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第四章 生口島

 生口橋を渡ると、光が変わった。

 因島側では曇りがちだった空が、橋の途中から急に開けた。雲の切れ目から冬の陽が差し込み、海面が一斉に輝いた。まぶしさに思わず目を細めると、視界の端が白く滲んだ。橋の格子の影が自転車道に縞模様を落とし、ペダルを踏むたびにその縞の中を通り抜けた。光と影を交互に踏んで進む感覚は、何かのリズムのようだった。

 橋を渡りきり、生口島に入った瞬間、慎也は思わず自転車を停めた。

 視界が、広かった。

 因島は山がちで、道の両側に木々や建物が迫っていた。でも生口島の道は開けていた。海側には低い石垣があるだけで、その向こうに瀬戸内の海が広がっていた。波は穏やかで、光を細かく砕いていた。対岸の島々がいくつも重なって見えた。手前の島の輪郭がくっきりし、その後ろの島がやや霞み、さらに後ろの島がほとんど空と溶け合っていた。奥行きが、無限にある気がした。

 この島は、光が多い。

 それが最初の印象だった。

 単純な言い方だったが、それ以外に表現できなかった。光の量が、他の島とは違う。空が広く、海が広く、遮るものが少ないから、光が滞留せずに流れていく。尾道の路地は光を溜め込んでいた。向島の造船所は光を遮っていた。因島の森は光を濾過していた。でもここでは、光が素直に降り注いで、素直に海に吸い込まれていく。

 慎也はサングラスをバッグから取り出した。

 出発前に荷物をまとめるとき、要らないかと思って迷った一品だった。持ってきてよかった、と思いながら掛けた。


 生口島はレモンの島だった。

 道沿いにレモンの木が続いた。みかんより背が低く、葉の緑が濃く、艶があった。冬でも葉が落ちず、その濃い緑の中に黄色い実が鈴なりになっていた。収穫を待っているものもあれば、すでに収穫された後の枝だけのものもあった。それでも枝先には小さな白い花の蕾がついていた。冬の実と春の準備が、同じ枝の上に共存していた。

 レモンの花の蕾は、見た目より硬そうだった。

 外側が薄紫を帯びた白で、開いたらきっと甘い香りがするのだろうと思ったが、蕾のうちはほとんど匂わなかった。指先で触れてみると、蝋を塗ったような滑らかさがあった。準備ができていない花には、まだ匂いがない。そういうものかもしれない、と思った。

 畑の向こうに海が見えた。

 レモンの黄色と、海の青と、空の青が、層になっていた。色の組み合わせが、絵として完成しすぎていた。誰かが意図して作ったような景色だった。こういう景色を見ると、慎也はかつては写真を撮った。でも今回は、カメラもスマートフォンも、あまり取り出す気になれなかった。撮って誰かに見せる相手が、今の自分にはいなかった。

 道の脇に、小さな無人販売所があった。

 木の台の上に、レモンが袋に入って並んでいた。一袋三百円。料金箱に小銭を入れる仕組みだった。誰も見ていない。でも誰も盗まない前提で成立している販売の形式が、この島の時間の流れ方を表していた。慎也は一袋買った。六個入りのレモンが、ずっしりと重かった。バッグに収まるか迷いながら、外ポケットに無理矢理押し込んだ。

 走りながら、レモンの匂いがした。


 耕三寺の前に来たのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 島の中心部、瀬戸田の町に入ると、突然白い塔が現れた。白亜の伽藍が、周囲の家々の間から頭を出していた。近づくにつれて、その白さが増した。石造りの門、彫刻の施された欄干、極彩色の装飾。しまなみ海道のガイドブックには必ず載っている場所だったが、実物を前にすると、予想より圧倒的だった。「西の日光」と呼ばれると読んだことがある。

 確かに日光東照宮を思わせる過剰な装飾が、白い石の上に展開されていた。しかし日光の重厚さとは少し異なり、ここの白さは軽かった。冬の強い光に照らされた白い石が、見る角度によっては空と溶け合い、建物の輪郭が消えかけた。

 境内に入るつもりはなかったが、入ってしまった。

 引力があった。白さの引力、と言うしかない。

 大理石で作られた庭園は「未来心の丘」と呼ばれていた。真白な石の丘が広がり、その上を観光客が歩いていた。一月の平日だったからか、人は少なかった。遠くにカップルが一組、老人がひとり。白い丘の上に、小さな人影がぽつりぽつりとあった。

 慎也も丘の上に出た。

 足元が白く、頭の上が青く、その境界線が地平線のように続いていた。遮るものが何もなく、風が強かった。風の中に塩が混じっていた。目を細めると、海が光の帯になって見えた。

 世界が美しすぎる、という感覚があった。

 美しすぎると、どこか不安になる。こんなに光に満ちた場所に、自分がいていいのかという感覚だ。慎也は白い石の上に立ちながら、自分が場違いのような気がした。罰を受けている人間が、こういう場所に来てはいけない気がした。

 でも追い出されなかった。

 白い丘は、誰に対しても同じ顔をしていた。


 瀬戸田の町を歩いていると、小さな喫茶店があった。

 手書きの看板に「レモンケーキとコーヒー」と書かれていた。窓に小さなポスターが貼られていて、地元の陶芸家の個展の案内だった。開催期間は先週までで、すでに終わっていた。

 店に入ると、カウンターが五席、テーブルが二つという小ささだった。壁に絵がかかっていた。瀬戸内の海の絵、レモン畑の絵、耕三寺らしき白い建物の絵。いずれも素朴な筆致で、上手いというより温かみがあった。

 カウンターの奥に女性が立っていた。

 三十代の半ば、と慎也は見た。エプロンをつけ、髪を後ろで束ねていた。目元が柔らかく、動作が穏やかだった。

「コーヒーをください」

「レモンケーキは?」

「ではそれも」

 女性はコーヒーを淹れ始めた。豆を挽く音がした。慎也はカウンターの端に座り、外を見た。窓の向こうに商店街の通りがあり、人がまばらに歩いていた。老人が自転車で通り過ぎた。小学生らしき子どもが走っていた。

「しまなみを走ってらっしゃるんですか」

「ええ」

「どちらから」

「尾道から」

「今日はここまでですか」

「今夜はここに泊まって、明日また進みます」

 女性はコーヒーをカウンターに置いた。深い色だった。湯気が細く立ちのぼり、すぐに消えた。レモンケーキが隣に添えられた。表面に粉砂糖がかかり、切り口からレモンの皮の黄色が見えた。

「この島は、初めてですか」

「初めてです」

 慎也は答えた。

 女性は微笑んだ。

「光が多いでしょう、ここは」

「そう思っていました」

「冬でも光が強いんです。夏は眩しすぎるくらい」

「慣れますか」

「慣れます」

 彼女は言った。

「生まれた頃からいると、これが普通になる。外から来た人に言われて初めて、ああそうか、光が多いんだと気づく。自分では気づかない」


 会話は続いた。

 女性の名前は藤井といった。この島で生まれ、外に出たことはほとんどなく、父が始めた喫茶店を継いでいると言った。

「他にお客さんがいないので、喋ってもいいですか」

と彼女は言った。

「一人でいると、声を出す機会がないので」

「どうぞ」

「何をされてる方ですか」

「今は旅行者です」

 慎也は答えた。向島でも使った言葉だ。今はただの旅行者。それは本当のことだった。

「前は?」

「本を作る仕事をしていました」

 藤井の目が少し動いた。

「本の、編集者ですか」

「そうです」

「じゃあ、知ってるかもしれない」

 彼女は言った。

「この島によく来ていた人がいたんです。作家の人で」

 慎也の手が、コーヒーカップの上で止まった。

「最後まで書けなかった人なんです」

 藤井は言った。

「何度もここに来て、ここで書いて、でも完成しなかった。二年前に亡くなったから、もう来ないけど」

 慎也は何も言えなかった。

「よく来てたんですか」

 とだけ、言った。

「二年ほどの間に、何度も。いつもひとりで、窓際の席に座って、ノートに何か書いてました。喋らない人でしたけど、静かに来て静かに帰っていく感じが、なんか好きだった」

 三枝拓海だ、と慎也は思った。ほぼ確信があった。

 この島に印があった。三枝澄花の地図に、生口島にも丸印があった。この喫茶店かどうかはわからなかったが、三枝がここに来ていたことは確かだろう。

「名前は、ご存知ですか」

 慎也は聞いた。

「三枝さん、という方でした」

 やはり、と思った。思いながら、胃の奥が重くなった。

「知ってらっしゃいますか」

 藤井は聞いた。

 慎也は一瞬だけ迷った。その一瞬に、さまざまなことが通過した。正直に言えば、この場所で三枝と接点があったことが話せる。三枝がここで何をしていたかを聞ける。澄花の地図の意味に、近づける。

 でも正直に言えば、自分が何者かを話さなければならない。

「……名前は、知っています」

 それだけ言った。それ以上は、言えなかった。

 藤井は慎也の表情を見て、それ以上聞かなかった。

「そうですか」

とだけ言い、コーヒーのおかわりを注いでくれた。


 藤井は三枝のことを、少しずつ話した。

 押しつけがましくなく、ただ自分が知っていることを話した。慎也が聞くたびに、静かに答えた。

「何を書いていたか、ご存知ですか」

「見せてもらったことはないです。でもノートに向かっているときの顔が、何か大事なものを扱っている顔でした。こちらが声をかけてはいけない気がして、いつも注文を聞いたらそのまま離れていた」

「楽しそうでしたか」

 藤井は少し考えた。

「楽しそう、とは少し違うかもしれない。真剣、という感じ。でも苦しそうでもなかった。なんというか……」

 彼女は言葉を探した。

「ここにいることで、書けている感じ、とでも言うのかな。場所が、その人を助けているときの顔、みたいな」

 慎也はその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。

 場所が、その人を助けているときの顔。

 三枝はこの喫茶店に来て、窓際の席に座って、瀬戸内の光の中でノートを広げていた。それが三枝の書く場所だった。会議室の蛍光灯の下ではなく、ここで書いていた。慎也が二作目の原稿を返した後も、ここに来て書いていた。

 書き続けようとしていた。

「最後の方も、来ていましたか」

「来てました」

 藤井は静かに言った。

「亡くなる少し前も。いつもと同じように座って、同じように書いていた。最後に来たとき、帰り際に珍しく声をかけてくれて、ありがとうございました、って言ったんです。いつも無口な人だったから、びっくりして。それが最後でした」

 ありがとうございました。

 その言葉が、慎也の胸の中で静かに落ちた。

 完成しなかった原稿を抱えながら、三枝はこの場所に感謝を言いに来た。なぜここに来ていたのかは、わからない。でも来ていた。最後まで、ここに来ていた。

「どんな人だったか、覚えていますか」

「眼鏡をかけた、細い人でした。コーヒーをいつも砂糖なしで飲んで、レモンケーキは食べなかった。ここのは甘すぎるって、一度だけ言ってたのを覚えてる」

 慎也は手元のレモンケーキを見た。

 確かに甘い。だが慎也には、その甘さが今は悪くなかった。


 喫茶店を出ると、光が傾いていた。

 午後三時を過ぎると、冬の陽はもう低くなる。光の角度が変わり、午前中の真上から降り注ぐ光とは別の光になった。斜めから来る光は、物の影を長くした。レモンの木の影が、道に長く伸びていた。白い耕三寺の塔が、西の光を受けてわずかに橙色を帯びていた。

 慎也は海の方へ歩いた。

 磯の岩場に出ると、波が静かに寄せていた。冬の瀬戸内の波は、他の季節より小さいと誰かに聞いたことがある。本当かどうかはわからなかったが、今日の波は確かに小さかった。岩の縁を撫でるように来ては、音もなく返っていった。

 藤井の話を繰り返していた。

 三枝はここで書いていた。最後まで書こうとしていた。自分の言葉が三枝を追い詰めた可能性がある、とずっと思ってきた。でも三枝は追い詰められてからも書き続けていた。

 その事実が、慎也の罪悪感を軽くするかといえば、そうではなかった。

 書き続けていた三枝を、もっと早く見つけていれば、という思いが代わりに来た。あの会議室の後、三枝が書き続けているかどうかを確認しなかった。他の作家の原稿を抱えながら、三枝のことを意識の隅に押しやっていた。

 知ろうとしなかった。

 それが、今の言葉だった。

 三枝が何をしているか、どこで書いているか、何を書こうとしているか。知っていれば何かできたかもしれないし、できなかったかもしれない。でも、知ろうとしなかったことは確かだった。

 好意的に接してくれる藤井が、慎也の正体を知らないまま三枝の話をするほど、苦しくなった。知られなければ、優しくしてもらえる。向島での夜に浮かんだ言葉が、また戻ってきた。

 波が来た。返った。また来た。

 光が海面で散った。


 宿は瀬戸田の港近くにあった。

 小さな旅館で、玄関に招き猫が置かれていた。部屋は和室で、窓から防波堤と海が見えた。荷物を置き、湯に入り、慎也は畳の上に座った。

 バッグからノートを取り出した。

 三枝拓海のことを、初めてきちんと書こうとした。

 書こうとして、止まった。

 何から書けばいいかがわからなかった。あの会議室のことか。三枝の文章のことか。藤井の話か。向島での、岡本幸恵の言葉か。因島での、吉野賢二の原稿か。

 全部が繋がっていた。繋がっているから、どこから書いても同じ場所に戻ってきた。

 慎也は結局、一行だけ書いた。

「三枝は、最後まで書こうとしていた」

 それだけだった。

 事実を書いた。解釈も評価もしなかった。ただ事実として、三枝は書こうとしていた。その事実が、何を意味するのかはわからなかった。でも事実は事実として、そこにあった。

 外が暗くなっていた。

 窓の向こうの防波堤に、小さなランプが灯った。船が迷わないための明かりだ。海に向かって、小さく光っていた。

 澄花の地図を広げた。

 生口島の丸印の傍らに、藤井の喫茶店の住所を書き足した。ここで三枝が書いていた。最後の原稿の断片が、どこかに残っているかもしれない。藤井は「ノートを持ち歩いていた」

と言っていた。そのノートが今どこにあるのかは、わからない。澄花が持っているのか、それとも誰かに渡されたのか、あるいは今も島のどこかにあるのか。

 慎也には、まだわからなかった。

 でも三枝がここに来ていたことは、確かになった。


 夜が深まると、港の音が消えた。

 船のエンジン音も、人の声も、波の音だけになった。

 慎也は布団の中でバッグから三枝の文庫本を取り出し、ページを開いた。もう何度か読んでいたが、光の多いこの島で読むと、また違う感じがした。

 三枝の文章は、光について多く書いていた。

 冒頭の「光というものは、見ようとした瞬間に逃げる」という一行だけでなく、物語の随所に光が登場した。登場人物たちは光の中を歩き、光の中で迷い、光の中で何かを見失った。

 この島で書かれたものが、その中に混じっているかもしれない、と思った。

 あのレモン畑の光。耕三寺の白い石の光。海が散らす光。藤井の喫茶店の窓から差し込む光。三枝がこの光の中でノートを広げ、光について書いていたとしたら。

 慎也は文庫本を胸の上に置いた。

 天井を見た。

 三枝がここで書いていたことを、自分は知らなかった。会議室で言葉を渡してから、三枝が何をしていたかを知らなかった。知ろうとしなかった。

 それは罪だろうか。

 罪という言葉は重すぎる気がしたが、しかし罪でないとも言いきれなかった。

 窓の外で、防波堤の小さなランプがあい変わらず光っていた。海に向かって、ひとり光り続けていた。

 慎也は目を閉じた。

 明日は大三島だ。

 光の多いこの島を、また橋で渡る。橋の上から振り返れば、今いる場所が見える。老人はそう言っていた。来た道が全部見える、と。

 でも見えないものの方が、まだずっと多かった。



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