第六章 伯方島
大三島橋は短かった。
多々羅大橋の長さと高さに慣れた体には、拍子抜けするほど短かった。橋の上にいる時間が、ほんの一、二分で終わった。風もさほど強くなく、ワイヤーも鳴らなかった。欄干の外に海が見えたが、橋が低いせいで海面が近かった。波の音が聞こえた。白い泡が岩に砕けるのが見えた。
渡りきると、伯方島だった。
橋を降りてすぐの道は、海沿いに続いていた。左手に海、右手に低い山。山の斜面に段々畑が広がり、そこにもみかんの木が植わっていた。大三島のみかん畑よりも道に近く、手を伸ばせば届きそうな距離に実がなっていた。橙色が鮮やかで、冬の曇り空の下でも、その色だけが浮き立っていた。
道路脇に看板があった。
「伯方の塩」
白地に青い文字。日本中で見るあの塩のパッケージと同じフォントで、伯方島の名前が書かれていた。慎也は自転車を停め、その看板を見た。伯方の塩は伯方島で作られていると、何となく知っていた。でも実際にこの島に来るまで、「伯方島」という固有の場所として意識したことがなかった。塩の名前として知っていたが、島の名前としては知らなかった。
名前の前に用途があった、ということかもしれない。
慎也はしばらくその看板の前にいた。
風が来た。海の匂いと、少し異なる匂いが混じっていた。乾いた、鋭い匂い。塩の匂いだった。潮の匂いとは違う、もっと純粋に鉱物的な匂い。製塩所がどこかにあるのか、それとも島全体にそういう匂いが染み込んでいるのか、判断はできなかった。でもその匂いが、この島の正体のような気がした。
島の中心部に向かうと、道が緩やかに上り坂になった。
両側の景色が変わった。海が見えなくなり、山が近づいた。木々が道に迫り、日陰が増えた。民家が現れた。古い木造の家が多く、屋根の瓦が黒かった。庭に柿の木があり、枯れ枝だけになった木の上にいくつかの実が残っていた。鳥が食べた後の、皮だけのようなものもあった。それでも残っていた。落ちることなく、枝にしがみついていた。
集落の中を走ると、生活の気配が濃くなった。
物干し竿に洗濯物がかかっていた。軽トラックが一台、道を塞ぐように停まっていた。庭先で老人が何か作業していた。猫が石垣の上に座り、慎也を見た。尾道の猫と同じ目をしていた。関係ない、という目だった。
坂を上りきると、小さな公園があった。
東屋があり、ベンチが二つあった。誰もいなかった。東屋の柱に蔦が絡みついていて、冬は葉が落ちて幹だけになっていた。ベンチに座ると、木の隙間から海が見えた。遠くに大三島の山影があった。さっきまでいた島が、もう遠くに見えた。
慎也はそこで水を飲んだ。
ボトルの水は冷たくなっていた。飲みながら、大三島での一日を思い返した。矢野の言葉、砂浜の波、夜中の星。あの静けさが、まだ体の中に残っていた。
この旅の中で、島は少しずつ慎也の内側に積み重なっていた。尾道、向島、因島、生口島、大三島。それぞれの島が、それぞれの色と匂いと言葉を持っていた。積み重なったものがどういう形をしているかは、まだわからなかった。でも何かが積み重なっていることは、確かだった。
食堂を探して島の南側へ出ると、港の近くに一軒あった。
引き戸に「定食」
と書いた紙が貼られていた。中に入ると、テーブルが四つ、壁にメニューが手書きで貼られていた。魚定食、肉定食、うどん。昼の時間を少し過ぎていたが、先客が二人いた。作業着の男たちで、黙って定食を食べていた。
慎也も魚定食を頼んだ。
厨房から湯気が立っていた。何かを煮ている音がした。しばらくして定食が来た。焼き魚、小鉢が二つ、味噌汁、漬物、白米。小鉢のひとつは大根の煮物で、もうひとつは青菜の和え物だった。どちらも出汁の味がした。素朴で、過不足がなかった。
食べながら、慎也は壁を見た。
色褪せたカレンダーが貼ってあった。二年前のものだった。外すのを忘れたのか、それとも外す理由がないのか。塩の効いた漬物が、食欲を呼んだ。
厨房から女性が出てきた。
五十代の後半か六十代の初め、と思われた。白いエプロンをつけ、手を布巾で拭きながら出てきた。先客の作業着の男たちに、「おかわりは?」
と声をかけ、断られると、慎也の方を見た。
「おいしいですか」
「おいしいです」
慎也は言った。本当においしかった。
「どちらから来たんですか」
「東京から。しまなみを自転車で渡っています」
「今日はここで泊まりますか」
「できれば」
「それなら、うちに泊まれますよ」
女性は言った。
「民宿もやってるから」
それが、山本さんとの出会いだった。
山本フミコは、この食堂と民宿を一人で切り盛りしていた。
夫は十年前に亡くなり、子供は島を出ていた。淡々とそれを話した。悲しむでも、強がるでもなく、そういうものです、という口振りだった。
「寂しくないですか」
と慎也は聞いた。後から、踏み込みすぎたかと思ったが、彼女は気にしなかった。
「慣れますよ」
と言った。
「最初の二、三年は寂しかったけど、今は一人が普通になった。一人でいる自分が、当たり前になった」
「お客さんと話すのが、楽しみですか」
「そうですね。特に旅の人は、話が面白い。ここのことを知らない人の目に、ここがどう映るかを聞くのが好きなんです」
「どう映ると言われますか」
「静かな島、と言う人が多い。それと、塩の匂いがする、と。地元にいると気づかないから、そういう話を聞くと、ああそうか、と思う」
慎也は生口島の藤井のことを思った。自分では気づかない、外から来た人に言われて初めてわかる、と彼女も言っていた。
「この島に、よく来た人はいましたか」
と慎也は聞いた。
漠然とした問いだった。三枝のことを直接聞くつもりではなかった。でも澄花の地図には、伯方島にも印がついていた。
「旅の人は、一度来てまた来ることが多いですよ」
フミコは言った。
「島が気に入って、またここで泊まりたいと言う人が」
「何度も来ていた人の中で、印象に残っている人はいますか」
フミコは少し考えた。厨房の方を向き、何かを思い出すような間があった。
「いますよ」
と言った。
「三枝さんという人」
慎也は箸を置いた。
「細い人でした。眼鏡をかけて、いつもノートを持ち歩いてた。物書きの人だって、自分で言ってました。ここで書いてましたね。食堂のこのテーブルで、ご飯を食べながら、食べ終わってもずっとノートに向かってましたよ」
「何度くらい来ましたか」
「五、六回は来たと思います。二年ほどの間に」
「最後に来たのは、いつですか」
「二年と少し前です」
フミコは静かに言った。
「それから来なくなって、しばらくして、知り合いから亡くなったと聞きました」
窓から光が差していた。曇り空だったが、雲の薄い部分から午後の陽が漏れていた。
「知ってらっしゃいますか、三枝さんのこと」
慎也は少し間を置いた。
「名前は知っています」
同じ言い方を、また使った。生口島でも使った言い方だ。本当のことだが、全部ではない。でも今日も、それ以上は言えなかった。
昼の客が引けると、食堂は静かになった。
フミコは片付けをしながら、三枝の話を続けた。慎也が聞くたびに、記憶を手繰るように話した。
「楽しそうでしたか」
「楽しそう、というのとは少し違うかな」
フミコは拭き布で卓を拭きながら言った。
「真剣でした。でも生口島の藤井さんが言うような、苦しそうでもなかった。ここでは、ほっとしている感じがあった」
慎也は驚いた。
「藤井さんをご存知ですか」
「知ってますよ、もちろん。しまなみは狭いから。三枝さんは向こうにも通っていたと、藤井さんから聞いてました」
「ほっとしている、というのは」
「この食堂の飯が、口に合ったみたいで」
フミコは少し笑った。
「毎回同じものを頼むんです。鯵の干物定食。鯵は伯方で干したものだから、塩が違う。それが好きだって言ってた。食べてるときの顔が、子供みたいになってましたね」
塩が違う、という言葉が残った。
「三枝さんは、塩のことをよく気にしてましたよ」
フミコは続けた。
「塩の味って、どこで作ったかで全然違うって言って。伯方の塩は海水をそのまま使うから、ここの海の味がするって。島の塩を食べることは、島を食べることだって、そんなこと言ってた」
島を食べること。
慎也はその言葉を繰り返した。三枝らしい言い方だと思った。三枝の文章には、感覚と観念が入り混じる瞬間があった。塩を食べることと島を食べることの間の距離を、平然と詰めてしまう感覚。
「何を書いていたか、話しましたか」
「少し」
フミコは椅子を引いて、慎也の向かいに座った。
「島の話を書いているって言ってた。瀬戸内の、どこかの島の話。でも島の名前は言わなかった。実在する島だけど、名前を変えるって。名前を変えると、本当のことが書けるって言ってた」
「本当のことが書ける、と」
「不思議な言い方でしょう。私もそう思って聞いたんです。本当の島の名前で書けば、もっと本当のことになるんじゃないの、って。そしたら三枝さんが言ったんです」
フミコは少し間を置いた。
「本当の名前で書くと、その名前に縛られる。でも名前を変えると、見えていなかったものが見えてくる、って」
慎也はそれを聞いて、黙った。
名前を変えると、見えていなかったものが見える。
三枝はそう言いながら書いていた。この食堂のテーブルで、鯵の干物定食を食べながら、名前を変えた島の物語を書いていた。
夕方近く、フミコが、
「少し待ってて」
と言って、奥の部屋に入った。
慎也は食堂のテーブルに座ったまま待った。
窓の外で、光が傾いていた。港の方に船が一艘入ってきた。小さな漁船で、白い航跡を引いていた。夕方の港に戻ってくる船を見ると、一日が終わる感じがした。
フミコが戻ってきた。
手に、一冊のノートを持っていた。
大学ノートで、表紙が黄ばんでいた。フミコは慎也の前に、そっと置いた。
「三枝さんが忘れていったものです」
慎也は息を飲んだ。
「最後に来たとき、帰った後で見つかったんです。テーブルの下に落ちていて。連絡しようとしたんですが、連絡先を知らなくて。そのうちに亡くなったと聞いて、ずっと持っていた」
「澄花さんに、連絡はしましたか。妹さんに」
「妹さんがいることを、知らなかったんです。三枝さんは、家族の話をほとんどしなかったから」
慎也はノートを見た。手に取っていいのかどうか、わからなかった。
「読んでいいですか」
「私は読んでいません」
フミコは言った。
「人のノートを読むのは、違う気がして」
慎也は表紙に触れた。
紙の手触りがした。時間が染み込んだ紙の、少しざらついた感触。三枝が触れていた表紙だ。三枝の指が、このノートを開いて閉じた。
ゆっくりと、開いた。
ノートの最初のページに、日付があった。
二年半ほど前の日付だった。慎也が三枝に原稿を返してから、ちょうど半年後の日付だった。
文字は細かく、鉛筆で書かれていた。原稿用紙ではなく、ノートの罫線の上に、行間を詰めて書かれていた。読むのに目を細めなければならなかった。
物語だった。
島の話だった。フミコが言った通り、名前のない島の話だった。架空の島だが、読むと瀬戸内の島の質感があった。潮の匂い、光の量、石垣の感触、船の音。慎也がこの旅で感じてきたものと、重なる部分があった。
主人公は、年老いた灯台守だった。
灯台は島の突端に立っていて、灯台守はそこで一人暮らしをしていた。毎晩灯りを灯し、朝になると消した。それだけの仕事を、何十年も続けていた。物語は、その灯台守のある一日を描いていた。
文章は、慎也が知っている三枝の文章だった。
一作目の文庫本と同じ手触りがあった。比喩が独特で、言葉の選び方に個性があった。しかし一作目よりも、何かが深まっていた。うまく言えなかったが、文章の呼吸が、一作目より長くなっていた。急がなくなっていた。
慎也は読み続けた。
物語の中で、灯台守はある夜、灯りをつけるのを忘れた。
忘れた理由は書かれていなかった。疲れていたのか、眠ってしまったのか、それとも意図的だったのか。ただ、その夜だけ、灯りがつかなかった。翌朝、港に一艘の船が戻ってこなかった。灯台の光がなかったから、岩礁に乗り上げたのだった。
乗っていた漁師は助かった。でも船は壊れた。
灯台守は謝りに行った。漁師は怒らなかった。ただ、
「光がなかった」
とだけ言った。
その一言が、老いた灯台守の胸に刺さった。物語の残りは、その刺さったものを抱えて生きていく灯台守の話だった。
読み終えると、慎也は手を止めた。
ノートの途中で、文章は終わっていた。
未完成だった。物語は結末まで行き着いていなかった。灯台守がどうなったか、刺さったものをどう扱ったか、書かれていなかった。最後の一文は途中で切れていた。文章が止まった場所に、鉛筆の跡がうっすら残っていた。書きかけて、止めた跡だった。
慎也はノートを閉じた。
テーブルの上に、そっと置いた。
フミコが湯を沸かし、お茶を淹れてくれた。湯呑みが置かれた音だけが、静かな食堂に響いた。
「読みましたか」
「読みました」
「どんな話でしたか」
慎也は少し考えてから、答えた。
「光を守る人間が、光を灯せなかった夜の話です。未完成でした」
「そうですか」
フミコは静かに言った。
「書けなかったんですね、最後まで」
「書こうとしていたと思います。書けなかっただけで」
その言葉を言いながら、慎也の中で何かが動いた。
書こうとしていた。
三枝は書こうとしていた。この食堂で、鯵の干物定食を食べながら、ノートに向かって。灯台守の物語を書こうとしていた。慎也が言葉を渡してから半年後も、島を渡りながら書き続けていた。
そして途中で止まった。
最後の文が途中で切れていた。止めたのか、続きを別の場所に書いたのか、書けなくなったのか。わからなかった。でも、この場所に、書きかけのものが残っていた。
慎也の言葉が、三枝を追い詰めた可能性がある。
その考えは、ずっとあった。でも今日、このノートを読んで、もう少し複雑なものが見えた気がした。三枝は傷つきながらも書いていた。書き続けることで、何かと向き合おうとしていた。灯台守の物語は、自分の話でもあったかもしれない。光を守るはずの人間が、光を灯せなかった。その罪を抱えて生きることの話を、三枝は書こうとしていた。
その罪が、どこから来たものかを、慎也は考えた。
考えて、目を逸らしたくなった。
「このノートを、預かってもいいですか」
慎也は言った。
「三枝さんの妹さんと、連絡が取れています。渡します」
フミコは少し考えてから、うなずいた。
「お願いします。ずっと持っていたけれど、誰かに渡せなかったから」
「ありがとうございます」
「ありがとうを言うのは、私の方です」
フミコは言った。
「これで、ちゃんと届く気がする」
慎也はノートをバッグに入れた。
三枝の鉛筆の文字が、今は慎也のバッグの中にあった。
夜、部屋で慎也はノートをもう一度開いた。
読み返した。
一度目と同じ文章が、二度目は違う読まれ方をした。灯台守が光を灯せなかった夜の場面を、今度は別の目で読んだ。最初は灯台守の罪の話だと思った。でも二度目に読むと、それだけではないことがわかった。
灯台守は、光を灯せなかった夜のことを誰にも言わなかった。
翌朝、船が戻らないことで、初めて自分が何をしたかを知った。知った後で、謝りに行った。漁師は怒らなかった。ただ「光がなかった」
と言った。その一言が刺さったのは、怒りの言葉ではなかったからだ。怒りであれば、受け止めて返すことができる。でも事実の言葉は、刺さったまま抜けない。
光がなかった。
それは事実だった。灯台守の失敗の結果が、その一言に全部入っていた。
慎也は本を閉じた。
自分が三枝に言った言葉を思った。このままでは難しい。人に届くものを書いてください。
それは事実の言葉だったと、慎也は思っていた。売れないという判断は、市場の事実に基づいていた。でもその言葉が三枝の中でどう受け取られたかを、慎也は知らなかった。知ろうとしなかった。
光がなかった、と言われた漁師の方は、どう感じたのだろうか。
怒れなかった理由を、慎也は今夜ようやく少し理解した。事実の言葉の前では、怒ることもできない。受け取るしかない。
ノートをバッグに戻した。
窓を開けると、塩の匂いがした。
夜の伯方島の空気は、日中よりも塩が強かった。島の海水から作られた塩が、この島の空気に染み込んでいた。慎也は深く息を吸った。肺の奥まで、塩の匂いが入ってきた。
三枝はここで、この匂いを嗅いで、ノートを書いていた。
島を食べることは、島を体に入れることだ。体に入ったものは、書くものに混じる。三枝の書いた灯台守の物語には、この島の塩が混じっているかもしれない。
窓を閉じた。
ノートが、バッグの中にあった。
三枝が書こうとしていたものの、断片が。
慎也はそれを、今は持っている。持つことが正しいのかどうかは、まだわからなかった。でも持っていることだけは、確かだった。
明日は大島だ。
嵐の予報が出ていた。天気予報を確認すると、明日の午後から崩れると書かれていた。嵐の中で、この旅は最も重い場所へ向かう。
慎也は布団に入った。
塩の匂いが、まだ肺の中に残っていた。




