第002話 赤字領ミオラへ
北辺へ向かう街道は、王都から離れるほど口数を減らしていった。
最初の二日は宿場の看板があった。三日目には看板の文字が剥げた。五日目には井戸の縄が切れていた。七日目の夕刻、馬車を引く痩せた馬が立ち止まり、御者は申し訳なさそうに帽子を脱いだ。
「レイス様、ここから先は勘弁してください。ミオラ道は橋が落ちております。うちの馬車を壊したら、帰りの商売ができません」
ミナが腰の小刀に手を伸ばした。
ユリアナはそれを目で止めた。
「契約はここまででしたね」
「へえ。代金はいただいております」
「橋が落ちているという情報は、いつ知りましたか」
「え」
「王都を出る前から知っていましたね。なら、危険情報を隠した分、代金の二割を返してください。もしくは、ここから徒歩で一日分の荷を運ぶ人足を紹介する」
御者は不服そうに鼻を鳴らしたが、ユリアナが契約符を広げると、顔色を変えた。
羊皮紙の端に結ばれた魔法糸が、淡く青く光っている。契約に不実があれば、糸は黒ずむ。王都では飾りのように扱われるが、前世で契約書に泣かされたユリアナには、この糸が何より頼もしかった。
「分かりましたよ。人足なら、手前の集落に二人います。ただし口が悪い」
「口は予算に入れません」
結局、ユリアナとミナは、古い荷車を借りて街道を進んだ。
片側は枯れた葦の湿地。もう片側は黒い岩山。風は潮を含んでいて、肌に薄い塩を残す。
「お嬢様、帰りましょう」
「王都に?」
「いえ、レイス家に」
「父はエルネスト殿下に借金がある。私を守れないわ」
「では、隣国に」
「隣国へ逃げるにも資金がいる。今の私の資産は、帳簿と、落ちた橋と、荒れた領地」
「言葉にすると絶望しかありません」
「でも、橋が落ちているということは、人が渡りたがっている道だということよ」
ミナは、主人がまた変な前向きさを発揮したときの顔をした。
ミオラの町が見えたのは、翌日の昼過ぎだった。
想像していたより広い。石造りの倉庫が海沿いに並び、遠くには半円形の防波堤が残っている。だが屋根の多くは抜け、煙突から煙が上がっている家は少ない。港には船が三隻、どれも帆を畳んだまま眠っていた。
町の門には、兵士ではなく、片目に布を巻いた中年男が立っていた。
「通行税、銀貨一枚」
「高いですね」
「領主がいない町では、門番が領主だ」
「今日から違います」
ユリアナは契約符を差し出した。
男は一瞥して、鼻で笑った。
「王都からまた捨て駒が来たか。お嬢さん、悪いことは言わねえ。ここは税を取る前に人が死ぬ町だ。港は使えねえ。倉庫は空。井戸は三つのうち二つが濁ってる。冬が来れば、みんな腹を空かせる」
「ありがとうございます」
「あ?」
「初期報告としては十分です。お名前は」
「ガルム」
「ではガルムさん。銀貨一枚は払いません。代わりに、あなたを臨時門番として雇います。日当は銅貨六枚。業務は通行人の数、荷の種類、行き先の記録。徴税は停止。三日ごとに報告」
ガルムはぽかんとした。
ミナもぽかんとした。
「お嬢様、門番を雇うお金がありません」
「あるわ。王都で売った耳飾りの代金」
「あれは最後の生活費です」
「だから使うの。生活費は消えるけれど、記録は資産になる」
ガルムは笑い出した。
「変な令嬢だ。いいぜ。三日だけな。三日で逃げる領主を何人も見た」
「逃げるなら、その前に帳簿を整えます」
「ますます変だ」
町に入ると、問題は門番の報告よりひどかった。
領主館は屋根の一部が落ち、食堂には雨水を受ける桶が並んでいる。前任者が残した帳簿は、湿気で波打ち、最後の記録は半年前。税収欄には、未納、未納、徴収不能という文字が踊っていた。
ユリアナは椅子に座り、深く息を吸った。
前世で見た倒産会社の会議室と同じ匂いがする。
誰も責任を取りたがらず、誰も全体を見ておらず、現場だけが疲れ果てている匂い。
「ミナ、紙を」
「はい」
「まず水。次に食料。三つ目に信用」
「お金ではなく?」
「お金は信用を形にしたものよ。信用がない町に貨幣だけ入れても、持って逃げられる」
ユリアナは割れた机の上に、三本の線を引いた。
水。食。信。
「井戸を調べる。倉庫を開ける。通行税を止め、記録を始める。食べられない人には、無償で温かいものを出す」
「無償ですか」
「ただし、名前と家族数、できる仕事を聞く。これは施しではなく、雇用台帳づくり」
言い終えた瞬間、扉の外で床板が鳴った。
ミナが小刀を抜く。
「盗み聞きとは、礼儀が悪いですね」
入ってきたのは、黒い外套の男だった。
背は高いが、旅人のように荷は少ない。髪は夜のように黒く、目だけが冬の海の色をしている。腰に剣を下げているが、手は柄に触れていない。
「礼儀を欠いたことは詫びる。俺はカイ。港の外で荷馬車を預かる仕事をしている」
「荷馬車を預かる?」
「通行税が高すぎて、町へ入れない商人がいる。俺が外で番をする」
「つまり、町の入口で物流が止まっている」
「そうだ」
ユリアナは思わず笑いそうになった。
問題が多いということは、改善余地が多いということでもある。
「カイさん。外に止まっている荷の種類は分かりますか」
「小麦、干し豆、古い鍋、薪、薬草。あと、王都行きの塩魚が腐りかけている」
「買います」
「金はあるのか」
「少しだけ。でも、腐る前の塩魚には価値がある。鍋と薪も。明日の朝、領主館前でスープを作ります」
ミナが額を押さえた。
「お嬢様、領主就任一日目に炊き出しですか」
「ええ。空腹の町に法律を読ませても意味がない」
カイはユリアナを見つめていた。
嘲笑ではない。試すような目だ。
「王都の令嬢が、魚臭い鍋をかき混ぜるのか」
「必要なら」
「なぜそこまでする」
「この町は私の慰謝料だから」
カイの目がわずかに細くなった。
それから、初めて口元に笑みが浮かぶ。
「変な領主だな」
「今日、二度目の評価です」
「なら三度目も言っておく。変だが、逃げなさそうだ」
夜、ユリアナは湿った帳簿を一枚ずつ暖炉のそばに並べた。
透明な帳簿が視界の端で頁をめくる。未回収税の数字が、赤い糸のように町中へ伸びていく。
その糸の一本が、港の一番奥、封鎖された石倉庫へ向かっていた。
記録には、その倉庫の名が残っていた。
王国北方備蓄庫。
五年前、閉鎖。
中身、記載なし。
ユリアナはインクの乾いたペン先を見つめた。
「空の倉庫に、赤い数字は出ないはずよ」
ミオラ領の最初の夜、彼女は眠らなかった。
外では潮風が窓を叩き、町のどこかで、腹を空かせた子どもが泣いていた。




