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第003話 無料スープと最初の黒字

朝の領主館前に、温かな湯気が立った。


 大鍋は三つ。ひとつには干し豆と塩魚。ひとつには崩れた麦と野菜くず。最後のひとつには、薬草をほんの少し入れた薄い粥。

 料理と呼ぶには粗末だ。王都の夜会なら、使用人のまかないにもならない。

 それでも、空腹の胃にはごちそうになる。


 ミナは袖をまくり、木べらで鍋底をかき混ぜていた。


「お嬢様、本当に並んでいます」

「温かいものは、人を動かすのよ」

「前世の知恵ですか」

「社畜の知恵。徹夜明けの味噌汁は、人間を少しだけ生き返らせる」

「みそしる、とは」

「いつか作りたいもの」


 ユリアナは机を外へ運ばせ、そこに紙を置いた。

 名前。家族数。困っていること。できる仕事。持っている道具。

 炊き出しの列に並ぶ人々は、最初こそ疑い深い目をしていたが、スープを受け取ると少しだけ肩の力を抜いた。


「名前を聞かれるのは、税を取るためか」

「いいえ。仕事を探すためです」

「仕事なんぞない」

「あります。屋根を直す人、井戸を見る人、魚を干す人、子どもに字を教える人。今まで仕事として数えられていなかっただけ」


 老婆が、欠けた椀を両手で抱えて言った。


「字を教えるだけで、飯が食えるのかね」

「食べられる町にします」

「領主様は嘘が上手い」

「嘘なら、もっと楽なものを選びます」


 老婆はふんと鼻を鳴らしたが、名簿に名前を書いた。マルタ。元寺子屋教師。腰痛あり。計算ができる。

 ユリアナはその欄に小さな星印をつけた。


 昼前、列の後ろで騒ぎが起きた。

 痩せた少年が、商人の革袋を抱えて逃げようとしていた。商人が少年の襟をつかみ、泥の上に押し倒す。


「盗人め。手を折ってやる」

「待って」


 ユリアナは鍋の前から離れた。

 少年は十歳ほど。頬はこけ、目だけがぎらぎらしている。


「名前は」

「言わない」

「では、盗んだものは」

「盗んでない。取り返した」


 商人が怒鳴った。


「嘘をつけ。これは俺の計量石だ」

「違う。みんなから麦を買うときだけ重くて、売るときだけ軽い石だ」


 周囲がざわめいた。

 ユリアナは商人の革袋を受け取り、中の石を机に並べた。見た目は同じ。だが手に乗せた瞬間、違和感があった。

 前世で倉庫棚卸しをした時の感覚が戻る。箱に書かれた数量と、中身の重さが合わない時の、あの嫌な感触。


「ミナ、水桶を」

「はい」


 ユリアナは同じ大きさの計量石を水に沈めた。

 片方はすぐ沈む。もう片方は、わずかに泡を吐いてから沈んだ。


「中に空洞があります。重さが違う」

「そんな馬鹿な」

「売る時は軽い石、買う時は重い石を使ったのですね」


 商人の額に汗が浮かぶ。

 透明な帳簿が、視界の端で開いた。

 少年の言葉の横には、細い金の線。商人の言葉の横には、黒い滲み。

 (はかり)の加護は、今日も静かに釣り合わないものを示している。


「この町で商売を続けるなら、不正分を返還してください」

「領主になったばかりの小娘が」

「返還しないなら、あなたの荷は外に出せません。ガルムさん」


 門番のガルムが、にやにやしながら槍を肩に担いだ。


「臨時門番、仕事だな」

「ええ。記録もお願いします」

「へいへい、領主様」


 商人は舌打ちをし、革袋から銀貨を数枚出した。

 ユリアナはそれを受け取らず、少年に向けた。


「被害を受けた家の名前を知っている?」

「だいたい」

「では、あなたに返還係をお願いします。報酬は銅貨五枚と昼のスープ」

「俺を捕まえないのか」

「盗みは認めません。でも、不正を見抜いた能力は雇います」


 少年は唇を噛んだ。


「ノア」

「え?」

「名前。ノアだ」


 その日の夕方までに、名簿には百二十七人の名前が増えた。

 井戸職人が一人。船大工が二人。元教師が一人。魚を干すのが得意な女性が十数人。読み書きのできる子どもが三人。

 町は貧しいが、空ではなかった。

 人が残っている。

 それが最大の資産だった。


 日が傾くころ、カイが荷馬車を引いて戻ってきた。

 荷台には薪と、古い鍋と、修理できそうな鉄板が積まれている。


「商人たちが、通行税がなくなったなら町に入ってもいいと言っている」

「よかった」

「ただし、あんたが三日で逃げたら二度と来ないそうだ」

「三日では無理ね」

「何が」

「黒字化」


 カイは低く笑った。

 彼が笑うと、周囲の疲れた空気が少しだけ軽くなる。ユリアナはそれに気づき、すぐに目を逸らした。

 今は恋のような高価なものを買う余裕はない。


 そこへ、ガルムが封蝋つきの書状を持ってきた。


「王都から早馬だ。ずいぶん早いな」


 封には、第二王子エルネストの紋章。

 ミナの顔が険しくなる。


 ユリアナは書状を開いた。

 文面は短かった。


 北辺ミオラ領の譲渡は、錯誤によるものである。

 速やかに領主権を返上し、王都へ出頭せよ。

 従わぬ場合、反逆の意思ありと見なす。


 鍋の湯気が、夕暮れの中で白くほどけていく。

 ユリアナは書状を折りたたみ、机の上の名簿を見た。

 百二十七人分の名前。

 空腹の町が、ようやく数字になった。


「ミナ、返事を書くわ」

「どのように」

「契約は有効。領地は返しません。監査をしたいなら、公開でどうぞ」


 ノアが目を丸くした。

 ガルムが吹き出した。

 カイは黙って、王都の紋章を見つめている。その目には、妙な冷たさがあった。


「ユリアナ」

「はい」

「王都は、あんたが思うより汚い」

「汚いものの方が、洗えば変化が分かりやすいです」


 カイは一瞬だけ言葉を失い、それから小さく首を振った。


「本当に変な領主だ」


 ユリアナは返書の最初の一行を書いた。


 拝啓、第二王子殿下。

 当方、赤字につき、無償返品はお受けできません。

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