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第001話 婚約破棄は倒産処理の始まり

「お前を妻として愛することはない。いや、それ以前に、今日をもって婚約を破棄する」


 銀の杯が触れ合う音で満ちていた王宮の祝宴場は、その一言で凍りついた。

 ユリアナ・レイスは、第二王子エルネストの真正面に立っていた。淡い青の夜会服。母から受け継いだ小さな真珠の耳飾り。三年かけて王家の予算書を整理し、彼の執務室で徹夜した手には、まだインクの痕が残っている。


 その手を、エルネストは見もしなかった。


「君は地味で、愛想がなく、数字ばかり見ている。王子妃に必要な華やぎがない。それに、私の大切なブリジットに嫉妬して、王宮費を勝手に操作したそうではないか」

「操作、ですか」

「白々しい。王宮の舞踏会予算が不足した。君が帳簿を預かっていたのだ。責任は君にある」


 彼の隣で、淡桃色のドレスをまとったブリジット・ラナ男爵令嬢が、怯えた小鳥のように目を伏せた。

 周囲の貴族たちは、誰かが最初に笑うのを待っている顔をしていた。地味な子爵令嬢が捨てられる。しかも、横領疑惑つきで。噂話としては上質だ。


 ユリアナの胸の内で、何かが鈍く割れた。

 それは恋心ではなかった。もっと古く、もっと乾いた、過労で眠れなかった夜の記憶だった。


 白い蛍光灯。冷えた缶コーヒー。倒産寸前の会社で、誰も見たがらない赤い数字を、ひたすら拾い集めていた指先。

 部長の怒鳴り声。

 取引先への謝罪。

 最後の記憶は、終電を逃した駅のホームで、胸がぎゅっと縮む感覚。


 ああ、とユリアナは思った。

 私は一度、会社に殺されたのだ。

 そして今度は、王子の赤字に殺されかけている。


 恐怖より先に、呆れが来た。


「殿下」

「なんだ。泣いて許しを請うなら、せめて私ではなくブリジットに」

「その舞踏会予算ですが、赤字ではありません」


 ざわめきが止まった。

 エルネストの眉が上がる。


「何を言っている」

「帳簿上は赤字に見えます。ただし、赤字に見えるよう処理されています。銀食器の修繕費が三重計上、南庭園の噴水費が二重計上、さらに王都劇団への謝礼が、同じ筆跡で二つに分かれております。片方は劇団に渡っていません」


 ユリアナは自分の声が震えていないことに気づいた。

 不思議だった。三年前なら、婚約者に嫌われることが何より怖かった。昨日なら、役に立たないと言われるのが怖かった。

 けれど、前世の記憶が戻った今、エルネストの顔は怒った上司にしか見えなかった。

 そして怒鳴る上司ほど、たいてい数字を見ていない。


「証拠は」

「あります」


 ユリアナは袖口から小さな紙束を取り出した。

 美しく折られた招待状ではない。夜会に似つかわしくない、灰色の写しだ。


「王宮文書室の保管帳簿は、殿下の側近が差し替えました。ですが、私は毎月、控えを自分の手で写しておりました。王家の金庫に触れる者として当然の義務です」

「貴様、私を疑っていたのか」

「殿下を疑ったことはありません。数字を疑っただけです」


 ブリジットの指が、扇の骨を強く握った。

 その動きを見て、ユリアナの胸の奥に、薄い金色の線が浮かんだ。紙の上ではない。視界の端に、透き通る帳簿(ちょうぼ)の頁が開く。


 支出。収入。未払。貸し。借り。

 人の言葉が、数字の重さを持って並んでいく。


 これが私の加護なのだと、ユリアナは直感した。

 生まれた時、神官に無色と笑われた加護。何の役にも立たないと言われた加護。

 それは、嘘を暴く炎でも、敵を焼く雷でもなかった。

 ただ、釣り合わないものを見つける(はかり)だった。


「私の罪を問うのであれば、王宮監査官をこの場にお呼びください。三年分の原本と控えを突き合わせましょう。夜会は長くなりますが」


 誰かが小さく噴き出した。

 エルネストの顔が赤くなる。


「もういい。君のような女を王宮に置くこと自体が不快だ。婚約破棄を受け入れるなら、北辺のミオラ領を与えてやる。荒れた港町だ。税収はない。民は逃げた。だが一応、子爵家にふさわしい領地ではある。そこで一生、帳簿でも眺めていろ」


 周囲が今度こそ笑った。

 北辺のミオラ。王都から十日。冬は海風が鋭く、夏は湿地から病が出る。何年も領主が定着せず、港は土砂で埋まり、街道は盗賊の通り道になったと聞く。

 罰としては、なるほど上等だ。


 ユリアナは紙束を胸元に戻し、静かに頭を下げた。


「承知しました」

「は?」

「慰謝料として、北辺ミオラ領の領主権、未回収税債権、港湾使用権、街道管理権をいただきます。口約束では困りますので、今すぐ契約符(けいやくふ)を」

「貴様、自分の立場が分かっているのか」

「分かっております。ですから、書面を求めています」


 ユリアナはにこりともしなかった。

 笑う必要がなかった。


 王子が女を捨てる場面で、女が慰謝料の内訳を確認するとは誰も思っていなかったらしい。祝宴場の空気は、先ほどとは違う種類の冷たさを帯びた。


 宰相補佐が慌てて羊皮紙を用意し、王家の印が押された。エルネストは怒りに任せて署名した。ブリジットは止めなかった。彼女はミオラの価値を知らない。

 もちろん、ユリアナもまだ知らない。

 ただ前世の倒産処理で、一つだけ身に染みていた。


 誰も欲しがらない資産ほど、精査する価値がある。


 祝宴場を出る時、侍女のミナが青い顔で駆け寄ってきた。


「お嬢様、どうして受けたんですか。北辺なんて、追放と同じです」

「追放でいいわ」

「よくありません」

「王宮に残る方が危ない。あの殿下は、国家予算を家計簿より雑に扱っている」


 ミナは一瞬だけ口を開け、それから唇を結んだ。

 彼女は十歳のころからユリアナに仕えている。地味で、気が強く、主人より先に怒る侍女だ。


「では、荷造りを」

「ええ。服は半分でいい。帳簿とインク、計算板、それから保存食を多めに。宝石は売る。馬車は借りない。借りたものは奪われる」

「お嬢様」

「なに」

「今、少し楽しそうです」


 ユリアナは廊下の窓に映る自分を見た。

 真珠の耳飾りが小さく揺れている。


「そうかもしれない」


 愛されないと宣告された瞬間、彼女はようやく、自分の人生を取り戻した。


 その夜、ユリアナは王都を出た。

 背後で王宮の灯りが遠ざかる。馬車の床には、王子の署名入りの契約符と、三年分の帳簿の写しが積まれている。


 北辺ミオラ領。

 赤字。未回収。荒廃。放棄資産。


 前世の彼女なら、その言葉に胃が痛くなっただろう。

 今のユリアナは、窓の外の暗闇に向かって小さくつぶやいた。


「倒産処理なら、慣れているわ」


 そして視界の端で、透明な帳簿がひとりでに頁をめくった。

 最初の行には、こう記されていた。


 王国全体、支払不能の兆候あり。

お読みいただきありがとうございます。面白そうと思っていただけたら、ブックマークで追いかけていただけると励みになります。

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