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第七章 大島

 伯方・大島大橋は、二つの橋が連なっている。

 伯方島と見近島を結ぶ伯方橋、見近島と大島を結ぶ大島大橋。その間に、小さな島が挟まれている。見近島は橋の下に隠れるように存在し、キャンプ場があると案内板に書いてあったが、冬の今は誰もいなかった。橋の上から見下ろすと、松の木が密生した小島が海面に浮いていた。橋が通過するためだけに、そこにある島のように見えた。

 空は朝から低かった。

 雲が厚く重なり、光が届かなかった。海の色が、昨日までと変わった。生口島の白金色でも、大三島の鏡面でもなく、鉛色だった。波は小さかったが、水面に艶がなかった。嵐が来る前の海は、準備をしているように静かになるのだと、どこかで読んだことがある。今日の海がそれだった。

 橋を渡りきると、大島に入った。

 最初に感じたのは、木の多さだった。

 しまなみの島々の中で、大島は最も緑が濃い印象を持った。道の両側に木々が迫り、その枝が道の上で重なり合っていた。冬でも常緑樹が多く、緑が途切れなかった。葉の間から、鉛色の空が断片的に見えた。整備された観光道路を外れると、道は急に細くなり、草が路面に侵食していた。

 風がなかった。

 その無風が、不穏だった。嵐の前の無風だと、体が感じた。空気が動かず、音が遠かった。木の葉も揺れず、海も波立たず、島全体が息を止めているようだった。

 慎也はペダルを踏みながら、この静けさがいつ崩れるかを待った。


 大島の北側を走ると、亀老山への分岐があった。

 案内板に「展望台」と書かれていた。標高三百メートルほどの山の頂上に、瀬戸内の眺望を持つ展望台があるという。来る前に調べて知っていたが、今日の天気では何も見えないだろうと思いながら、それでも坂を上ることにした。

 理由はうまく言えなかった。

 何も見えないとわかっていても、上ってみたかった。

 山道は急だった。

 自転車を押して上った。舗装はされていたが、傾斜がきつく、脚に乳酸が溜まった。道の脇に石が積まれた場所があり、小さな祠があった。花が供えられていた。新しい花だったから、誰かが最近来た証拠だった。この山にも、人が来る理由がある。

 上るにつれて、木が変わった。

 低い場所では広葉樹が多かったが、高くなると松が増えた。松の根が岩の間から出て、道に這い出ていた。踏まないように歩きながら、その根の強さを感じた。岩を割って出てくる根の力が、足の裏から伝わってきた。

 頂上に近づくと、風が出てきた。

 低い場所では無風だったが、山の上には風があった。南から来る風で、湿っていた。雨が近い匂いがした。土と草と海が混ざった匂い。嵐の前触れを、風が運んでいた。

 展望台に出た。

 見えなかった。

 正確には、霞んで見えた。来島海峡大橋が、靄の中に白く浮かんでいた。橋の向こうが今治で、この旅のゴールだ。しかし靄が濃く、橋の全体は見えなかった。中程まで見えて、あとは白に溶けた。ゴールが見えるようで見えない。その曖昧さが、慎也には今の自分の状態と重なった。

 展望台のベンチに、一人で座った。

 風が強くなっていた。

 海の方から、雲が流れてきていた。


 山を下りると、雨が来た。

 最初は霧雨だった。気づかないほど細かい粒が、顔に当たり始めた。空気全体が湿りを帯び、視界がわずかに白んだ。道が濡れ始め、タイヤが水音を立てた。

 慎也は雨具を持っていた。出発前にバッグに入れておいた。路肩で自転車を停め、上下の雨具を着た。空が暗くなっていた。午後の三時だったが、夕方のような暗さだった。

 宿を探さなければならなかった。

 事前に調べていた宿に電話すると、空いているという。島の南側、宮窪の集落に近い民宿だった。地図で確認すると、今いる場所から五キロほどだった。

 走り始めると、雨が強くなった。

 霧雨から、粒のある雨に変わった。風も出てきた。道の左手に海があり、その海から風が来た。波が立っていた。先ほどまでの鉛色の水面が、白い波頭を持ち始めていた。風が波を作り、波が崩れ、また波が来た。嵐が近かった。

 木々が揺れた。

 道の上に落ち葉が散らばった。常緑樹の葉が、風に引き剥がされて飛んでいた。常緑樹の葉は、落ちる季節を持たない。風に剥がされて初めて落ちる。その葉が、道の上を転がっていた。

 慎也は前傾姿勢でペダルを踏んだ。

 雨が顔を叩いた。雨具の中でも、首筋から水が入ってきた。視界が悪くなった。眼鏡が濡れて、前が見づらくなった。速度を落とし、慎重に走った。

 宮窪の集落に入ると、風が少し和らいだ。

 建物が風除けになった。石垣が続き、古い家が密集していた。路地が入り組み、どこが宿への道かわからなくなった。電話で確認しながら、ようやく看板を見つけた。

「民宿 潮騒」

 駆け込むように、玄関に入った。


 宿の女将が、濡れた慎也を見て、すぐにタオルを持ってきた。

「大変でしたね」

と言いながら、乾いたタオルを渡した。慎也は礼を言い、ロビーの椅子で雨具を脱いだ。雨具の下も、所々湿っていた。首筋と手首が特に濡れていた。タオルで拭きながら、体が少し震えていることに気づいた。寒さというより、緊張が解けた震えだった。

 部屋に案内された。

 二階の和室で、窓から宮窪の集落と海が見えた。雨が窓を叩いていた。波が高くなっていた。防波堤に波が当たり、白い飛沫が上がっていた。その飛沫が風に流されて、霧のように散った。

 荷物を下ろし、着替えた。

 乾いた服に袖を通すと、人心地がついた。窓の外の嵐とは別の、乾いた静けさが部屋の中にあった。

 バッグの中のノートを確認した。

 三枝のノートは、防水の袋に入れて持っていた。濡れていなかった。ノートを取り出し、テーブルの上に置いた。三枝の鉛筆の文字が、乾いた部屋の中にあった。

 外の嵐が、強くなっていった。

 宮窪の港の方から、何かが軋む音がした。船が揺れているのか、桟橋が揺れているのか判断できなかった。木が風に揺れる音と、波が防波堤を叩く音が交互に聞こえた。

 雨が、窓を叩き続けた。


 夕食は一階の食堂で出た。

 他に客が一組いた。

 カウンターの端の席に、若い女性がひとりで座っていた。慎也が入ると、顔を上げた。

 目が合った。

 慎也は目を逸らした。テーブル席に座り、メニューを手に取った。でも視界の端に、その女性の輪郭があった。三十前後、細い体、肩まである髪。旅の一人客らしく、小さなリュックを椅子の横に置いていた。

 女将が料理を持ってきた。海鮮鍋だった。蓋を開けると、湯気が上がり、魚と野菜の匂いが広がった。外の嵐の音と、鍋の中で煮える音が、部屋の中で重なった。

 食べながら、慎也はその女性を意識しないようにした。

 できなかった。

 何かが引っかかっていた。顔を見たのは一瞬だったが、何かが、どこかで見た顔だという感覚があった。でも思い当たらなかった。旅の途中で会った人間ではない。島で会った人間でもない。もっと遠い場所で、もっと別の文脈で見た顔のような気がした。

 女性の方から声がかかった。

「すみません」

 慎也は顔を上げた。

「もしかして、杉本さんですか」

 名前を知っていた。

 慎也は箸を止めた。知らない人間が、自分の名前を知っている。それ自体は珍しいことではないかもしれない。でもこの島で、この嵐の夜に。

「そうですが」

「やっぱり」女性は立ち上がり、テーブルの近くに来た。

「私、三枝澄花といいます。兄の妹です」

 部屋の空気が変わった気がした。

 嵐の音が遠くなった。鍋が煮える音が消えた。女性の顔が、急に鮮明になった。

 三枝澄花。

 手紙の差出人。この旅を始めるきっかけを作った人間。会ったことはなかった。でも今、目の前にいた。

「なぜ、ここに」

「杉本さんを探してました」

 澄花は静かに言った。

「尾道から追いかけてきたんです。兄の日記に、しまなみ海道の地図が挟んでありました。島を辿れば会えると思って」


 食事を終えた後、二人は食堂の隅のテーブルに向かい合って座った。

 女将は気を利かせて、お茶を置いて奥に引っ込んだ。外の嵐は続いていた。雨音が屋根を叩き、風が建物を揺らした。

 澄花は落ち着いていた。

 混乱しているのは慎也の方だった。会ったことのない人間が目の前にいる。しかも、ずっと避けてきた、向き合えずにいた人間が。

「手紙を出したのは、半年前でした」

 澄花は言った。

「返事が来なかったから、来てみようと思いました」

「返事が、できなかったんです」

「わかってます」

 澄花は言った。責める声ではなかった。

「来てくれただけで、十分です」

 その言葉が、逆に慎也を追い詰めた。

「伯方島で、ノートが見つかりました」

 慎也は言った。バッグからノートを取り出し、テーブルに置いた。

「民宿の方が持っていた。三枝さんが置き忘れたものだと」

 澄花はノートを見た。表紙に指を触れた。

「これは」

と呟いた。

「読みましたか」

「少し」

 慎也は言った。

「未完成の物語が書かれていました。灯台守の話です」

 澄花はノートをゆっくりと開いた。最初のページを見た。兄の文字を、しばらく黙って見た。その表情に、慎也は目を向けられなかった。

 外で、ひときわ強い風が吹いた。

 建物が軋んだ。窓が震えた。雨が横殴りになった。


 澄花がノートを閉じるまで、慎也は何も言わなかった。

 澄花は時間をかけて読んだ。慎也が読んだよりも時間をかけた。時々、指で文字の上をなぞった。兄の筆跡を、指で確かめるように。

 読み終えると、ノートを静かに閉じた。

 しばらく、その表紙に手を置いていた。

「知ってましたか」

 澄花は言った。顔を上げず、テーブルを見ながら。

「兄のことを、どうしたか」

 慎也は答えようとした。でも言葉が出なかった。

「手紙を出す前に、調べました」

 澄花は続けた。

「兄の日記に、杉本さんのことが何度も出てきた。原稿を返されたことが書いてあった。何と言われたかも、書いてあった」

「……何と書いてありましたか」

「このままでは難しい、と言われた、と」

 澄花はそこで顔を上げた。

「人に届くものを書いてほしい、とも言われた、と」

 慎也は黙った。

「それが、兄を壊したとは思っていません」

 澄花は言った。声は静かだったが、はっきりしていた。

「兄は壊れやすい人でした。生まれた頃から。外からの言葉を、他の人より深く受け取ってしまう人だった」

「それでも」

 慎也は言った。喉が乾いていた。

「自分の言葉が、一つの要因になったと思っています」

「そうかもしれません」

 澄花は言った。

 その率直さが、慎也には予想外だった。否定されるか、あるいは激しく責められるかのどちらかを、どこかで想定していた。でも澄花は、そうかもしれない、と言った。

「兄はあなたの言葉で、壊れていった」

 澄花は続けた。

「日記にそう書いてあった。壊れていった、という言葉で。一度ではなかった。少しずつ、時間をかけて」

 嵐が、建物を揺らした。

 慎也の中で、何かが崩れた。

 崩れるという表現が正確かどうかわからなかった。でもそれ以外の言葉が見つからなかった。今まで何とか保っていたものが、澄花の言葉を受けて、内側から崩れていくような感覚だった。

 外の嵐と、内側の崩れが、重なった。


 慎也は俯いた。

 テーブルの木目を見た。木目の模様が、波のように見えた。でも今は返さなかった。来たものが、返らずに溜まっていった。

「泣いてもいいですよ」

 澄花が言った。

 泣けなかった。

 泣く資格がないと思った。泣くことは自分を楽にするためだ。三枝拓海のために泣くのではなく、自分の罪悪感を流すために泣く。矢野が言っていた。祈るのは自分のためだ、と。泣くのも同じだ。

 でも、そう考えながら、目が熱くなった。

「すみません」

と言った。何に対する謝罪か、自分でもわからなかった。

「謝らなくていいです」

 澄花は言った。

「謝ってもらうために来たんじゃない」

「なぜ来たんですか」

 澄花は少し間を置いた。外の風が、屋根を叩いた。

「兄の原稿を、探してほしかった。それは本当です。でも、それだけじゃなかった」

「何が」

「あなたに、兄のことを知ってほしかった」

 澄花は言った。

「兄がどんな人だったかを、誰かに知ってほしかった。出版の世界にいた人間に。原稿を切り捨てた人間に、ではなく、兄の文章を読んだことのある人間に」

 慎也は顔を上げた。

 澄花の目が、まっすぐこちらを向いていた。責める目ではなかった。でも何かを見定めようとしている目だった。

「兄の文章は、好きでしたか」

 その問いが、慎也の中に入ってきた。

 好きだったか。

 慎也は考えた。考えながら、答えがすでにあることに気づいた。

「好きでした」

 慎也は言った。

「三枝さんの文章は、他の誰とも違う質を持っていた。それは本当のことです」

「でも、売れないと思った」

「……思いました」

「その両方が、本当なんですね」

「そうです」

 澄花はうなずいた。

「兄も、そう言っていました。日記に。杉本さんは、僕の文章を好きだと思う。でも売れないとも思っている。その両方が本当だから、信じることができないと」

 その言葉が、慎也の胸を貫いた。

 信じることができない。

 三枝は慎也を、信じることができなかった。好きだと言いながら、売れないと言う人間を。その矛盾を、三枝は受け取れなかった。

 慎也には、言い返せなかった。

 矛盾は矛盾だった。慎也の中に、その矛盾は確かにあった。三枝の文章を好きだと思いながら、市場の論理で切り捨てた。その二つは、本当に両立していたのか。

 わからなかった。

 今も、わからなかった。


 嵐は夜中に最も強くなった。

 慎也は部屋で、眠れずに座っていた。

 風の音が、絶え間なく続いた。窓が震え、建物が軋んだ。どこかで何かが倒れる音がした。木の枝か、看板か。外は暗く、何も見えなかった。嵐の中にいる、ということだけがわかった。

 澄花との会話が、頭の中で繰り返された。

 兄はあなたの言葉で壊れていった。

 少しずつ、時間をかけて。

 信じることができない、と兄は言っていた。

 言葉が、一つひとつ戻ってきた。戻るたびに、少しずつ角度が変わった。同じ言葉が、繰り返されるたびに別の面を見せた。

 自分は、三枝に何ができたのか。

 その問いを、慎也はずっと避けてきた。できたことがあったとすれば、それをしなかった自分を認めなければならないから。できることが何もなかったとすれば、無力だった自分を認めなければならないから。どちらも、向き合うのが怖かった。

 でも今夜、嵐の中で、その問いの前に立たされた。

 できたことが、あったかもしれない。

 時間をかけて待つことができたかもしれない。書き直しを求めずに、もう少し見守ることができたかもしれない。三枝がどこで書いているかを、確かめることができたかもしれない。

 しなかった。

 それは事実だった。

 でもしなかったことが、三枝を死に至らしめたかどうかは、わからなかった。わからないことが、この先もわからないまま続くかもしれない。矢野が言った通り、赦されないまま生きることが、自分の先にあるかもしれない。

 嵐の音が、続いた。

 慎也はノートを持ち、布団の上に座った。

 三枝の書いた物語の、途中で終わった最後の文を読んだ。

 灯台守は翌朝、いつものように灯台に上った。昨夜の光のない海を思いながら、それでも今夜の灯りを

 そこで終わっていた。

 それでも今夜の灯りを。

 続きが、なかった。

 慎也は、その続きを考えた。灯台守は何をしようとしていたのか。灯りを灯すのか。灯すことをやめるのか。やめないとしたら、どんな気持ちで灯すのか。

 三枝が書こうとしていた続きは、わからなかった。

 でも、それでも今夜の灯りを、という言葉は残っていた。

 途中で終わっても、その言葉はそこにあった。


 夜明け前に、嵐が少し弱まった。

 雨がまだ降っていたが、風が落ちた。建物の軋みが減った。窓の震えが止まった。

 慎也は窓を少し開けた。

 雨の匂いが入ってきた。濡れた土と木と草の匂い。嵐が通り過ぎた後の、洗われた匂い。

 港の方を見ると、防波堤の灯りが見えた。

 嵐の中でも、灯りは消えていなかった。

 小さな灯りが、雨の中でぼんやりと光っていた。揺れていたが、消えなかった。灯台ではないただの港の灯りだったが、慎也にはそれが三枝の書きかけた物語と重なった。

 それでも今夜の灯りを。

 灯台守は灯りを灯したのだ、と慎也は思った。

 三枝が書こうとしていた続きは、おそらくそれだった。罪を抱えたまま、それでも灯りを灯す。赦されるためではなく、灯すべきだから灯す。それが灯台守の選択だったはずだ。

 その確信が、根拠もなく、でも確かにあった。

 慎也は窓を閉じた。

 澄花は今夜、この宿のどこかに泊まっている。明日、また話す。まだ話せていないことが、たくさんある。

 でも今夜は、ここまでだ。

 崩れた後で、朝が来る。朝が来たら、また進む。

 嵐の中で灯り続けた防波堤の光を、瞼の裏に残しながら、慎也は横になった。

 雨音が、遠くなっていった。



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