第十六章 祝島
祝島への船は、柳井港から出る。
慎也は山口へと向かった。
高松駅の朝は、まだ海の匂いをわずかに含んでいた。改札口の向こうで人の流れは絶えず動いているのに、不思議とそこには急ぎすぎない時間があった。
慎也は快速マリンライナーの入線するホームへ向かった。銀色の車体は、都市へ向かう列車でありながら、船のようにも思えた。海を越えるために生まれた乗り物は、鉄路上にありながらも、潮の気配を宿していた。
扉が開き、乗り込む。二階席へ続く狭い階段を上がると、まだ乗客はまばらで、窓側の席に容易に座ることができた。マリンライナーは動き出し、ホームに立つ人々の姿がゆるやかに後ろへ流れていった。
列車は速度を増し、橋へと至った。瀬戸大橋である。
マリンライナーは海の上を走る。車窓から、島々が点在していた。それらの島々は、これまで訪れた島を含んでいた。小さな島、大きな島、木々に覆われた島、岩肌を見せる島。それぞれの島は、孤独に見えながら、海峡によって互いを呼び合っているようにも見えた。
岡山へ近づくにつれ、海は遠のいていった。島々もまた後方へ退き、やがて、見えなくなった。
慎也は、窓に映る自分の顔を見た。ガラスの向こうの景色と、自分の曖昧な表情とが重なって見えた。旅とは、通り過ぎる風景によって、自分の輪郭が描き直されることなのかもしれない。
岡山から山陽本線で移動した。広島を過ぎる頃から、海が近くなった。車窓から見える海は、岡山から見た海とは違う顔をしていた。光の角度が違うのか、山の形が違うのか、同じ瀬戸内でも別の顔を持っているように見えた。
山口に着いた。柳井港は小さかった。
観光港ではなく、生活の港だった。待合所に自動販売機が一台、長椅子がいくつか。掲示板には漁業の組合の連絡事項、島の行事の案内、バスの時刻表が貼られている。
祝島行きの船は、午前の便はすでに出ていた。昼の便まで時間があった。慎也は待合所のベンチに座り、澄花から送信された画像ファイルを開いた。三枝の日記をスキャンした画像である。
伯方島のノートで見た筆跡と同じだった。細く、鉛筆で書かれた文字。間隔が詰まっていて、行と行の間が狭かった。急いで書いたのではなく、書くことが多かったからだと思った。言葉が溢れる人間の書き方だった。
読み始めた。
日記の最初の日付は、慎也が三枝に原稿を返した三ヶ月後だった。
最初の一行は、「また書いている」だった。
また書いている、ということは、書けない時期があったということだ。書けない時期があり、また、なんとか書き始めたということだ。
続きを読んだ。
「三ヶ月、ほとんど書けなかった。正確には、書こうとするたびに杉本さんの言葉が来た。このままでは難しい。人に届くものを書いてほしい。その言葉が来るたびに手が止まった。言われたことは本当のことだ。でも、本当のことが書けない理由になる」
慎也は、その箇所を三度読んだ。
本当のことが、書けない理由になる。
三枝は慎也を責めなていかった。本当のことだと書いた。そして、その本当のことが、書けない理由になっていた。
言葉の暴力は、嘘から来るとは限らない。
本当のことが傷つけることがある。
慎也は、昼の便に乗り込んだ。
船は、十人ほどしか乗れない小型船で、波をまともに受けた。
冬の上関海峡は、波が高かった。横から波が来るたびに、船体が大きく傾いた。慎也は手すりを握り、前を見た。
波は規則的ではない。方向も大きさも、予測できない。予測できない波が来るたびに、船はそれを受けて倒れそうになる。
祝島が見えてきた。
島全体が急傾斜で、海岸線が切り立っていた。男木島の集落と似た急傾斜だったが、男木島より大きく、家の数が多かった。
近づくにつれ、集落の様子が見えてきた。
石垣が高かった。
防風のために積まれた石垣が、家々を囲んでいた。冬の季節風から家を守るための石垣、何代にもわたって積み上げられた石垣が、集落全体を覆っていた。その石垣は、この島を守り続けてきた象徴のように見えた。
船は港に入った。
桟橋に降り立つと、潮と魚の匂いがした。漁港の匂いだった。小さな漁船が何艘か係留されていた。網が干されていた。冬の午後の漁港に、人の姿は少なかった。慎也は荷物を持ち、集落へ向かった。
宿は事前に予約していた。
島に一軒だけある民宿で、女将が電話口で「冬はほとんど客が来ないから、いつでも来ていいですよ」
と言っていた。宿に着くと、六十代の女性が出迎えた。
「遠くから来ましたね」
女将は言った。
「ええ。島を旅しています」
「この島に、何しに来たんですか」
女将は率直だった。
「島のことを知りたくて」
「どのことを」
「いろいろです。まだ、何を見るかが決まっていない部分もあります」
「正直な人ね」
女将は笑った。
「部屋に案内します」
部屋は二階だった。窓から港が見えた。係留された漁船が、夕方の光の中にあった。
荷物を下ろし、慎也は三枝の日記のコピーを続けて読んだ。
豊島の記述があった。
「豊島に行こうと思っているが、まだ行けていない。あの島で起きたことを、自分の書くものと並べたとき、どうなるかが怖い。書くことで生計を立てようとしている人間が、書かれることで傷ついた島のことを書いていいのだろうか」
三枝は豊島に行こうとして、行けなかった。行けない理由を、書くことへの問いとして自覚していた。書くことで生計を立てようとしている人間が、書かれることで傷ついた島のことを書いていいのか。
慎也が豊島で西川老人から受け取った問いを、三枝はすでに自分の中で抱えていた。抱えていて行けなかった。
慎也は行った。行けたのは、三枝の問いを知らなかったからだ。知っていたら、慎也も同じように行けなかったのかもしれない。
知らないことが行動を可能にすることがある。
夕食の後、集落を歩いた。
夜の祝島の路地は石垣に囲まれていた。
街灯が少なかった。月もなかった。石垣の上だけが、わずかに空の明るさを受けていた。路地は迷路のように入り組み、何度か同じ場所に戻った。
集会所らしき建物の前に広場があり、石が積まれていた。石の上に何かが書かれていた。
「上関原発建設、反対」
そのように刻まれていた。
慎也はしばらく、その石の前に立った。
祝島は、長年にわたって原子力発電所の建設計画に反対し続けている島だ。対岸の上関に、原発の建設が計画されている。数十年間、反対の声を上げ続けている。数十年間。その時間の長さが、石に刻まれた文字から伝わってきた。
翌朝、港の近くの食堂で朝食を食べていると、男が入ってきた。
六十代の、体格のいい男だった。作業着を着て、手が大きかった。食堂の女主人と顔なじみらしく、一言二言交わしてから、慎也の隣のテーブルに座った。
慎也が一人で食べているのを見て、声をかけてきた。
「旅の人か」
「ええ」
「何を見にここまで来た」
「島のことを知りたくて」
「どのことを」
宿の女将と同じ問いだった。
「来てみないとわからないことがあると思って来ました」
「正直だな」
男は言った。
「名前は」
「杉本といいます」
「儂は宮内だ」
男は言った。
「この島に生まれて、ずっとここにいる」
「原発の反対運動の石碑を見ました」
「ああ」
宮内は言った。表情が変わらなかった。怒るわけでも、身構えるわけでもなかった。
「それがどうした」
「続けているんですか、今も」
「続けている」
「何十年ですか」
「もう四十年以上になる」
慎也は聞いた。
「疲れませんか」
宮内は少し間を置いた。味噌汁を一口飲んでから、言った。
「ああ。でも、やめる理由がない」
食事の後、宮内と集落を歩いた。
宮内は歩きながら、島の話をした。押しつけがましくなく、聞かれたことだけ答えた。でも答えは短かった。短い言葉の中に、長い時間が詰まっていた。
「反対運動のことを、島の外の人間から書かれることはありますか」
「記者が来た。カメラマンが来た。作家も来た」
「どう書かれていましたか」
「英雄的に書かれることが多い。小さな島が大きな力に抗っている。そういう構図で書かれる」
「それは、正確ですか」
「正確ではない」
宮内は即座に言った。
「英雄的でも何でもない。ただ、自分たちの海が汚れるのが嫌だから反対している。それだけだ。構図を作られると、実態が消える」
「構図を作ることが、書く人間の習性かもしれません」
慎也は言った。自分に言い聞かせながら。
「習性なら、直せ」
宮内は言った。
その一言が、短く、鋭く来た。
「直すために来ました」
慎也は言った。
宮内は慎也を見た。しばらく見てから、前を向いた。
「書く人間が、みんな嘘をつくとは思っていない」
宮内はゆっくり言った。
「でも、書かれることが侵略になることがある。生きている人間の声を書いた人間の構図に閉じ込めることが侵略だ。声は、閉じ込められると本物ではなくなる」
宮内と共に集落の上の方まで登ると、段々畑があった。
畑の向こりに、上関の海峡が見えた。
対岸に山が見えた。あの山のどこかに、原発の予定地があるのだという。慎也には、どこかわからなかった。見えているが、どこかわからない。それが、この問題の一つの形なのかもしれないと思った。
宮内が隣に立った。
「あそこに作られれば、この海が変わる」
宮内は言った。感情を抑えた声だった。
「変わることへの抵抗ですか」
「変わること、ではない」
宮内は言った。
「変えられることへの抵抗だ。自分たちで変えるなら、それは生きることだ。俺達は外から変えられることへ抵抗している」
変えられることへの抵抗。
その言葉が、慎也には書くことの問題と重なった。
書くことで変えられてしまう。外から来た者が、その場所のイメージを書く。イメージが広まり、本物の代わりに流通する。それは、外から変えたということになる。
「書かれた瞬間から、ここは書かれたものになる。書かれる前の、書かれていないここは、消える」
「書かれていないここを、残すことはできますか」
「できない」
宮内は言った。
「だから、書くなとは言わない。書かれていないここは、書かれた瞬間に消える。消えることを知った上で、それでも書く価値があると思うなら、書け。でも、消えることから目を逸らして書くな」
その言葉を、慎也はノートに書いた。
「書かれていないここは、書かれた瞬間に消える。消えることを知った上で書け」
上関海峡は、静かだった。
冬の午後の光が斜めに落ちていた。光の帯が海峡を横切っていた。その光は、いつまでも変わらないもののように見えた。でも、変わる。人間の手によっても、時間によっても、変わる。変わらないように見えるものが変わる。
三枝はこの島に来たかったのだ、と慎也は思った。
書くことへの問いを、ここまで持ってきたかった。書くことで生計を立てようとしている自分が、書かれることで傷ついた場所に来て、何を感じるかを確かめたかったのだろう。
しかし、来られなかった。
問いは持っていた。来られなくても、問いは持っていた。
慎也は今、三枝が来られなかった場所に来ている。三枝の代わりに来た、とは思わなかった。でも、三枝の問いを持ちながら来た、とは思った。
三枝の問いと慎也の問いが、この海の前で重なった。
夕方、宮内との別れ際、彼は、
「書くなとは言わない」
と、また言った。
「でも、書く前にここに来た意味を考えろ。ここで何を見たかを考えろ。構図を壊すことができるかを考えろ」
「構図を壊す、というのは」
「書く前に決めた形に、見たものを押し込めるな。壊した構図の中に、本物が入る余地ができる」
これまでの旅で積み重ねてきた問いが、その言葉の中に収まった気がした。
構図を壊すこと。
決めた形に押し込めないこと。
宿に戻り、慎也は荷物をまとめた。
明日の朝の便で、島を出る。次は、周防大島だ。
封筒に書かれた、最後の島。この旅の最後の問いが待っている。
慎也はノートを開きいた。
「書く前に決めた形に、見たものを押し込めるな。壊した構図の中に、本物が入る余地ができる」
書いてから、三枝の日記のコピーを取り出した。
まだ読んでいないページを読もうとしたが、残りは周防大島で読むことにした。
最後の島で、三枝の最後の言葉を読む。
そうしたいと慎也は思った。
窓の外で、祝島の夜が始まっていた。
石垣の向こうに、海の暗さがあった。
反対の声を上げ続けてきた島が、静かに夜の中にいた。
抵抗することは、叫び続けることではなかった。静かに、石垣を積み続けることだった。
その静けさが、慎也には今夜、何よりも雄弁に聞こえた。




