第八章 今治
澄花も自転車を持っていた。大島まで輪行で来たと、朝の食事のときに聞いた。しまなみを走ったことはないが、最後の橋だけ一緒に渡りたいと言った。慎也は断る理由がなかった。断る気持ちも、なかった。
来島海峡大橋は、三つの橋が連なっている。
来島第一大橋、来島第二大橋、来島第三大橋。大島の南端から今治の糸山まで、四キロ近い距離を三本の橋が繋ぐ。しまなみ海道の中で最も長く、最も南に位置する橋だ。この橋を渡れば、本州側から数えてきた島旅が終わる。尾道から始まった道は、ここで陸に戻る。
朝の来島海峡は、嵐の後の顔をしていた。
空は白く、雲が低かった。それでも、昨夜のような雨はなかった。風はまだあったが、方向が変わっていた。昨夜は風は南から来ていたが、今朝は北西から来た。海面は波が立っていた。波頭が崩れ、また立ち、また崩れた。昨日までの穏やかな瀬戸内とは別の海になっていた。
慎也と澄花は、橋の入口に自転車を停めた。
海峡の幅が広いから、風の通り道になっている。遮るものがなく、四方から海が見えた。来島海峡は潮の流れが速いことで知られていた。見ていると、水面に筋が走っているのがわかった。流れの速い場所と遅い場所が、海面に模様を作っていた。
慎也はペダルを踏み始めた。
澄花が隣に並んだ。
橋の上では、言葉がなかった。風の音が大きくて、話しても聞こえなかったかもしれない。でも、それだけではなかった。言葉を出す必要がない時間というものがある。昨夜、嵐の中で話すべきことを話した。今朝の朝食でも、少し話した。今は、走るだけでよかった。
橋が続いた。
第一橋から第二橋へ。第二橋から第三橋へ。繋ぎ目のたびに、橋脚があり、その下を海が流れていた。急流の瀬戸内は、橋の下で渦を作っていた。海面が複雑に動き、白い泡が筋を引いていた。その動きを見ていると、止まれなかった。渦に引き込まれるように、ペダルを踏み続けた。
第三橋の中ほどで、来た道を振り返った。
大島が見えた。
嵐の後の島が、白い空の下に静かにあった。宮窪の集落は見えなかったが、亀老山の稜線が見えた。昨日、霞んで見えなかった山が、今朝ははっきりと見えた。来た道が、見えた。
誰かが言っていた。橋の上から振り返ると、来た道が全部見える、と。
尾道は見えなかった。向島も、因島も、生口島も、大三島も、伯方島も、霞の向こうで見えなかった。でも、大島が見えた。昨夜の嵐の島が見えた。
慎也は向き直り、また走った。
橋の先に、陸が近づいてきた。
糸山の橋の入口に降りると、そこは今治だった。
陸の感触が島とは違った。道幅が広く、建物が多く、車の音がした。信号があった。コンビニがあった。島では何日も見なかったものが一度に現れた。慎也はその密度に、少し目眩がした。
自転車を押しながら、しばらく歩いた。
澄花は隣を歩いていた。
今治の町は、造船と染色の町だった。今治はタオルが有名だが、造船の町でもある。因島と同じく、海の産業で生きてきた町だ。
商店街に入ると、人の気配がいっきに増えた。
アーケードがあり、その下を地元の人が歩いていた。買い物袋を持った老婆、制服姿の学生、作業着の男。尾道のアーケードを思い出した。旅の始まりに歩いた場所と、似た空気があった。シャッターが多い点も似ていた。尾道には観光地としての演出があったが、この商店街にはそれがなかった。
港の方へ歩いた。今治の港は、島の港とは違っていた。規模が大きく、フェリーの桟橋があり、倉庫が並んでいた。タンカーが一艘、停泊していた。
慎也は港の端に立ち、来た方向を見た。
来島海峡大橋が見えた。
橋は今朝渡ったばかりだが、こちらから見ると遠く感じた。白い靄の中に橋が浮かび、その向こうに大島の山影があった。尾道を出てからの七日間が、あの橋の向こうにあった。
澄花が隣に立った。
「渡り終えましたね」
と澄花は言った。
「ええ」
昼食を食べようと、港の近くの食堂に入った。
引き戸を開けると、カウンターとテーブルが並び、地元の客が入っていた。メニューに焼豚玉子飯があった。今治の名物だと、出発前に読んでいた。
ふたりとも、それを頼んだ。
どんぶり飯の上に、厚切りの焼豚が乗り、半熟の目玉焼きが乗っていた。甘辛いたれがかかっていた。シンプルで、量があった。慎也は食べながら、味をしっかり感じた。
旅に出る前の東京では、何を食べているか覚えていなかった。コンビニの弁当、立ち食いそば、残業後のラーメン。味より量と時間の問題として食事があった。この旅では、食べるたびに味がした。島の塩、島の魚、島の土の味が残った。
澄花は静かに食べていた。
昨夜の嵐の話が、まだ二人の間にあった。話し終えたわけではなかった。話しきれないものがまだ残っていた。澄花は急がなかった。食べ終わると、茶を飲みながら窓の外を見た。
「今日はどうしますか」
慎也は聞いた。
「少し、町を歩きたいです」
澄花は言った。
「兄も来た町だから」
「大島以外にも来ていたんですか」
「日記に書いてありました。しまなみを渡った後、今治で一泊することが多かったと」
「どこに行ったかは書いてありましたか」
「今治城に行ったみたいです」
慎也は少し考えてから言った。
「一緒に行きませんか」
澄花は慎也を見た。それから、うなずいた。
今治城は、港のすぐそばにあった。
日本三大海城の一つだ。城の石垣が海に接しており、かつては船で直接城に入れる構造だったという。今は堀が城を囲み、橋を渡って入る。
積まれた石垣の一つひとつに時間が宿っていた。江戸時代から積まれた石が、今も崩れずに立っている。その重さと年数が、石の表面に染み出ていた。
天守閣に上ると、今治の町が見えた。
港、造船所のクレーン、商店街の屋根、住宅地。そして、来島海峡の橋が見えた。今朝渡ってきた橋が、白い靄の中に伸びていた。
澄花は欄干の前に立ち、その景色を見た。
しばらく黙っていた。慎也も隣に立った。
「兄は、この景色を見たんですね」
澄花は言った。
「おそらく」
「同じ橋を見たんですね。橋の向こうの島々も」
「そう思います」
澄花は風に髪を揺らしながら、言った。
「兄は生きることが、うまい方ではありませんでした。小さい頃から、感じすぎる人でした。何でも深く受け取って、返すのに時間がかかって。書くことがおそらくは返す方法だったんだと思います」
「書くことが、返す方法」
「口下手だった兄が、受け取ったものを言葉に変えて出す。それが書くことだったと日記を読んで思いました。だから、書けなくなることは、受け取ったものを出せなくなることで、それが番つらかったんじゃないかと思います」
慎也は澄花の言葉を、丁寧に聞いた。
三枝のことを、こういう角度から考えたことがなかった。書けなくなることの意味を、書く側の体の構造から考えたことがなかった。
「原稿を返して、拓海さんに書き直しを求めました」
慎也は言った。
「それが、書けなくなることに繋がったと思っています」
「そうかもしれません」
澄花は言った。またしてもその率直さが慎也を揺らした。
「でも、杉本さんが原稿を返さなくても、兄はどこかで詰まったかもしれないです」
澄花は静かに言った。
「なぜ、兄が死という選択をしたか、本当のことは誰にもわからないです」
来島海峡の風が、天守の上を通っていった。
冷たく湿っていた。でも昨日の嵐の風よりは、柔らかかった。
天守を降り、城の庭を歩いた。
冬の庭は花がなく、木の枝だけが空に伸びていた。その中で、松が数本、緑を保っていた。松の幹は曲がっていて、それがかえって力強く見えた。まっすぐでなくても、立っている。
堀の端に、ベンチがあった。
二人で座った。
澄花が切り出した。
「お願いがあります」
「なんですか」
「兄が書きかけていた原稿を、あなたが続けて書いてほしいんです」
慎也は、そう言われることをどこかで想定していた。来る前から、澄花の手紙を読んだときから、その可能性が頭の隅にあった。でも、いざ言われると言葉が出なかった。
「あのノートの続きを」
澄花は続けた。
「灯台守の物語の続きを。杉本さんに書いてほしい」
「なぜ、自分に」
「兄の日記に、杉本さんのことが書いてありました。何度も。嫌いとも好きとも書いていなかったけれど、何度も名前が出てきました。それだけ、杉本さんのことを考えていたんです。だから、杉本さんに書いてほしいと思っています」
「自分には、その資格はありません」
ずっと思っていたことだった。三枝の原稿を切り捨てた人間が、三枝の書きかけた物語を続ける資格なんて、どこにもない。
「資格、ですか」
澄花は繰り返した。
「ええ。三枝さんの物語を傷つけることになるかもしれない。続けることで、もともとの物語が別のものになってしまうかもしれない」
「そうかもしれません」
澄花は言った。
「でも、誰かが続けなければ、あのまま途中で終わってしまいます。それでもいいとも思ってました。未完成のまま残ることが正しいのかもしれないと」
慎也は堀の水を見た。
水面に城の石垣が映っていた。冬の空の白さも映っていた。
「でも」
澄花は続けた。
「兄は、書こうとしていました。それだけは確かです。その意志が、途中で止まった。その意志の続きを誰かが引き継ぐことはできると思うんです」
慎也は答えなかった。答えられなかった。
「もちろん、すぐに決めなくていいです」
澄花は言った。
「でも、どうか考えてください」
堀の水が風に揺れた。
城の石垣が水面の中で揺れた。
午後、二人は別れて、別々に町を歩いた。
慎也一人になると、今治の町の感触が変わって見えた。
澄花がいるときは、二人でいることを意識していた。一人になると、この町そのものが見えてきた気がした。
商店街の裏に入ると、細い路地があった。古い建物が続き、ところどころに植木鉢が置かれていた。誰かが手入れしている花が、冬でも咲いていた。葉牡丹の紫が、鮮やかだった。
タオルの店があった。
今治タオルを売る小さな店だ。のれんが白かった。中に入ると、棚に色とりどりのタオルが並んでいた。手に取ると、柔らかかった。今治タオルは吸水性が高いと聞いていたが、その柔らかさが肌に馴染む感覚があった。
白いタオルを一枚、買った。
特に理由はなかった。でも、何かを買いたかった。この町で、自分がここに来たことの証拠を、一つ持ちたかった。
店を出て、また歩いた。
港の方へ向かうと、造船所のドックが見えた。因島でも、向島でも見たドックだ。しまなみの島々を旅してきて、それぞれの島に造船所があることを知った。この海で生きてきた人々の産業がどの島にもあった。鉄を叩く音が今日も聞こえた。
嵐が過ぎても、造船所は動いていた。
その当たり前が、今日は心強く感じた。
夕方、慎也はホテルの部屋に戻った。
今治のビジネスホテルだ。旅の間、島の民宿に泊まり続けていたから、ビジネスホテルの無機質さは久しぶりに思えた。白い壁、薄いカーテン、テレビ、冷蔵庫。どこにでもある部屋だった。
テーブルにバッグを置き、三枝のノートを取り出した。
最後のページを開いた。
──それでも今夜の灯りを
その続きを、書けるだろうか。
慎也は自分に問いかけた。
書くことと、書く資格があることは、別のことかもしれない。書く資格がなくても、書けることはある。書く資格があっても、書けないことはある。
三枝の物語の続きを書くことは、赦されるためではない。
昨夜、嵐の中で考えた。赦されるために書くなら、それは自分のための行為だ。矢野が言った、祈るのは自分のためだ、という言葉と同じことになる。
では、何のために書くのか。
三枝が書こうとしていたからか。
澄花が望んでいるからか。
それも自分以外の何かのためになる。他人のために書く、というのも、どこかで自分の動機と交差している。純粋に他者のためだけに書けるかどうかは、わからない。
慎也はノートを閉じ、自分のノートを開いた。
この旅で書いてきた問いのノートだ。尾道で書いた最初の一行から、大島で書いた言葉まで、断片的な問いが並んでいた。
最後のページの余白に、ペンを走らせた。
「書くことは赦されるためではない。では何のためか」
書いて、止まった。
答えが出なかった。
でも、問いを書いた。
窓の外に、今治の夜の町が広がっていた。港の灯り、ビルの灯り、車のヘッドライト。島の夜とは違う、密度のある光の集まりが、窓の向こうにあった。
その光の中に、来島海峡大橋がかすかに見えた。
渡ってきた橋が、夜の中に白く浮いていた。
夜、澄花と電話で話した。
澄花は別のホテルに泊まっていた。互いの場所を聞き合い、それから話した。昼間の続きではなく、別の話になった。
「お兄さんの子供の頃の話を聞いてもいいですか」
「もちろん」
三枝拓海は、幼い頃から本を読む子どもだったという。小学校の図書室の本を片っ端から読んでしまうような子どもだった。読むだけではなく、読んだものについて誰かに話したがった。話す相手を求めていた。でも、話せる相手が、あまりいなかった。
「クラスで浮いていました」
澄花は言った。
「悪い子ではなかったけれど、話の速度が合わない。深く行きすぎる。相手が疲れてしまう」
「書き始めたのは、いつからですか」
「中学からです。話す相手がいないから、書くことにしたんだと思います。書けば、いつか誰かに届くと思って」
慎也は聞きながら、三枝の文章のことを考えた。あの文章の独特な呼吸は、そういう子供時代から来ていたかもしれない。話す相手のいない子どもが、届くはずの誰かに向けて書き続けた文章。
「届きましたか、誰かに」
「届いた人は、いたと思います」
澄花は言った。
「少なかったかもしれないけれど、いました」
「自分には届いていました」
慎也は言った。
言った後で、その言葉の重さを感じた。本当のことだった。三枝の文章は、確かに慎也に届いていた。売れないと判断しながら、届いていた。その矛盾を三枝は受け取れなかった、と澄花は昨夜言った。
「届いていたのに、お兄さんにそのことを伝えられなかった」
慎也は続けた。
「それを、後悔しています」
電話の向こうで、澄花が少し間を置いた。
「それを聞けてよかったです」
澄花は静かに言った。
「ありがとうございます」
礼を言われるとは思っていなかった。
慎也はしばらく言葉が出なかった。
「続きを、書きます」
気づくと、そう言っていた。
決めたわけではなかった。でも、口から出た。口から出た言葉は、慎也の中ですでに決まっていたことだと、言った後で気づいた。
「資格がないと、今でも思っています」
慎也は続けた。
「でも、お兄さん、三枝拓海さんが書こうとしていたことを、自分が引き受けることはできると思います。引き受けることが正しいかどうかはわかりません。でも、書く方を選びます」
「それでいいです」
澄花は言った。
「それだけでいいです」
電話を切った後、慎也は部屋の中にしばらく座っていた。
書く、と言った。
言ったことで、現実になった気がした。
深夜、慎也は自分のノートを開いた。
問いのノートではなく、白紙のページに向かった。
ペンを持ち、止まった。
三枝の物語の続きを書こうとした。
手が動かなかった。
書こうとしていた言葉が、口の中で形を作れなかった。灯台守のことを書こうとすると、三枝のことが先に来た。三枝が何を書こうとしていたかを想像しようとすると、自分が何を書けるかがわからなくなった。
慎也はペンを置いた。
今夜は書けなかった。
今夜書けなくても、明日書けないわけではない。明日書けなくても、また別の日がある。三枝は何度もこの旅をして、書き続けた。一度の旅で書けなかった続きが、次の旅で書けることもあったかもしれない。
今治で終わりではない。この旅は終わるが、旅が終わっても日々は続く。東京に戻り、また何かを始める。何を始めるかは、まだわからない。でも、書くと言った。行動する責任があった。
窓の外の来島海峡大橋は、まだ光っていた。
深夜になっても、橋の灯りは消えなかった。
橋は、渡る人のためだけでなく、見る人のためにも光っている。自分が今いる場所から、来た道の先を見るための、光の目印として。
慎也はノートの最後に書いた。
「書くことは赦されるためではない。書くことは、灯りを灯すことだ」
答えを書いたつもりはなかった。
でも、それが今夜の、自分の言葉だった。
ペンを置き、ノートを閉じた。
橋の灯りが、窓の向こうに静かにあった。




