第三章 因島
因島大橋は空中にある。
正確には橋は海面から四十五メートルの高さに架かっているが、自転車で渡るときの感覚はそうではない。橋の下の車道と上の自転車歩行者道が二層になっていて、自転車は金属の格子に覆われたトンネルのような通路を走る。格子の向こうに空と海が広がり、足元の金属の隙間から遠い水面が見える。宙に浮きながら、檻の中にいる。
慎也はペダルを踏みながら、その奇妙な感覚を噛み締めた。
外の風景が格子越しに見えた。瀬戸内の島々が低く横たわっていた。白い航跡を引きながら進む貨物船が遙か下に見えた。その大きさが、ここから見ると玩具のようだった。縮尺が狂う。自分がどの高さにいるのかが、身体の感覚と目の情報とでずれる。
橋を渡りきると、因島に入った。
空気が変わったとは感じなかったが、道路の質感が変わった。アスファルトの色が少し濃く、砂が多く混じっている気がした。坂が増えた。向島よりも山がちで、道がうねっていた。木々が道に迫り出し、日差しを遮っていた。
島の内側に入るほど、静かになった。
風が木の間を通り、その音だけが続いた。
因島の中心部は、かつて造船で栄えた町の名残を持っていた。
海沿いの道を走ると、大きな造船所のドックが見えた。向島でも見たが、ここの規模は大きかった。クレーンが何基も空に突き出て、ドックの中に船体の一部が見えた。鉄板を叩く音が、風に乗って断続的に届いた。その音は規則正しくなく、思い出したように鳴り、止み、また鳴った。金属の重い音が空気を揺らすたびに、慎也は現実の中に引き戻される感覚があった。
向島でも感じた感覚だったが、ここではより強かった。
尾道を離れてからの時間は、どこか夢の中を歩いているようだった。渡し船に乗り、島に渡り、宿に泊まり、また橋を渡る。過去を置いてきたような錯覚があった。造船所の音は、そういう錯覚を許さなかった。ここで働いている人間がいる。鉄を叩き、船を作り、締め切りがあり、給与があり、疲れて帰る人間が。世界は慎也の内側の事情に関係なく、動いている。
商店街に入ると、シャッターの多さが目についた。
尾道の商店街とも似ていたが、尾道のそれには観光地としての整えられた寂しさがあった。ここの寂しさは、もっと直截だった。栄えた時代の建物の骨格が残ったまま、中身だけが抜けていた。魚屋だったと思われる店、鮮魚の値段表がまだ窓に貼られたままの店、看板だけが残って屋根が傷んでいる店。時間が、ここでは少し違う速度で流れているように見えた。
慎也は自転車を停め、しばらく歩いた。
路地を曲がると、八重垣神社への参道があった。石段が続き、その両側に古い灯篭が並んでいた。正月の飾りがまだ残っていた。参道の石畳は苔むしていて、湿っていた。上から水が細く流れていた。どこかの排水か、山からの湧き水か判断できなかったが、その細い流れが石畳の上で光っていた。
誰もいなかった。
参道の脇に梅の木が一本あり、二、三輪だけ花が開いていた。一月の終わりにしては早い。白い小さな花が、灰色の空の下でひっそりと咲いていた。誰かに見せるためではなく、咲く時期が来たから咲いている。それだけのことが、じんわりと胸に来た。
昼食を食べようと、港近くの食堂に入った。
引き戸を開けると、カウンターだけの小さな店だった。壁に手書きのメニューが貼ってあり、定食の種類が三つだけ書かれていた。先客がひとりいた。
二十代の前半、おそらく二十二か三。細身で、少し猫背だった。テーブルに原稿用紙が広げられていた。手書きの文字がびっしりと書かれている。定食を食べながら、それを読み返していた。時々、鉛筆で何かを書き加えていた。
慎也は少し離れた席に座り、焼き魚定食を頼んだ。
青年は慎也が入ってきても顔を上げなかった。原稿に集中していた。その集中の深さが、傍目にも伝わった。周囲の音が聞こえていないわけではないだろうが、届いていない。そういう集中だった。
慎也はかつて、何度もそういう人間を見た。
締め切り前の作家が、喫茶店や図書館でそういう顔をしていた。世界から少し隔絶した顔。原稿の中にいる顔。三枝拓海も、そういう顔をしていた。最初に会ったとき、喫茶店のカウンターで原稿を読み返していた。慎也が声をかけるまで、気づかなかった。
定食が来た。
魚は鯛だった。皮がよく焼かれて香ばしく、身がほろりとほぐれた。添えられた香の物は大根と白菜で、ぬか漬けの酸味が効いていた。味噌汁は赤出汁で、豆腐が入っている。
青年がページをめくる音がした。
慎也は食べながら、横目でその原稿を見た。原稿用紙という形式が目を引いた。今時、手書きで原稿用紙に書く人間は少ない。
青年は見られていることに気づいていないようだった。
食事を終えて勘定を払おうとしたとき、青年が顔を上げた。
目が合った。
青年は言った。
「もしかして、原稿、見えてましたか」
「少し、気になったもので」
慎也は正直に答えた。
「小説とか、お好きですか」
「昔は仕事で読んでいました」
青年は少し目を細めた。
「仕事で、ということは、編集者ですか」
「でした」
慎也は答えた。
「今は違います」
「でした、か」
青年はその言葉を繰り返し、それから、
「読んでもらえませんか」
と言った。
慎也は驚いた。警戒心がない、というより、そういう計算が最初からないように見えた。見知らぬ元編集者に、今書いたばかりの原稿を読んでくれと言う。
「読んでも、参考になるかどうかわかりません」
「かまいません」
青年は原稿用紙を慎也の前に差し出した。
「読んでもらえるだけでありがたいです」
慎也は手を伸ばし、受け取った。
十枚ほどの原稿用紙。字は丁寧ではなかったが、読める。タイトルは書かれていなかった。一行目から物語が始まっていた。
読みながら、慎也は様々なことを感じた。
正直なところ、上手くはなかった。
文章は荒く、言葉の選択に迷いが見えた。同じ形容詞が近い行に繰り返されていた。場面の転換が唐突で、読者が置いていかれる箇所があった。登場人物の心理の変化が見えにくかった。
しかし、何かがあった。
うまく言えなかったが、確かに何かがあった。書こうとしているものの輪郭が、荒削りな文章の隙間から見えた。言いたいことがある人間の書く文章は、下手でも熱を持っているものだ。その熱が文字の裏から伝わってきた。
慎也は最後まで読んだ。
原稿用紙を返しながら、何を言うべきかを考えた。
かつての自分なら率直に言っていた。未熟だと。技術が足りていないと。書き直しが必要だと。それが親切だと思っていた。
今は、言えなかった。
言えないのは、三枝拓海のことがあるからだ。三枝に言った言葉が、喉のあたりにつかえていた。あのとき慎也は率直に言った。売れない、書き直してほしい、読者に寄り添ってほしい。全部、本当のことだった。でも三枝はその言葉を受け取ってから、命を絶った。
「どうでしたか」
青年は聞いた。
慎也は言葉を選んだ。
「書こうとしているものが、伝わりました」
「でも、下手ですよね」
青年は言った。笑いながら。
「……技術的には、まだこれからだと思います」
「ですよね」
青年は原稿を受け取り、手元に引き寄せた。
「わかってます。自分でも読み返すとひどいと思う。でも」
青年は続けた。
「否定されても書きます」
その言葉が静かに、しかし、確かに食堂の空気に溶けた。
青年の名前は吉野賢二といった。
因島で生まれ育ち、高校を出てから島を出ず、今は造船所でアルバイトをしながら小説を書いているとのこと。
「公募には出しているんですか」
「出してます。三回落ちました」
「どの賞ですか」
吉野は文芸誌の新人賞の名前を言った。慎也が在籍していた出版社の賞ではなかったが、知っている賞だった。応募数の多い、狭き門だ。
「三回落ちても、続けているんですね」
「落ちたからって、書けなくなるわけじゃないので」
吉野は言った。
「船を叩いてる人たちがいるじゃないですか、ここの造船所で。あの人たちは船が完成するまで叩き続けますよね。完成しなかったとしても、次の船を叩く。それと似てると思っています」
「小説を船に例えるんですか」
「変でしょうか」
「いえ」
慎也は窓の外を見た。遠くに造船所のクレーンが見えた。
「ここにいると、そういう例えになります」
「島を出たいとは思わないんですか」
慎也は聞いた。
吉野は少し考えた。
「出た方が、書けるものが増えるかもしれない。でも、ここにいないと書けないものもある気がして」
「たとえば、どんなものでしょうか」
「この重さ、ですかね」
吉野は窓の外を見た。
「造船所の音とか、商店街の感じとか。子供の頃から知ってる匂いとか。東京に行ったら、その重さが消える気がする。消えてからじゃ、書けなくなるものがある」
重さという言い方が引っかかった。慎也が東京で持っていた重さは、ほとんど消えていた。仕事、人間関係、積み上げてきたキャリア。しかし、三枝拓海の重さだけは、消えなかった。尾道でも向島でも、ここ因島でも、その重さは一緒についてきた。
「重さがある方が、いいんですか」
「重さがないと、浮いちゃうじゃないですか」
吉野は言った。
「浮いた文章って、読んでて足がつかない感じがする」
慎也は何も言わなかった。
三枝拓海の文章が、頭の中に浮かんだ。百円で買った文庫本の、最初の一行。光というものは、見ようとした瞬間に逃げる。重さのある文章だった。足がついていた。それでも慎也は、売れないと言った。
食堂を出て、慎也は港の方へ歩いた。
吉野も同じ方向だったので、しばらく並んで歩いた。会話はなかったが、不自然ではなかった。吉野は時々、原稿用紙を取り出して、歩きながら何かを書き込んだ。
「歩きながら書くんですか」
「思いついたときに書かないと消えるから」
港に出ると、風が強くなった。
冬の瀬戸内の風は、東京の風と質が違った。湿り気を含んでいた。塩の味がした。慎也は立ち止まり、その風を受けた。
港の先に小さな島が見えた。
「あれは何という島ですか」
慎也は聞いた。
「四十島です。今は無人島です」
吉野は答えた。
「あの島に行ったことがありますよ。船を借りて」
「何をしに行ったんですか」
「小説の舞台にしようと思って」
「それで、小説になりましたか?」
「まだなってないです。でも、いつかはなる気はしています」
遠くの小島が、午後の光の中に浮かんでいた。人の住まない島が、瀬戸内には無数にある。それぞれに名前があり、それぞれに誰かが行ったことがある。でも、物語になった島は少ない。物語になるためには、誰かがそこで何かを見なければならない。
吉野は見ようとしていた。
慎也はかつて、見るかどうかを決める側にいた。
夕方、宿のベッドに横になりながら、慎也は天井を見た。
吉野賢二の原稿のことを考えた。
下手だった。それは事実だ。文章技術という点では入口にもいない。でも、何かがあった。その何かを、慎也はうまく言語化できなかった。言語化できないことが、編集者だった頃の自分には不安だった。言葉にできないものは、売れるかどうか判断できない。判断できないものは、動かせない。
でも、今は言語化できないことが正直さのような気がした。
あの原稿は、まだ育っていない。それだけのことだ。育てば言葉にできるかもしれない。あるいは、育たないかもしれない。それは今の時点ではわからない。
三枝拓海の二作目も、そういうものだったのかもしれない。
慎也が受け取った原稿は、一作目より荒かった。技術的な問題もあったが、何かを掴もうとして掴めていない感じがあった。慎也はそれを「未完成」と判断した。未完成のものを世に出すことできない。だから、書き直しを求めた。
しかし、三枝にとって、あの原稿の荒さは成長の途中だったのかもしれない。
もう少し時間があれば、何かが変わっていたかもしれない。
慎也は思う。しかし、思うだけで、その先がない。三枝はもういない。時間は戻らない。「もしかしたら」は何も変えない。
それでも、「否定は本当に必要だったのか」という問いが、頭の中に残った。
吉野賢二は言った。否定されても書きます、と。
一方、三枝拓海は書けなかった。
その違いはどこにあったのか。慎也の言い方の問題だったのか。三枝が持っていたもの、あるいは持っていなかったものの問題だったのか。それとも、慎也が三枝に言った言葉は、否定ですらなかったのか。もっと別の何かが、あの会議室で起きていたのか。
天井の木目が、ぼんやりと暗くなっていった。
窓の外で、造船所の音が最後にひとつ鳴り、止んだ。
翌朝、出発する前に慎也は港に戻った。
もう一度、昨日見た景色を見ておきたかった。
朝の港は昨日と違った。光の角度が違うから、影の向きが違う。船が増えていた。漁船がいくつか、夜のうちに戻ってきたらしかった。漁師たちが作業をしていた。ロープを束ね、魚籠を洗い、網を広げて確認していた。誰も慎也を見なかった。
四十島は今日も見えた。
小さな緑の盛り上がりが、水の上に浮かんでいた。
慎也はそれを見ながら、吉野の言葉を思い出した。島を見に行った。舞台にしようと思って。まだ、なってない。でも、いつかはなる気がする。
待てる人間と、待てない人間がいる。
慎也は待てない方だったと思う。結果を出すことを求める場所にいた。時間をかけることは、コストだった。育つかもしれないものを、育つまで待てなかった。
仕方のないことだったかもしれない。出版の仕事はそういうものだ。
ただ、それだけが理由だったのかどうか、慎也は確信を持てなかった。
自転車に乗り、次の島へのルートに入った。
因島の道を南へ走ると、生口橋への上り坂が始まった。坂を登りながら後ろを振り返ると、因島の町が見えた。造船所のクレーン、商店街の屋根、八重垣神社の森の緑、港の桟橋。昨日から今朝にかけて、自分が歩いた場所が一望できた。
橋の上に出ると風が強くなった。
格子の向こうに瀬戸内の海が広がった。白い陽光が水面に散って、どこまでも続いていた。
造船所の音は、聞こえなくなった。
それでも、慎也の体の中にはあの金属の重い音が残っていた。叩いて、叩いて、叩き続けることで船が出来る。出来ていなくても、次を叩く。
吉野賢二はおそらく、今日も書いているだろう。




