第五章 大三島
多々羅大橋は鳴く。
橋に差し掛かると風が強くなった。生口島側の橋脚を過ぎた辺りからワイヤーが低い音を出し始めた。斜張橋のケーブルが風を受けて振動する音で、うなり声とも唸り声ともつかない低い響きが、橋全体から滲み出るように続いた。慎也はペダルを踏みながら、その音の中にいた。
風が強かった。
正面から来る風が、自転車ごと押し返そうとした。ペダルが重くなった。姿勢を低くして、ハンドルを握り直した。欄干の外には海が広がっている。多々羅大橋は橋の高さが七十メートルを超えるらしい。海面が遠く、遙か下に見えた。白い波頭がいくつか見えたが、波の音は届かなかった。高さがあると、音は消える。
橋の中央に標識があった。
「愛媛県今治市」
広島県から愛媛県に入った。都道府県の境界を海の上で越えた。
大三島側の橋脚が近づくにつれ、ワイヤーの音が変わった。高さが下がるにつれ、音の質が細くなった。橋を渡りきったとき、音は消えた。
大三島に入った。
静かだった。
因島の造船所の音も、生口島の光の溢れる開放感も、ここにはなかった。道の両側に木々が茂り、空が狭くなった。葉を落とした広葉樹の枝が灰色の空に向かって伸びていた。常緑樹の濃い緑がその間に混じっていた。道は細く、民家は少なく、人の気配が薄かった。
大三島は神の島だと呼ばれている。
大山祇神社がある。全国に一万社以上あるという山祇神社の総本社で、創建は神話の時代に遡るとされていた。島の歴史の中心に神社があった。
慎也は出発前にそのことを調べていたが、調べた上でもどこか現実の話として飲み込めていなかった。神話の時代から続く場所という概念が、東京で生まれ育った自分には遠かったのだ。それでも、大三島の道を走るとその遠さが少し縮まった気がした。この島は、人が少ないから静かなのではなく、何かが長い時間をかけてそこに在り続けているから静かなのだろう。
神社へ続く参道に入ると、杉の木立が道の両側に続いた。
杉は太く、真っ直ぐに立っていた。根元の周囲が何メートルもあるものが、間を置いて並んでいた。幹の表面は縦に裂けた樹皮で覆われ、苔が緑の斑点を作っていた。木と木の間から、薄い光が筋のように差し込んでいた。光は地面まで届かず、途中で霧散した。それでも光があることは、上を見れば分かった。枝の隙間から、空の白さが見えた。
足音が、地面に吸い込まれた。
砂利が混じった参道の土は湿っていた。踏むたびに、かすかに沈んだ。自転車を境内の入口に止め、歩いた。参拝客は数人いたが、声を出す者はいなかった。この場所では、声を出してはいけないような気がした。ルールではなく、空気がそうさせた。
拝殿の前に立った。
木造の建物は古く、柱に時間の色がついていた。屋根の檜皮葺が、何層にも重なって緑がかっていた。注連縄が太く、端の紙垂が風にわずかに揺れていた。慎也はしばらく、その場に立っていた。何を祈ればよいのか、わからなかった。
境内の隅に、宝物館があった。
入場料を払い、中に入ると、薄暗い展示室に甲冑が並んでいた。ここの収蔵品は国宝と重要文化財が、武具に関しては日本一多いとのこと。そのため、大三島は「国宝の島」とも呼ばれている。源義経、源頼朝、武田信玄。歴史上の人物が奉納した甲冑がガラスケースの中に立っていた。
慎也は展示物をゆっくり見た。
甲冑は、その人物が使ったものだ。身に着けて戦場に出た人間がいた。錆びた金属の中に、その人間の時間が閉じ込められていた。名前を知っている人物の、実際に存在していた証拠が目の前にある。そのことに感動を覚えた。
神社の近くに、小さな食事処があった。
昼の時間を過ぎていたが、暖簾が出ていた。引き戸を開けると、テーブルが四つあったが、誰も座っていなかった。
奥から老人が出てきた。
七十代の後半、と思われた。背が低く、腰がやや曲がっていた。動作は緩慢だったが、目は澄んでいた。慎也が席に着くと、メニューも渡さずに、
「鯛めしでいいですか」
と言った。
「他にありますか」
「今日はそれだけです」
「では、それを」
老人は台所に引っ込んだ。
慎也は窓の外を見た。参道の杉の梢が見えた。風が木の上の方を揺らしていた。梢が揺れても、幹は動かなかった。根が深いから、動かない。
鯛めしが来た。
土鍋に入った鯛の炊き込みご飯で、蓋を開けると湯気が上がり、出汁の香りと魚の香りが混ざった。慎也は椀によそって食べた。米に出汁が染み込んでいた。鯛の身はほぐれていた。生口島のレモンを使った料理とも、因島の食堂の定食とも違う。この土地の水と塩と魚が作る味だ。
食べながら、老人がカウンターの向こうに座っていることに気づいた。
何もせずに座っていた。手を膝に置き、窓の外を見ていた。
「今日はお客、少ない方ですか」
と慎也は聞いた。
「冬はいつもこんなものです」
「この島は長いんですか」
「生まれからずっとです」
老人はそれだけ言った。
慎也は食べながら、もう少し話してみようと思った。この老人には、何か重みを感じた。言葉の少なさが、隠しているのではなく、言う必要がないことの多さから来ているような重み。
「神社によく行きますか」
「毎朝、行ってます」
「何を祈りますか」
老人は少し間を置いた。
「何も祈りません」
慎也は箸を止めた。
「祈らないのに、行くんですか」
「行く場所だから、行くんです」
老人は言った。
「祈ることがなくなってから、かえって毎日行くようになりました」
老人の名前は、矢野といった。
矢野は慎也が食事を終えても、台所に引っ込まなかった。お茶を一杯出し、自分も湯呑みを持って、離れたテーブルに座った。話すわけでも、黙るわけでも、そのどちらでもない距離感だった。
「祈ることがなくなった、というのは」
慎也は言った。
「何かあったんですか」
「息子が死にました」
矢野は静かに言った。
「二十年前です」
「……すみません」
「謝らなくていいです。二十年前のことですから」
「事故ですか」
「病気です。四十二で死にました」
慎也は何も言えなかった。
「最初の数年は、神社で祈りました」
矢野は続けた。
「なぜこうなったのか、とか、息子は今どこにいるのか、とか、自分はどうすればよかったのか、とか。いろいろ祈りました。でもある日、気づいたんです」
「何にですか」
「祈っていたのは、息子のためじゃなかった。自分のためだったと」
矢野は湯呑みを両手で包んで、窓の外を見た。
「赦してほしかったんです。何を赦されたいのかも、はっきりしなかったけれど。親として何かが足りなかったんじゃないかという気持ちが、ずっとあった。それを誰かに赦してほしかった。神社に行けば、何かが赦されると思ってました」
慎也は老人の横顔を見た。
「赦されましたか」
「赦されませんでした」
矢野は言った。淡々と、しかし、確かに。
「二十年経っても赦されてないですし、赦される必要もないのかもしれないと今は思っています。赦されないまま、毎朝神社に行って、何も祈らずに帰ってくる。それだけです」
窓の外で杉の梢が揺れた。
慎也は自分のことを思った。
自分が今この旅をしているのは、何のためか。三枝澄花の依頼のためか。三枝拓海の原稿を探すためか。それとも、どこかで赦されるためか。
思い当たった。
赦されるためだ、と気づいた瞬間に、その欲望が恥ずかしくなった。三枝は死んでいる。自分を赦す主体は、もういない。では、澄花に赦してもらおうとしているのか。島を旅することで、自分が浄化されると思っているのか。
矢野の言葉は、その欲望をまっすぐ照らした。
食事処を出て、慎也は島の南側の海岸へ向かった。
大三島の海岸線は、他の島より変化が多かった。切り立った岩場があり、砂浜があり、松の木が岸に迫り出している箇所があった。松の幹は風のせいで傾き、海の方へ向かって斜めに伸びていた。何十年も、あるいは何百年も、同じ方向の風を受けてきた証拠だった。
砂浜に出ると、足が砂に埋まった。
砂は白く細かく、冬の陽を反射していた。生口島の光とは違う、乾いた光の反射だった。砂浜に足跡はなかった。誰かが歩いた跡がない砂浜は、白紙のようだった。
慎也はそこに座った。
波が来た。砂浜の波は岩場の波より柔らかく、縁がほつれるように崩れながら陸に上がり、静かに引いた。泡が残り、砂に吸い込まれ、消えた。何も残らなかった。次の波が来て、また、何も残らなかった。
祈ってもいいのかもしれない、と思った。
祈ることが自己中心的だとしても、人は祈る。それが人間というものかもしれない。赦されたいと思うことが恥ずかしくても、赦されたい思ってしまう。矢野は二十年間、その構造の中にいたのだろう。赦されないまま、それでも、神社に行き続けたのだろう。
慎也は手を合わせなかった。代わりに波を見た。来ては返すのを黙って見た。それが今の自分にできる、祈りに最も近いことだと思った。そもそも、慎也には祈るべき言葉が思いつかなかった。三枝に向かって何かを言おうとしても、嘘になる気がした。ごめんなさい、という言葉も、赦してください、という言葉も、どちらも、自分のための言葉だ。
矢野は言っていた。赦される必要はないのかもしれない、と。
赦されないまま生きていく。復讐されるわけでもなく、赦されるわけでもなく、ただ日常を送る。それは残酷なことのように聞こえたが、矢野の口から出ると残酷に聞こえなかった。それが彼の二十年の、誠実な答えだった。
波が来た。
返った。
砂の上の泡が、消えた。
島の北側を走ると、みかん畑が現れた。
向島にもみかん畑はあったが、大三島のものは規模が大きかった。山の斜面に沿って段々に広がり、上の方まで続いていた。一月の今も実が残っている木があり、橙色の点が緑の中に散らばっていた。収穫されなかったのか、それとも別の品種で収穫期が遅いのか、慎也には判断できなかった。
畑の端に、作業をしている老婆がいた。
剪定鋏を持ち、木の枝を切っていた。慎也が通り過ぎるとき、老婆は顔を上げた。目が合った。老婆は会釈した。慎也も会釈した。
名前も知らない、言葉も交わさない。でも、目が合い、頷いた。それだけで、何かが通じた。この島に長く生きている人間と、旅で通り過ぎる人間の間に、一瞬だけ開いた窓のようなもの。そう感じた。
走りながら、慎也は矢野のことを思った。
矢野は息子を失い、赦されないまま二十年を送った。赦されなかったが、壊れなかった。神社に毎朝行き、何も祈らず、鯛めしを作り、冬は客のない店を開け続けた。それは強さとも言えたが、強さという言葉では足りなかった。
選択だと思った。
赦されることを目的にしないという選択。それをしたのか、それとも気づいたらそうなっていたのかは、矢野自身にもわからないかもしれない。でも、今の矢野はそれとともに生きていた。慎也は「それでも進むしかない」と呟いた。うまい言葉ではないと思った。解決でも和解でも救済でもなかった。ただ進む。それだけのことが、この島の静けさの中では、重い意味を持つように感じられた。
道は海に出た。
大三島の北岸から見える海は、今まで見た瀬戸内の中でもっとも穏やかだった。風がなく、波がなく、水面が鏡のように空を映していた。空の雲が、逆さになって水の中にあった。どちらが本物かわからなくなるほど、海と空が溶け合っていた。
慎也は自転車を停め、しばらくそこに立った。
何も考えなかった。
考えない時間は、この旅に入ってから初めてのような気がした。
宿は島の南西、大三島橋の近くにあった。
民宿で、主人は六十代の夫婦だった。玄関に魚の絵が飾られていた。夕食に鯛の刺身が出た。昼も鯛だったが、そのことを言うと女将が笑った。
「大三島の鯛は日本一ですから、何度食べてもいいんですよ」
食事の後、慎也は部屋でノートを開いた。
今日の日付を書いた。大三島、と書いた。矢野の言葉を、思い出せる限り書いた。完全には思い出せなかったが、意味は書けた。
「祈っていたのは、自分のため」
「赦されないまま生きている」
「それでも毎朝神社に行く」
書きながら、自分のことに置き換えた。
三枝に赦してほしいと思っている。その欲望は、三枝のためではなく自分のため。旅をしながら何かを探しているのも、何かが変わると思っているから。でも、変わらないかもしれない。赦されないまま、この先も生きるのかもしれない。
それがどういうことかを考えた。
怖い、と思った。
赦されない人生を想像すると、怖かった。しかし、矢野の顔は怖くは見えなかった。怖くなかったのは、彼が赦されることを目的にしていないからではないか。目的を降ろした人間の顔は、そういう顔になるのかもしれない。
慎也はまだ、目的を降ろせなかった。ただ、降ろすという考え方があることを認識した。認識しただけで、降ろせたわけではないが、認識しなければ、降ろすことも始まらない。
最後に書いた。
「祈っても何も変わらない。それでも進むしかない」
これは自分の言葉だ。
慎也はペンを置いた。
窓の外に、大三島橋の明かりが見えた。橋の灯りが、暗い海の上に淡く反射していた。伯方島へ渡る橋。明日、あの橋を渡る。
渡った先に何があるかは、まだわからない。
でも、渡るしかない。
それだけは、はっきりしている。
夜中に目が覚めた。
何の音もしなかった。あまりに静かで、目が覚めた。
東京では逆だ。夜中でも何かの音がする。車の音、空調の音、どこかで鳴り続けている何かの音。でも、ここには何もなかった。完全な静けさが、かえって耳に圧力をかけた。
慎也は起き上がり、窓を開けた。
冷たい空気が入ってきた。塩の匂いがした。
空を見ると、星が見えた。
東京ではほとんど見えない。大三島の夜空には星が多く見えた。雲が切れていて、冬の星座がくっきりと出ていた。名前は知らなかった。そもそも、星の名前を覚えようとしたことがなかった。それでも今、名前を知らなくても、星はそこにあった。
三枝拓海は、この星を見たのだろうか。
彼は生口島には来ていた。ならば、大三島にも来ていたかもしれない。この星を見上げていたかもしれない。
全部を知ることはできない。三枝の最後の時間のことも、三枝が何を考えていたかも、何を書こうとしていたかも。慎也が知れるのは、断片だけだ。藤井の喫茶店の話も、矢野の言葉も、吉野の原稿も、すべて断片である。断片を集めても、全体にはならないのかもしれない。
それでも、断片は断片として本物だった。
窓を閉めた。
布団に戻り、目を閉じた。
星の光が、まぶたの裏にぼんやりと残った。やがてそれも消えて、慎也は眠った。
大三島の夜は、静かだった。




