前世でも今世でも、それは変わらなかった。でも——リーネが言う「踏まれることを想定しないで生きられる場所」というのは、そういうことじゃないかもしれない。踏まれない場所ではなく、踏まれることを恐れないでいられる場所。それは、力を持てば作れるかもしれない。
「……そうなれるといいな」
やっと、それだけ言った。
リーネは頷いて、また鍋の方を向いた。それ以上は何も言わなかった。でも、さっきより少し空気が柔らかくなった気がした。
食事を終えて、片付けをして、それぞれのベッドに入った。
天井を見上げた。小屋の天井は低かった。木の板が組んであって、隙間から夜風が入ってきた。でも物置部屋の雨漏りより、ずっとましだった。
今日一日のことを整理した。グリムホルトに着いた。小屋を借りた。学校に行った。カナンと話した。リーネと夕食を作った。
ロッドのことを思い出した。ヴェルン王国の学校で、最初に友人になった男だった。「また会えるか」と聞いてきた。「わからない」と答えた。今もその答えは変わっていない。会えるかどうかはわからない。でも——ロッドのことは忘れていない。カナンを見た時に、ロッドのことを思い出したのは、そのためかもしれない。違う人間だ。でも、どちらも俺を踏もうとはしなかった。この世界にも、そういう人間がいる。それだけはわかった。
体の奥の黒を確認した。穏やかだった。穏やかで、静かで——でも確かに起きていた。昨日より少しだけ、形がはっきりしていた。練習の成果が、少しずつ積み上がっていく感覚があった。
グリムホルトの最初の夜が、静かに更けていった。




